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六章
人間じゃない(2)
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トゥナは思わず叫んだ。身を起こした。喉元に突きつけられている太刀のことなど忘れていた。もし、太刀を突きつけているのが反応のにぶい半端者なら、声をあげる間もなく突き刺さり、死んでいたところだ。しかし、さすがに〝強いヒト〟。トゥナのとっさの行動にも反応して太刀を引いていた。おかげで、トゥナの喉にはかすり傷ひとつ付くことはなかった。
「アネモネ、逃げて! キオと一緒に……」
トゥナは叫んだが、アネモネは静かに首を左右に振っただけだった。
「いいの、トゥナ。いままでありがとう」
「アネモネ……」
トゥナの表情が悲しみに沈んだ。それはアネモネを守れない自分、アネモネに頼ってもらえない自分への悲しみだった。
アネモネはグリムを見た。ふれれば折れそうなほど細い体で、それでも、しっかりとプロの犯罪者に対峙していた。
「わたしはあなたと行くわ。わたしさえ戻ればいいんでしょう? その人には手を出さないで」
「ダメ!」
トゥナは叫んだ。身を起こそうとした。むさ犬の腕が動き、太刀の切っ先が眉間に突きつけられた。ただそれだけでトゥナは身動きがとれなくなった。
「黙りな、小娘」
グリムが言った。下卑た本性を剥き出しにして睨み付けている。
「あんまり騒ぐと、そのきれいな顔が台無しになるぜ。いくら色気がなくても、フランケンシュタインの怪物みたいな顔になるのはいやだろう?」
我ながら気の利いたことを言った。そう思ったのだろう。愉快そうに笑った。
グリムとしてはその一言でトゥナが怯え、おとなしくなると思っていたにちがいない。ところが、トゥナはおとなしくなどならなかった。動くことはできなかったけどその分、口を動かした。
「何、格好付けてんのよ、このコスプレ野郎!」
「コ、コスプレだと……」
さすがに、いま、この場でそんな言葉を聞くとは思っていなかったのだろう。グリムは顔を白黒させた。
「このド変態のサディスト野郎! どうせ、あんたなんて……」
そこから先につづいた悪口雑言は『何で二三歳の女がそんな言葉を知っているんだ⁉』と叫びたくなるようなものだった。たつぷり五分はつづいたその言葉の奔流にグリムは怒りを通り越してうろたえていたし、アネモネでさえ呆気にとられてトゥナを見つめている。むさ犬でさえやや引いてしまった印象があった。
言いたいだけ言うとさすがに疲れた。トゥナは肩で息をしながら押し黙った。
「く、くくくく……」
地の底からからわき出るような不気味な笑い声が響いた。グリムだった。サディストの本性を剥き出しにした笑みが張りついていた。
「……よくそこまで言ってくれたな。おれ様に向かってそんなことを言ったのはお前がはじめてだ。いいだろう。お前の言うとおり、ド変態のサディストとして振る舞ってやろうじゃないか……」
「やめて!」
アネモネが叫んだ。
ヒュッと音がしてむさ犬のもつ太刀がグリムの首もとに移動した。さすがにグリムもたじろいだ。むさ犬を見た。責める、と言うより抗議する口調で言った。
「な、何のつもりだ、むさ犬。雇い主に逆らう気か?」
「ニジュウロクは付いてくると言っている。目的は達した。この上、素人の娘を傷つけるなど性に合わん」
「な、何だと……」
「さっさと連れて行け。おれは契約以外のことはやらん」
「ぐぐっ……」
グリムはむさ犬を睨んだ。何とも憎々しそうな視線だが、逆に言えば憎むことしかできない、と言うことだ。しょせん、抵抗できない相手をいたぶるだけの卑劣なサディスト。自分より強い相手に実力行使などできるはずもなかった。
