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ニ四章
フラン先生の残したもの
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ふたりは同時に駆け出した。広場を出て、曲がりくねった迷路のような街道を通り、王立アカデミーの建つ真北の丘を駈け登った。
そこもまた灰色の世界だった。上品で美しい作りのアカデミーも石と化していた。ふたりが馴れ親しんだ中庭、追い掛けてくる先生の目をごまかすために逃げ込んだり、友だちと一緒にお昼を食べたりした中庭。
その中庭もいまでは石になっていた。
庭師のサリヴァンが丹精込めて育てた花壇のバラも、きれいに刈りそろえられた芝生も、すべて石。バラについているアブラムシまで髪の毛より細い足でバラの茎にしがみついたまま石と化していた。
たまらないさびしさと悲しさが込み上げてきた。ふたりは拳を握り締めた。血がにじむほど強く唇をかんだ。目には涙がにじんでくる。そのままへたり込み、泣きじゃくりたかった。
そんな弱気の虫を必死に追い払い、顔をあげる。
メソメソ泣き崩れている場合じゃない。そんなことしたってなんにもならない。いまはとにかくなにが起きたのか、なんでこんなことになったのか、そして、なによりも、どうすれば元に戻せるのか。それを知らなくてはならない。そのことを教えてくれるおとなたちを捜さなければならないのだ。
ふたりは校舎のなかに飛び込んだ。幸い、先生たちの追い駆けっこを毎日のように繰り広げてきたおかげで校舎の作りは知り尽くしている。校長室や宿直室はもちろん、倉庫から地下室まで全部、知っているのだ。それだけではない。どの時間に、どの先生が、どこでなにをしているか。そのすべてを把握していた。だって、当たり前でしょう? 先生たちの動きを知らなくてどうして目を盗んで脱走できるっていうの?
「この時間なら赤毛のフラン先生は準備室で次の授業に備えているはずよ」
「よし。まずはそこに行ってみよう」
ふたりは準備室に駆け込んだ。そこにはたしかにフラン先生がいた。
燃えるようなきれいな赤毛が目印だったフラン先生。若くて、きれいで、素直で、エルは大好きだった。
だって、あんなにからかいがいのある先生なんて他にいなかった。ちょっと挑発するだけでムキになって追いかけてくれた。
それが楽しくてたのしくていつもわざと見つかった。それでいて、育ちがよくて素直なせいか、すぐにごまかせた。自分のちょっとしたトリックにあっけなく引っ掛かって全然、見当ちがいの方向に駈けていくフラン先生の後ろ姿を見るのがエルは大好きだったのだ。
そのフラン先生はいまもたしかに準備室にいた。椅子に座り、ノートを広げ、ペンを手にしていた。ただし――。
石となった姿で。
「フラン先生まで……」
エルはさすがに涙ぐんだ。
いつもいつもからってばかりで本当に悪いことをした。一度ぐらい捕まってあげてればよかった。それから、一度ぐらい、ちゃんと授業を受けて、一度ぐらい、ちゃんと言うことを聞いて……ああ、あたしってホント、フラン先生の言うこと、なにも聞かなかった。遊び相手としか思っていなかった。こんなことになると知ってたらもっと……。
そう思うとたまらなく悲しかった。すすり泣きはじめた。
ニーニョはフラン先生の手元をそっとのぞきこんだ。フラン先生が石になっているのに元々、生命のない存在であるペンは元のままだ。精巧な石像が本物のペンを手にしている光景というのはなんとも不思議だった。ノートにはこう書かれていた。
『とうとう、事態は最悪の曲面を迎えようとしている。ダナ家とミレシア家がお互いに相手を滅ぼそうとしているのだ。なんと愚かなことだろう。この世界を守るためにはダナ家とミレシア家のふたつの血が必要だというのに。そのためにこそ両家はこのゾディアックの街にありつづけたというのに。三〇〇年にわたって両家のつづけてきた争う振りがとうとう、彼らの心を本物の敵意と憎悪で固めてしまうなんて。
もうこうなってはなにがあろうと彼らが協力することなど望めないだろう。《門》を開くためには両家の血とこのゾディアックの街が必要なのに。ダナ家のク・ブライアンもミレシア家のフィン・ブライアンも我々の言うことを聞こうとしない。お互いに対する敵意だけに支配されている。
もし、いままたデイモンの侵略があったら? こんな様でどうして世界を守ることができる?
