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二五章
さらば、伝説
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「以上が、霧と怪奇に彩られたこの都でも最も人気の高い伝説のひとつ、三人のジャックの戦いのすべてです」
私のすぐそばで案内人の女性が、印象的な八重歯を覗かせながらそう語ってくれた。
私は彼女の言葉を聞きながら、地面に広がる古い染みを見つめていた。
――これが、バネ足ジャックと切り裂きジャックの死闘の際に流れた血の跡か。
「はい。そう言われております」
案内人の女性はそう答えた。つまり『本当かどうかは分からない』というわけだ。しかし、そんなことはどうでもいい。ドームの外の世界はすでに夜の闇に包まれている。私はこの都で過ごす最初の日を三人のジャックの伝説を聞くことで過ごしてしまったわけだ。私はその物語を堪能した。充分に酔いしれた。それだけで充分だ。
――バネ足ジャックと切り裂きジャック。かつて、霧のロンドンを騒がせたふたりの怪人が現代のこの都市に蘇り、戦ったわけか。火星開発のための実験封鎖都市として作られたこの霧と怪奇の都に。
「はい。さようでございます」
――奇妙なこともあるものだ。
「ふふ。この都市においては別段、不思議なことではありませんわ」
――他にも同じような伝説がある?
「もちろんでございます。霧と怪奇に彩られた幻想の都市。それこそが実験封鎖都市ザ・ロンドンでございますから」
――伯爵ケニーはその後、どうなったのかな?
私はそう尋ねていた。
ふふふ、と笑いながら案内人の女性は答えた。
「彼は死ぬまで彼でしたわ」
そして、時計を見ながら言った。
「あら、もうこんな時間。申し訳ございません。お客さまの大切な一日を私などの話でつぶしてしまうとは……」
――いや。
私は首を横に振った。とても興味深い話だった。聞けてよかった。私はそのことを案内人の女性に告げた。
彼女は八重歯を覗かせながら微笑んだ。
「さようですか。それでしたらなによりです。さて、今日はもうお帰りになられますか? それともこのまま夜の都を散策いたしますか?」
私は帰ることにした。ふたりの、いや、三人のジャックの伝説を聞いたあとでは酒を飲んで盛り上がる気にはなれなかった。今夜は静かに彼らの伝説にひたりたい。
「かしこまりました。では、ホテルに戻るといたしましょう。明日はもっときちんとした案内をさせていただきます」
期待している。
私はそう告げて馬車に乗り込んだ。そこで、ふと気づいた。切り裂きジャックことヴィクター・フランケンシュタインの作った一対の怪物はその後、どうなったのだろう?
「さあ」
それが案内人の女性の答えだった。
「誰も知りません。そもそも、そんな怪物が本当にいたのかどうか。何しろ、すべてはケネス・シーヴァースの日記からのみ再現されたことですから。たた……」
――ただ?
「噂ではミズ・ジェニファー・ウェルチが亡くなられたとき、その両目が何者かにもち去られたとか……」
――……。
ふふ、と案内人の女性は微笑んだ。
「噂です」
あるいはそれは噂ですらなく、案内人の女性が私を楽しませるために付け足した作り話だったのかも知れない。だが――。
彼女の言葉に私はひとつの空想を広げた。広大なる森林地帯に建つ一軒の屋敷、誰からも忘れられたヴィクター・フランケンシュタインのその屋敷のなか、失われた主人の跡を継いだコンピュータが怪物を完成させたのではないか。その一対の怪物はいまもその屋敷のなかで暮らしているのではないか。冒険やそれにともなう喜びを知らない代わりに、欲望や憎悪も知らず、原初の幸せのまま、ふたりきりで……。
――埒もない。
私は頭を振った。
馬車は走り出した。
そして、私が霧と怪奇の都をはなれる日がやってきた。案内人の女性に礼を言い、別れの挨拶を交わした。
「ぜひまたお越しくださいませ。霧と怪奇の都は一〇〇の怪奇と一〇〇〇の伝説を持ってお客さまをお待ちいたしております」
その挨拶を聞き終えたとき、ふと気がついた。まだ彼女の名前を聞いていなかった。私は彼女に尋ねた。彼女はニッコリと微笑んだ。
「ルーシー・ウェステンラ……」
印象的な八重歯を覗かせながら言った。
「ドラキュラ女伯爵と申します」
終
私のすぐそばで案内人の女性が、印象的な八重歯を覗かせながらそう語ってくれた。
私は彼女の言葉を聞きながら、地面に広がる古い染みを見つめていた。
――これが、バネ足ジャックと切り裂きジャックの死闘の際に流れた血の跡か。
「はい。そう言われております」
案内人の女性はそう答えた。つまり『本当かどうかは分からない』というわけだ。しかし、そんなことはどうでもいい。ドームの外の世界はすでに夜の闇に包まれている。私はこの都で過ごす最初の日を三人のジャックの伝説を聞くことで過ごしてしまったわけだ。私はその物語を堪能した。充分に酔いしれた。それだけで充分だ。
――バネ足ジャックと切り裂きジャック。かつて、霧のロンドンを騒がせたふたりの怪人が現代のこの都市に蘇り、戦ったわけか。火星開発のための実験封鎖都市として作られたこの霧と怪奇の都に。
「はい。さようでございます」
――奇妙なこともあるものだ。
「ふふ。この都市においては別段、不思議なことではありませんわ」
――他にも同じような伝説がある?