「ふ、ふん、まあいい。こんな小娘に付き合っている暇はない。商談は迫っているのだからな。こい、ニジュウロク!」
「その人に手を出さない?」
「ああ、約束してやる」
ほとんどヤケクソという感じでグリムは叫んだ。本音ではそんな約束、破ってやろうと思っているのは見え見えだったが、喉元に太刀を突きつけられたままではそう言うしかなかった。
「わかったわ」
アネモネはうなずいた。自分からグリムのもとに歩いて行った。
「だめ、アネモネ!」
トゥナは叫んだ。身を起こしてアネモネを捕まえようとした。ヒュッと音を立てて太刀が振るわれた。再びトゥナの眉間に切っ先が突きつけられていた。
むさ犬の冷徹な視線がトゥナを射貫く。それだけでトゥナは身がすくみ、動けなくなった。
グリムはアネモネの腕をつかむと歩き出した。引きずる必要はなかった。アネモネは自分からおとなしく付いていったからだ。振り返った。トゥナを見た。優しく微笑んだ。
「いままでありがとう。楽しかったわ」
その一言に――。
トゥナの心臓はドクンと鳴った。
「早くこい!」
グリムが苛立った声をあげた。グリムはアネモネを連れて部屋を出て行った。トゥナはその間はわずかも動けなかった。永遠とも思える数分が過ぎた。むさ犬が太刀を引いた。鞘に収めた。ボソリと呟いた。
「お前が戦士でないのが残念だ」
ふわり、と、むさ犬の体が浮きあがった。後方に飛んだのだ。三メートル近い巨体が体重のない者のように舞った。
窓から外へと降り立った。その動きの美しさ、軽やかさにトゥナは一瞬、目を奪われた。我に返った。立ちあがった。窓に近づいた。外を見下ろした。そこには大型のフライングカーが停まっていた。一度に十数人が乗れる『空飛ぶ車』と言うより『空飛ぶ船』とでも言った方がいいレベルのやつだ。その周りを、グリムの手下らしい十数人の人間たちが囲んでいた。
ちょうど、グリムが乗り込もうとしているところだった。アネモネはと言えばもはや腕も捕まれていない。それでも、逃げ出す素振りさえ見せずにグリムの後につづいてフライングカーに乗り込んだ。それを見たときの悔しさと言ったら……!
ゴリッ、と、トゥナは唇を噛みしめた。むさ犬が、手下の男たちがフライングカーに乗り込んだ。ふわり、と、フライングカーが浮きあがった。動き出した。森の奥深く目指して飛んでいった。
「アネモネ!」
トゥナが叫んだ。もちろん、返事などあるわけがない。トゥナは唇を噛みしめた。唇から血がにじんだ。窓枠をつかむ両手にあらん限りの力を込めた。
「……見てなさいよ、このままじゃすまさないわ!」
生かしておいたことを後悔させてやる!
映画の主人公のようなことを口にして、トゥナは身をひるがえした。ブリュンヒルト号の操縦席に向かおうとした。そのとき――。
「トゥナ!」
すっかり忘れていた相手の声がした。キオだった。キオがいつの間にか部屋のなかに入ってきていた。いかにも気の弱そうな、オロオロした表情を浮かべている。
トゥナが怒りを爆発させた。
「キオ! 何してたのよ⁉」
「な、何って……」
「何で、今のいままで出てこなかったのよ⁉」
「む、無茶言うなよ。相手は〝強いヒト〟だ。おれなんかが出て行ったって君を助けるなんて……」
「あんたがいきなり一〇万馬力を発揮して敵をやっつけてくれることなんて期待してないわよ! でも、アネモネを連れて逃げるぐらいはできたでしょ! 何で、むざむざアネモネをあいつらに渡しちゃったのよ⁉」
「そ、それは……」
「ああ、もういいわ! とにかく! あいつらを追いかけてアネモネを連れ戻す! 手伝って!」
そう叫んで背を向ける。走り出そうとした。その背にかけられたのはトゥナが想像もしていなかった言葉だった。
「や、やめろよ……」
ピタリ、と、トゥナの足が止まった。振り向いた。
――何て言ったの?