ああ、それにしてもエルとニーニョはどこにいるのだろう? あのふたりは一緒にいるはずだ。はやく帰ってきてほしい。この争いを止められるとしたらあのふたりしかいないのだから。
一刻もはやくふたりを見付けなくては。どうしても伝えておかなければならないことがある。あのふたりがその血を交わらせることだけは防がなくてはならないのだから。
やはり、ケネス先生の言われているとおり、無理やり捕まえ、監禁してでも伝えておくべきだったのか。教師としてそこまではやりたくない。でも……。
校長に言われた通り、伝えるべきことを書いた本は図書室に用意しておいた。受け付けの上に置いてあるからすぐに見付けることはできるだろう。でも、そもそも、その本の存在をどうやって教える? どうやって、その本を読めと伝えればいい? ああ、はやく帰ってきてほしい。この口で直接、ふたりに伝えたい……』
文章はそこで終わっていた。
戦争が間近になり休校となったので記録を付けていたのだろう。その最中、石になってしまった、というわけだ。
「フラン先生。こんなにあたしたちのことで心配してたんだ……」
エルは涙ぐんだ。先生の心を知って胸が痛んだ。自分は本当に悪い子だった。もし、もう一度やり直すチャンスがあればきっといい子になるのに……。
「……エル」
ポン、と、ニーニョがエルの肩に手を置いた。
「おれの教室に行こう」
「教室?」
「ケネス先生はこの時間、授業があるんだ。あの融通の効かない頑固親父ならきっといまも教室にいるさ」
「うん、でも……」
――行ってなんになるの?
そう思う。
フラン先生が石になっているのだ。きっと、ケネス先生だって。ううん、このふたりだけじゃない。校長先生だって、他の先生たちだってきっと……。
――なのに、いまさら捜し回ってなんになるの?
エルの心からどんどん力が抜けていった。もうどうなってもいい。そんな投げやりな気持ちになっていた。そんなエルを支えたのはニーニョが悲しそうに言った一言だった。
「フラン先生を見ろよ。自分が石になっていくのがわかっていたと思うか?」
エルはハッとなった。わからないまま石になってしまったのだとしたらあまりにかわいそうだ。でも――。
自分が石像になるのがわかっていたとしたら、それはどんなに不安で恐いことだろう。
それに比べれば自分がいま感じている不安や心細さなんてなんだというのか。少なくとも自分には自由に動く体がある。生きて、動いているじゃない。だったら、きっとなんとかなる!
エルは笑顔を取り戻した。お日さまのような笑顔に力強い生命力がよみがえった。
「うん、行こう、ニーニョ。最後まで捜しつづけよう」
「それでこそエル、おれのきょうだい分だ!」
ふたりは音高く手と手を打ち合わせた。この生きとし生けるものすべてが石になってしまった世界でただひとつの生き物のたてた音だった。
ふたりはニーニョの教室へとやってきた。ニーニョの言った通り、ケネス先生はそこにいた。エルの思った通り、石となった姿で。
ケネス先生は椅子に座って腕を組み、目を閉じていた。眠っていたのではない。ニーニョにはそれがわかる。ケネス先生は頑固で融通が効かなくて、とにかくガチガチの石頭だ。まちがったって教室で居眠りするような先生じゃない。