「もちろんでございます。霧と怪奇に彩られた幻想の都市。それこそが実験封鎖都市ザ・ロンドンでございますから」
――伯爵ケニーはその後、どうなったのかな?
私はそう尋ねていた。
ふふふ、と笑いながら案内人の女性は答えた。
「彼は死ぬまで彼でしたわ」
そして、時計を見ながら言った。
「あら、もうこんな時間。申し訳ございません。お客さまの大切な一日を私などの話でつぶしてしまうとは……」
――いや。
私は首を横に振った。とても興味深い話だった。聞けてよかった。私はそのことを案内人の女性に告げた。
彼女は八重歯を覗かせながら微笑んだ。
「さようですか。それでしたらなによりです。さて、今日はもうお帰りになられますか? それともこのまま夜の都を散策いたしますか?」
私は帰ることにした。ふたりの、いや、三人のジャックの伝説を聞いたあとでは酒を飲んで盛り上がる気にはなれなかった。今夜は静かに彼らの伝説にひたりたい。
「かしこまりました。では、ホテルに戻るといたしましょう。明日はもっときちんとした案内をさせていただきます」
期待している。
私はそう告げて馬車に乗り込んだ。そこで、ふと気づいた。切り裂きジャックことヴィクター・フランケンシュタインの作った一対の怪物はその後、どうなったのだろう?
「さあ」
それが案内人の女性の答えだった。
「誰も知りません。そもそも、そんな怪物が本当にいたのかどうか。何しろ、すべてはケネス・シーヴァースの日記からのみ再現されたことですから。たた……」
――ただ?
「噂ではミズ・ジェニファー・ウェルチが亡くなられたとき、その両目が何者かにもち去られたとか……」
――……。
ふふ、と案内人の女性は微笑んだ。
「噂です」
あるいはそれは噂ですらなく、案内人の女性が私を楽しませるために付け足した作り話だったのかも知れない。だが――。
彼女の言葉に私はひとつの空想を広げた。広大なる森林地帯に建つ一軒の屋敷、誰からも忘れられたヴィクター・フランケンシュタインのその屋敷のなか、失われた主人の跡を継いだコンピュータが怪物を完成させたのではないか。その一対の怪物はいまもその屋敷のなかで暮らしているのではないか。冒険やそれにともなう喜びを知らない代わりに、欲望や憎悪も知らず、原初の幸せのまま、ふたりきりで……。
――埒もない。
私は頭を振った。
馬車は走り出した。
そして、私が霧と怪奇の都をはなれる日がやってきた。案内人の女性に礼を言い、別れの挨拶を交わした。
「ぜひまたお越しくださいませ。霧と怪奇の都は一〇〇の怪奇と一〇〇〇の伝説を持ってお客さまをお待ちいたしております」
その挨拶を聞き終えたとき、ふと気がついた。まだ彼女の名前を聞いていなかった。私は彼女に尋ねた。彼女はニッコリと微笑んだ。
「ルーシー・ウェステンラ……」
印象的な八重歯を覗かせながら言った。
「ドラキュラ女伯爵と申します」
終
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