表情がそう言っていた。
キオは泣き出しそうな顔になっていた。まるで、母親に捨てられようとしている五歳児のように頼りない表情だった。
「やめろよ。危ないよ、そんなの……」
トゥナはマジマジとキオを見た。大きく深呼吸した。そうでもしないと何を言うか自分でもわからなかった。
「キオ」
と、静かに言った。
ビクリ、と、キオは身を震わせた。
「それ、本気で言ってるの?」
「だ、だって……」
キオは泣きそうな表情のまま言った。
「あいつらはプロの犯罪集団じゃないか。そんなやつらと関わるなんてどうかしてるよ。おれたち一般人のすることじゃない。騎士団に連絡して、後は任せればいいじゃないか」
「アネモネをあいつらに連れて行かせろって言うの⁉」
「し、仕方ないじゃないか……。アネモネは〝美しいヒト〟なんだ。そのために作られた『商品』なんだ」
「キオ……」
「な、なあ、もう忘れようよ。あんな子供、ほんの数日前までいなかったんじゃないか。全部、忘れればいいんだ。そうすれば、もとの暮らしに戻れる。また、この農場で平和に暮らせるんだ。な、そうしよう、もう放っておこう」
「キオ……」
キオを見つめるトゥナの顔に浮かんでいたのは、もはや怒りですらなかった。苦い失望の色があるだけだった。
「……キオ。あなたはやっぱりロボットよ。人間じゃないわ」
「トゥナ!」
「年端もいかない女の子がひどい目に遭わされようとしているのよ。それを忘れろなんて言えるわけがない。人間ならね」
トゥナは背を向けた。走り出した。キオは手を伸ばした。届くはずもない。物理的な距離以上にそこには巨大な崖が広がっていた。
キオの表情がゆがんだ。見捨てられる恐怖だった。
「トゥナ……おれは君が好きなんだ!」
叫んでいた。ピタリ、と、トゥナの動きが止まった。振り返った。キオがいかにも泣きそうな顔でトゥナを見つめていた。弱々しい声で言った。
「……わかってるよ。おれみたいな役立たず、君にふさわしくない。でも、君だけだったんだ。誰からも役立たずと言われて、見下されてきたおれをまともに扱ってくれたのは。この世で君だけがおれを必要としてくれた。嬉しかった。だから、おれは君のために働いてきたんだ。その君に危険な真似をして欲しくないんだ……」
そう告げるキオの表情は思いの真摯さを告げていた。それでも――。
クルリ、と、トゥナはキオに背を向けた。
「トゥナ!」
叫ぶキオにトゥナは静かに答えた。
「あたしは……子供を見捨てるような卑怯者に好かれたくない」
そう言い捨てて、トゥナは走り去った。
「アネモネ、逃げて! キオと一緒に……」
トゥナは叫んだが、アネモネは静かに首を左右に振っただけだった。
「いいの、トゥナ。いままでありがとう」
「アネモネ……」
トゥナの表情が悲しみに沈んだ。それはアネモネを守れない自分、アネモネに頼ってもらえない自分への悲しみだった。
アネモネはグリムを見た。ふれれば折れそうなほど細い体で、それでも、しっかりとプロの犯罪者に対峙していた。
「わたしはあなたと行くわ。わたしさえ戻ればいいんでしょう? その人には手を出さないで」
「ダメ!」
トゥナは叫んだ。身を起こそうとした。むさ犬の腕が動き、太刀の切っ先が眉間に突きつけられた。ただそれだけでトゥナは身動きがとれなくなった。
「黙りな、小娘」
グリムが言った。下卑た本性を剥き出しにして睨み付けている。
「あんまり騒ぐと、そのきれいな顔が台無しになるぜ。いくら色気がなくても、フランケンシュタインの怪物みたいな顔になるのはいやだろう?」
我ながら気の利いたことを言った。そう思ったのだろう。愉快そうに笑った。
グリムとしてはその一言でトゥナが怯え、おとなしくなると思っていたにちがいない。ところが、トゥナはおとなしくなどならなかった。動くことはできなかったけどその分、口を動かした。
「何、格好付けてんのよ、このコスプレ野郎!」
「コ、コスプレだと……」
さすがに、いま、この場でそんな言葉を聞くとは思っていなかったのだろう。グリムは顔を白黒させた。
「このド変態のサディスト野郎! どうせ、あんたなんて……」