きっとまっていたのだ。休校になったとはいえあるいは誰かひとりでも生徒がくるかもしれない。そのたったひとりの生徒のために授業をする準備をして。その証拠に教科書と資料はちゃんとそろっていた。ニーニョが鼻をすすった。かすかに涙声になっていた。
「……ったく、こんなときまでらしすぎるよ、先生」
ふたりはそっとケネス先生に頭を下げた。それから、教室をあとにした。
校長室に向かった。きっと、無駄だろう。それはわかっていた。でも、もう、最後まであきらめるつもりはなかった。一生かけても捜し回り、きっと、世界を元に戻す方法を見付ける気になっていた。
校長室はある意味、校内で一番ふたりに馴染みのある場所だった。しょっちゅう校長に呼び出されては穏やかに――しかし、懇々と――諭されたものだ。頭のなかは次の冒険のことでいっぱいでなにひとつ聞いてはいなかったけど。
校長室の大きくて立派なドアはなんとなく威圧感があって好きになれなかった。でも、いまはなぜか懐かしい。
「失礼します」
校長に呼び出されたときのようにそう言ってドアを開けた。なかに校長はいた。いつもそうだったように窓の向こうを向いて両手を後ろに組んだ格好だ。いつもとちがうのはふたりが入っても決して振り向かないこと。身動きひとつすることのない石像となっていたことだった。
ふたりは静かに校長室のドアを閉めた。
それからも校内のいたるところを捜して回った。けれど、見つかるのは石像となった先生ばかり。先生だけではなく用務員のおじいさんや給食のおばさんまで石になっていた。そう言えば庭師のサリヴァンだけは見当らなかった。いつも庭でバラの世話をしていたはずなのに。きっと、急用かなにかでよそにいたのだろう。そこで石になってしまったのだ。もし、石になっていなければなにが起きたのかとここにやってくるはずなのだから。仮に石になっていなくてもサリヴァンは先生ではない。どうすればいいかなどきっとわからないだろう。
ふたりはいよいよ途方に暮れた。最後の頼みの綱だった先生たちも全員、石になってしまっている。これ以上、どうすればいい? あきらめるつもりはない。でも、なにをすればいい? なにができる? それがわからない。誰かに教えてほしかった。誰でもいいから助けて、と叫びたかった。
――おとななんて。
そう思っていた。
――あたしたちは自分たちだけでなんだってできる。おとなはバカだからそれがわからないんだ。だから、あんなに口うるさく言うんだ。
まったく、なんて生意気でうぬぼれていたことか。なんでもできる? なんにもできないじゃない。なにをすればいいのか見当もつかない。誰か教えてくれる人を捜して歩き回るだけ。小バカにしていたおとなたちをこんなにも恋しがっている。かつての自分が本当に憎らしくなり、恥ずかしくもなった。
「図書室に行こう」
ふいに、ニーニョが言った。
「図書室?」
エルは目をパチクリさせた。まわりの人はみんな意外に思うのだが、図書室はふたりにとって校長室と同じくらい馴染みの場所だった。
そこには世界各地の伝説や英雄物語をおさめた本や、辺境への旅行記などがたくさんあった。夢中になってそれらの本を読んではすっかり本の世界に入り込み、妖精の世界に紛れ込んだり、鬼の住む宮殿でともに暮らしたり、蛮族の群れと一緒になって斧を振り回し、アザラシを捕っている気分になったものだ。そして、そのたびに心に誓った。
――きっと、世界をまたにかける大冒険家になる!