そこから先につづいた悪口雑言は『何で二三歳の女がそんな言葉を知っているんだ⁉』と叫びたくなるようなものだった。たつぷり五分はつづいたその言葉の奔流にグリムは怒りを通り越してうろたえていたし、アネモネでさえ呆気にとられてトゥナを見つめている。むさ犬でさえやや引いてしまった印象があった。
言いたいだけ言うとさすがに疲れた。トゥナは肩で息をしながら押し黙った。
「く、くくくく……」
地の底からからわき出るような不気味な笑い声が響いた。グリムだった。サディストの本性を剥き出しにした笑みが張りついていた。
「……よくそこまで言ってくれたな。おれ様に向かってそんなことを言ったのはお前がはじめてだ。いいだろう。お前の言うとおり、ド変態のサディストとして振る舞ってやろうじゃないか……」
「やめて!」
アネモネが叫んだ。
ヒュッと音がしてむさ犬のもつ太刀がグリムの首もとに移動した。さすがにグリムもたじろいだ。むさ犬を見た。責める、と言うより抗議する口調で言った。
「な、何のつもりだ、むさ犬。雇い主に逆らう気か?」
「ニジュウロクは付いてくると言っている。目的は達した。この上、素人の娘を傷つけるなど性に合わん」
「な、何だと……」
「さっさと連れて行け。おれは契約以外のことはやらん」
「ぐぐっ……」
グリムはむさ犬を睨んだ。何とも憎々しそうな視線だが、逆に言えば憎むことしかできない、と言うことだ。しょせん、抵抗できない相手をいたぶるだけの卑劣なサディスト。自分より強い相手に実力行使などできるはずもなかった。
「ふ、ふん、まあいい。こんな小娘に付き合っている暇はない。商談は迫っているのだからな。こい、ニジュウロク!」
「その人に手を出さない?」
「ああ、約束してやる」
ほとんどヤケクソという感じでグリムは叫んだ。本音ではそんな約束、破ってやろうと思っているのは見え見えだったが、喉元に太刀を突きつけられたままではそう言うしかなかった。
「わかったわ」
アネモネはうなずいた。自分からグリムのもとに歩いて行った。
「だめ、アネモネ!」
トゥナは叫んだ。身を起こしてアネモネを捕まえようとした。ヒュッと音を立てて太刀が振るわれた。再びトゥナの眉間に切っ先が突きつけられていた。
むさ犬の冷徹な視線がトゥナを射貫く。それだけでトゥナは身がすくみ、動けなくなった。
グリムはアネモネの腕をつかむと歩き出した。引きずる必要はなかった。アネモネは自分からおとなしく付いていったからだ。振り返った。トゥナを見た。優しく微笑んだ。
「いままでありがとう。楽しかったわ」
その一言に――。
トゥナの心臓はドクンと鳴った。
「早くこい!」
グリムが苛立った声をあげた。グリムはアネモネを連れて部屋を出て行った。トゥナはその間はわずかも動けなかった。永遠とも思える数分が過ぎた。むさ犬が太刀を引いた。鞘に収めた。ボソリと呟いた。
「お前が戦士でないのが残念だ」
ふわり、と、むさ犬の体が浮きあがった。後方に飛んだのだ。三メートル近い巨体が体重のない者のように舞った。
窓から外へと降り立った。その動きの美しさ、軽やかさにトゥナは一瞬、目を奪われた。我に返った。立ちあがった。窓に近づいた。外を見下ろした。そこには大型のフライングカーが停まっていた。一度に十数人が乗れる『空飛ぶ車』と言うより『空飛ぶ船』とでも言った方がいいレベルのやつだ。その周りを、グリムの手下らしい十数人の人間たちが囲んでいた。
ちょうど、グリムが乗り込もうとしているところだった。アネモネはと言えばもはや腕も捕まれていない。それでも、逃げ出す素振りさえ見せずにグリムの後につづいてフライングカーに乗り込んだ。それを見たときの悔しさと言ったら……!
ゴリッ、と、トゥナは唇を噛みしめた。むさ犬が、手下の男たちがフライングカーに乗り込んだ。ふわり、と、フライングカーが浮きあがった。動き出した。森の奥深く目指して飛んでいった。
「アネモネ!」
トゥナが叫んだ。もちろん、返事などあるわけがない。トゥナは唇を噛みしめた。唇から血がにじんだ。窓枠をつかむ両手にあらん限りの力を込めた。
「……見てなさいよ、このままじゃすまさないわ!」
生かしておいたことを後悔させてやる!
映画の主人公のようなことを口にして、トゥナは身をひるがえした。ブリュンヒルト号の操縦席に向かおうとした。そのとき――。
「トゥナ!」
すっかり忘れていた相手の声がした。キオだった。キオがいつの間にか部屋のなかに入ってきていた。いかにも気の弱そうな、オロオロした表情を浮かべている。
トゥナが怒りを爆発させた。
「キオ! 何してたのよ⁉」
「な、何って……」
「何で、今のいままで出てこなかったのよ⁉」
「む、無茶言うなよ。相手は〝強いヒト〟だ。おれなんかが出て行ったって君を助けるなんて……」
「あんたがいきなり一〇万馬力を発揮して敵をやっつけてくれることなんて期待してないわよ! でも、アネモネを連れて逃げるぐらいはできたでしょ! 何で、むざむざアネモネをあいつらに渡しちゃったのよ⁉」
「そ、それは……」
「ああ、もういいわ! とにかく! あいつらを追いかけてアネモネを連れ戻す! 手伝って!」
そう叫んで背を向ける。走り出そうとした。その背にかけられたのはトゥナが想像もしていなかった言葉だった。
「や、やめろよ……」
ピタリ、と、トゥナの足が止まった。振り向いた。
――何て言ったの?
表情がそう言っていた。
キオは泣き出しそうな顔になっていた。まるで、母親に捨てられようとしている五歳児のように頼りない表情だった。
「やめろよ。危ないよ、そんなの……」
トゥナはマジマジとキオを見た。大きく深呼吸した。そうでもしないと何を言うか自分でもわからなかった。
「キオ」
と、静かに言った。
ビクリ、と、キオは身を震わせた。
「それ、本気で言ってるの?」
「だ、だって……」
キオは泣きそうな表情のまま言った。
「あいつらはプロの犯罪集団じゃないか。そんなやつらと関わるなんてどうかしてるよ。おれたち一般人のすることじゃない。騎士団に連絡して、後は任せればいいじゃないか」
「アネモネをあいつらに連れて行かせろって言うの⁉」
「し、仕方ないじゃないか……。アネモネは〝美しいヒト〟なんだ。そのために作られた『商品』なんだ」
「キオ……」
「な、なあ、もう忘れようよ。あんな子供、ほんの数日前までいなかったんじゃないか。全部、忘れればいいんだ。そうすれば、もとの暮らしに戻れる。また、この農場で平和に暮らせるんだ。な、そうしよう、もう放っておこう」
「キオ……」
キオを見つめるトゥナの顔に浮かんでいたのは、もはや怒りですらなかった。苦い失望の色があるだけだった。
「……キオ。あなたはやっぱりロボットよ。人間じゃないわ」
「トゥナ!」
「年端もいかない女の子がひどい目に遭わされようとしているのよ。それを忘れろなんて言えるわけがない。人間ならね」
トゥナは背を向けた。走り出した。キオは手を伸ばした。届くはずもない。物理的な距離以上にそこには巨大な崖が広がっていた。
キオの表情がゆがんだ。見捨てられる恐怖だった。
「トゥナ……おれは君が好きなんだ!」
叫んでいた。ピタリ、と、トゥナの動きが止まった。振り返った。キオがいかにも泣きそうな顔でトゥナを見つめていた。弱々しい声で言った。
「……わかってるよ。おれみたいな役立たず、君にふさわしくない。でも、君だけだったんだ。誰からも役立たずと言われて、見下されてきたおれをまともに扱ってくれたのは。この世で君だけがおれを必要としてくれた。嬉しかった。だから、おれは君のために働いてきたんだ。その君に危険な真似をして欲しくないんだ……」
そう告げるキオの表情は思いの真摯さを告げていた。それでも――。
クルリ、と、トゥナはキオに背を向けた。
「トゥナ!」
叫ぶキオにトゥナは静かに答えた。
「あたしは……子供を見捨てるような卑怯者に好かれたくない」
そう言い捨てて、トゥナは走り去った。
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