いまではもう懐かしさすら覚える。家を捨てて野暮しをはじめてからまだ一月とたっていないのに。
その頃のことを思い出すと涙がにじんだ。
「フラン先生が書いてただろう?」
ニーニョが言った。
「『伝えるべきことを書いた本は図書室に用意しておいた』って。きっと、いまのおれたちに必要がことが書いてあるはずだ」
「そうか! 『受け付けの上』って書いてあったわね」
「ああ。行ってみよう」
「うん!」
ふたりは図書室に向かった。本はすぐにわかった。受け付けの上に一際、大きくて豪華な装丁のされた本があったのだ。
題名は『ゾディアック正史』
きっと、この本がフラン先生の書いていた本にちがいない。これを読めばきっとなにが起きたのか、どうすれば世界を元に戻せるのかわかるはずだ。フラン先生は困らせてばかりいた問題児のためにちゃんと必要なものを用意してくれていたのだ。
――ありがとう、フラン先生! それに、ごめんね。世界を元に戻したらきっといい生徒になるからね。
心のなかでそう誓い、エルとニーニョは本を読みはじめた。
そこもまた灰色の世界だった。上品で美しい作りのアカデミーも石と化していた。ふたりが馴れ親しんだ中庭、追い掛けてくる先生の目をごまかすために逃げ込んだり、友だちと一緒にお昼を食べたりした中庭。
その中庭もいまでは石になっていた。
庭師のサリヴァンが丹精込めて育てた花壇のバラも、きれいに刈りそろえられた芝生も、すべて石。バラについているアブラムシまで髪の毛より細い足でバラの茎にしがみついたまま石と化していた。
たまらないさびしさと悲しさが込み上げてきた。ふたりは拳を握り締めた。血がにじむほど強く唇をかんだ。目には涙がにじんでくる。そのままへたり込み、泣きじゃくりたかった。
そんな弱気の虫を必死に追い払い、顔をあげる。
メソメソ泣き崩れている場合じゃない。そんなことしたってなんにもならない。いまはとにかくなにが起きたのか、なんでこんなことになったのか、そして、なによりも、どうすれば元に戻せるのか。それを知らなくてはならない。そのことを教えてくれるおとなたちを捜さなければならないのだ。
ふたりは校舎のなかに飛び込んだ。幸い、先生たちの追い駆けっこを毎日のように繰り広げてきたおかげで校舎の作りは知り尽くしている。校長室や宿直室はもちろん、倉庫から地下室まで全部、知っているのだ。それだけではない。どの時間に、どの先生が、どこでなにをしているか。そのすべてを把握していた。だって、当たり前でしょう? 先生たちの動きを知らなくてどうして目を盗んで脱走できるっていうの?
「この時間なら赤毛のフラン先生は準備室で次の授業に備えているはずよ」
「よし。まずはそこに行ってみよう」
ふたりは準備室に駆け込んだ。そこにはたしかにフラン先生がいた。
燃えるようなきれいな赤毛が目印だったフラン先生。若くて、きれいで、素直で、エルは大好きだった。
だって、あんなにからかいがいのある先生なんて他にいなかった。ちょっと挑発するだけでムキになって追いかけてくれた。
それが楽しくてたのしくていつもわざと見つかった。それでいて、育ちがよくて素直なせいか、すぐにごまかせた。自分のちょっとしたトリックにあっけなく引っ掛かって全然、見当ちがいの方向に駈けていくフラン先生の後ろ姿を見るのがエルは大好きだったのだ。
そのフラン先生はいまもたしかに準備室にいた。椅子に座り、ノートを広げ、ペンを手にしていた。ただし――。
石となった姿で。
「フラン先生まで……」
エルはさすがに涙ぐんだ。
いつもいつもからってばかりで本当に悪いことをした。一度ぐらい捕まってあげてればよかった。それから、一度ぐらい、ちゃんと授業を受けて、一度ぐらい、ちゃんと言うことを聞いて……ああ、あたしってホント、フラン先生の言うこと、なにも聞かなかった。遊び相手としか思っていなかった。こんなことになると知ってたらもっと……。
そう思うとたまらなく悲しかった。すすり泣きはじめた。
ニーニョはフラン先生の手元をそっとのぞきこんだ。フラン先生が石になっているのに元々、生命のない存在であるペンは元のままだ。精巧な石像が本物のペンを手にしている光景というのはなんとも不思議だった。ノートにはこう書かれていた。
『とうとう、事態は最悪の曲面を迎えようとしている。ダナ家とミレシア家がお互いに相手を滅ぼそうとしているのだ。なんと愚かなことだろう。この世界を守るためにはダナ家とミレシア家のふたつの血が必要だというのに。そのためにこそ両家はこのゾディアックの街にありつづけたというのに。三〇〇年にわたって両家のつづけてきた争う振りがとうとう、彼らの心を本物の敵意と憎悪で固めてしまうなんて。
もうこうなってはなにがあろうと彼らが協力することなど望めないだろう。《門》を開くためには両家の血とこのゾディアックの街が必要なのに。ダナ家のク・ブライアンもミレシア家のフィン・ブライアンも我々の言うことを聞こうとしない。お互いに対する敵意だけに支配されている。
もし、いままたデイモンの侵略があったら? こんな様でどうして世界を守ることができる?
ああ、それにしてもエルとニーニョはどこにいるのだろう? あのふたりは一緒にいるはずだ。はやく帰ってきてほしい。この争いを止められるとしたらあのふたりしかいないのだから。
一刻もはやくふたりを見付けなくては。どうしても伝えておかなければならないことがある。あのふたりがその血を交わらせることだけは防がなくてはならないのだから。
やはり、ケネス先生の言われているとおり、無理やり捕まえ、監禁してでも伝えておくべきだったのか。教師としてそこまではやりたくない。でも……。
校長に言われた通り、伝えるべきことを書いた本は図書室に用意しておいた。受け付けの上に置いてあるからすぐに見付けることはできるだろう。でも、そもそも、その本の存在をどうやって教える? どうやって、その本を読めと伝えればいい? ああ、はやく帰ってきてほしい。この口で直接、ふたりに伝えたい……』
文章はそこで終わっていた。
戦争が間近になり休校となったので記録を付けていたのだろう。その最中、石になってしまった、というわけだ。
「フラン先生。こんなにあたしたちのことで心配してたんだ……」
エルは涙ぐんだ。先生の心を知って胸が痛んだ。自分は本当に悪い子だった。もし、もう一度やり直すチャンスがあればきっといい子になるのに……。
「……エル」
ポン、と、ニーニョがエルの肩に手を置いた。
「おれの教室に行こう」
「教室?」
「ケネス先生はこの時間、授業があるんだ。あの融通の効かない頑固親父ならきっといまも教室にいるさ」
「うん、でも……」
――行ってなんになるの?
そう思う。
フラン先生が石になっているのだ。きっと、ケネス先生だって。ううん、このふたりだけじゃない。校長先生だって、他の先生たちだってきっと……。
――なのに、いまさら捜し回ってなんになるの?
エルの心からどんどん力が抜けていった。もうどうなってもいい。そんな投げやりな気持ちになっていた。そんなエルを支えたのはニーニョが悲しそうに言った一言だった。
「フラン先生を見ろよ。自分が石になっていくのがわかっていたと思うか?」
エルはハッとなった。わからないまま石になってしまったのだとしたらあまりにかわいそうだ。でも――。
自分が石像になるのがわかっていたとしたら、それはどんなに不安で恐いことだろう。
それに比べれば自分がいま感じている不安や心細さなんてなんだというのか。少なくとも自分には自由に動く体がある。生きて、動いているじゃない。だったら、きっとなんとかなる!
エルは笑顔を取り戻した。お日さまのような笑顔に力強い生命力がよみがえった。
「うん、行こう、ニーニョ。最後まで捜しつづけよう」
「それでこそエル、おれのきょうだい分だ!」
ふたりは音高く手と手を打ち合わせた。この生きとし生けるものすべてが石になってしまった世界でただひとつの生き物のたてた音だった。
ふたりはニーニョの教室へとやってきた。ニーニョの言った通り、ケネス先生はそこにいた。エルの思った通り、石となった姿で。
ケネス先生は椅子に座って腕を組み、目を閉じていた。眠っていたのではない。ニーニョにはそれがわかる。ケネス先生は頑固で融通が効かなくて、とにかくガチガチの石頭だ。まちがったって教室で居眠りするような先生じゃない。
きっとまっていたのだ。休校になったとはいえあるいは誰かひとりでも生徒がくるかもしれない。そのたったひとりの生徒のために授業をする準備をして。その証拠に教科書と資料はちゃんとそろっていた。ニーニョが鼻をすすった。かすかに涙声になっていた。
「……ったく、こんなときまでらしすぎるよ、先生」
ふたりはそっとケネス先生に頭を下げた。それから、教室をあとにした。
校長室に向かった。きっと、無駄だろう。それはわかっていた。でも、もう、最後まであきらめるつもりはなかった。一生かけても捜し回り、きっと、世界を元に戻す方法を見付ける気になっていた。
校長室はある意味、校内で一番ふたりに馴染みのある場所だった。しょっちゅう校長に呼び出されては穏やかに――しかし、懇々と――諭されたものだ。頭のなかは次の冒険のことでいっぱいでなにひとつ聞いてはいなかったけど。
校長室の大きくて立派なドアはなんとなく威圧感があって好きになれなかった。でも、いまはなぜか懐かしい。
「失礼します」
校長に呼び出されたときのようにそう言ってドアを開けた。なかに校長はいた。いつもそうだったように窓の向こうを向いて両手を後ろに組んだ格好だ。いつもとちがうのはふたりが入っても決して振り向かないこと。身動きひとつすることのない石像となっていたことだった。
ふたりは静かに校長室のドアを閉めた。
それからも校内のいたるところを捜して回った。けれど、見つかるのは石像となった先生ばかり。先生だけではなく用務員のおじいさんや給食のおばさんまで石になっていた。そう言えば庭師のサリヴァンだけは見当らなかった。いつも庭でバラの世話をしていたはずなのに。きっと、急用かなにかでよそにいたのだろう。そこで石になってしまったのだ。もし、石になっていなければなにが起きたのかとここにやってくるはずなのだから。仮に石になっていなくてもサリヴァンは先生ではない。どうすればいいかなどきっとわからないだろう。
ふたりはいよいよ途方に暮れた。最後の頼みの綱だった先生たちも全員、石になってしまっている。これ以上、どうすればいい? あきらめるつもりはない。でも、なにをすればいい? なにができる? それがわからない。誰かに教えてほしかった。誰でもいいから助けて、と叫びたかった。
――おとななんて。
そう思っていた。
――あたしたちは自分たちだけでなんだってできる。おとなはバカだからそれがわからないんだ。だから、あんなに口うるさく言うんだ。
まったく、なんて生意気でうぬぼれていたことか。なんでもできる? なんにもできないじゃない。なにをすればいいのか見当もつかない。誰か教えてくれる人を捜して歩き回るだけ。小バカにしていたおとなたちをこんなにも恋しがっている。かつての自分が本当に憎らしくなり、恥ずかしくもなった。
「図書室に行こう」
ふいに、ニーニョが言った。
「図書室?」
エルは目をパチクリさせた。まわりの人はみんな意外に思うのだが、図書室はふたりにとって校長室と同じくらい馴染みの場所だった。
そこには世界各地の伝説や英雄物語をおさめた本や、辺境への旅行記などがたくさんあった。夢中になってそれらの本を読んではすっかり本の世界に入り込み、妖精の世界に紛れ込んだり、鬼の住む宮殿でともに暮らしたり、蛮族の群れと一緒になって斧を振り回し、アザラシを捕っている気分になったものだ。そして、そのたびに心に誓った。
――きっと、世界をまたにかける大冒険家になる!
いまではもう懐かしさすら覚える。家を捨てて野暮しをはじめてからまだ一月とたっていないのに。
その頃のことを思い出すと涙がにじんだ。
「フラン先生が書いてただろう?」
ニーニョが言った。
「『伝えるべきことを書いた本は図書室に用意しておいた』って。きっと、いまのおれたちに必要がことが書いてあるはずだ」
「そうか! 『受け付けの上』って書いてあったわね」
「ああ。行ってみよう」
「うん!」
ふたりは図書室に向かった。本はすぐにわかった。受け付けの上に一際、大きくて豪華な装丁のされた本があったのだ。
題名は『ゾディアック正史』
きっと、この本がフラン先生の書いていた本にちがいない。これを読めばきっとなにが起きたのか、どうすれば世界を元に戻せるのかわかるはずだ。フラン先生は困らせてばかりいた問題児のためにちゃんと必要なものを用意してくれていたのだ。
――ありがとう、フラン先生! それに、ごめんね。世界を元に戻したらきっといい生徒になるからね。
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