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「知らない」という響きの愚かさ
しおりを挟むベルと歩いてどのくらい経ったのかしら。
私は、今も彼女と並んで階段を降り続けている。
あたりを見渡しても、何も見えない。
暗くてよくわからない場所だけど、下を見ると階段のようなものがある気がするの。歩くことで精一杯すぎて、そこに階段があるとはっきり言えない感じ。不思議よね。靴音はするのに。
「ねえ、ベル。あの……」
「何」
「……なんでもないわ」
無言に耐えられなくなって話しかけたけど、いつもと違う彼女に何を言ったら良いかわからなくなって口を閉ざした。なんというか、無駄な話はしちゃいけないような空気感がある。
握っている手も冷たいし、いつものように軽口を叩いちゃダメな気がして。
本当は、ここはどこなのか、どうして私はここに来たのかを聞きたかったの。
でも、ベルにとってそんなことはどうでも良いかもしれない。私のせいで、無駄な説明をさせたら申し訳ないわ。
そう思っていると、ベルが小さくため息をついてきた。
「はあ……。別に、あんたのことが面倒なわけじゃないからね」
「え?」
「元々、私はこういう性格なの」
「……じゃあ、今まで無理させちゃってた?」
「そんなことないわよ。あの空間に居る私と今ここに居る私が違うだけ」
「……?」
「理解しなくて良いわよ。そういうもんだって思ってくれれば」
「わかったわ……」
よくわからないけど、「そういうもん」って思っておけば良いってことよね。
ベルが、こういう嘘をつくとは思えない。それこそ、面倒くさくなって話さなきゃいけないことも話してくれないなんてことはありそうだけど。
私が返事をすると、また無言の時間がやってきた。コツコツと靴音だけが反響する時間が。
嫌ではないけど、靴音に紛れて先ほどから何か話し声が聞こえてくるの。それが、ちょっとだけ煩わしい。
『アリスお嬢様、お食事の準備が整いました』
『ドミニク様がいらっしゃったから、あんたは出てこないでよね』
『おい、バロン様に提出する仕事はどうした!』
『アリスお嬢様、カモミールが収穫時期ですがどうされますか?』
『この男好き! 身体使って誘惑してるんでしょう! 汚らわしい』
『陛下が……の、あ……、………』
『……ったか……い……ら、カジノ…………』
その声は、まるで頭の中で反響しているようにワンワンと鳴っている。
一つ一つを聞こうとすると、すぐに頭痛として襲いかかってくるから本当は耳に入れたくない。でもそれ以外の音がないから、どうしても聞いちゃうのよ。
吐きそうになって立ち止まろうとするも、それをベルは許してくれない。
ガンガンと鈍器で頭を殴られているような頭痛が押し寄せる中、私はいつの間にか涙を流しながら階段を降りていた。
「耳を貸さないで」
「……え?」
「あんたは、この下にある扉を潜れば良いの。そうすれば、イリヤたちが待ってくれてるから」
「現実に戻れるってこと?」
「そうよ」
「……」
「どうしたの? まさか、ここで昔話に浸りたいわけじゃないでしょう?」
そうやってベルと会話をしながらも、激しい頭痛で視界が揺らいでいく。繋がれていない方の手で何度も何度も瞳を擦っているのに、全然意味がないの。
それは、階段を降りれば降りるほど顕著になっていく。油断すると、ベルが何を話しているのかがわからなくなりそう。
頭痛が襲う中、私は無理矢理思考を動かしてあることを口にした。
「……ベルは、戻らないの? そろそろ、みんなベルに会いたいと思う。私も、ずっと居座るつもりないし、だったら今が入れ替わるタイミングじゃない?」
別に、私はベルを喜ばせようと思ってそう言ったわけじゃない。でも、多少は喜ぶかなって思った。
だって、会えなかった人たちに会えるのよ? ベルだって、やりたいことあるだろうし、今替ればパトリシア様と話す機会だってある。
なのに、ベルは前を向きながら首を横に振っただけだった。
表情は確認できないけど、そこに喜びは感じられない。むしろ、なんだか余計なことを言ってしまった気さえした。
「……あんたは、5年前のことを知りたくないの? 理不尽に殺されて、それで終わりで良いの?」
「良いというか……。知ったところで、もう既に死んでるわけだし。私が知りたいってだけで、貴女の自由を奪うのは違う気がするの」
「そこは別に良いわよ。そうじゃなくて、あんたが知りたいか知りたくないかを聞いているの」
「ん……急に言われても、よくわからないわ」
あ、そっか。
いつもベル見て良いなって思ってたけど、彼女って私みたいにウジウジ考えないで即決できるのよね。そういうところに、憧れというか尊敬というかそんな感情を抱いていたのかも。今の会話で、気づいちゃった。
パパッと結論を出して次に進もうとするその姿勢は、自分の中にないから眩しく見えるのよ。
それに比べて、私は何? せっかく身体を借りてるのに、目的も忘れてみんなとワイワイ楽しんでるだけなんて。
だから、こうやって正面から聞かれた時、答えが出ないんだわ。ベルの時間も無駄にしてるって自覚をちゃんと持たないと。お遊びじゃないんだから。
「まあ、言われたってわからないわよね。ごめん」
「謝らないで。私が優柔不断なだけだから」
「そんなことない。あんたにはあんたのペースってもんがあるだけ」
「……ありがとう」
なのに、ベルは優しい。
とても冷たい声色なのに、私のために言葉を選んでくれている。それが、よく感じられるの。やっぱり、いつものベルだわ。話し方なんて、些細な問題だった。
ベルは私のお礼に頷き、少しだけ歩くペースを早めた。
なぜか私には、それが印象的に映り込む。まるで、早く身体に戻ってと言っているような気がして。……都合が良すぎるか。居候の身が何言ってんのよ。
「私、アリスのこと好きよ。もちろん、友達としてね」
「あ、え……えっと。わ、私も、その……」
「照れてる。かわいいね、アリスは」
「そ、そんなことっ!」
「また、いつもの場所でお話しましょう。次は、パトリシア様のこと教えてね」
「……え?」
「あとね……」
ベルの言葉にアセアセしていると、不意に彼女が立ち止まった。
ワンテンポ遅れて立ち止まったけど、既に遅かったみたい。ベルの後ろを歩いていた私は、急に立ち止まれず彼女の前まで来てしまう。
そして、ガクッと膝から崩れ落ちる感覚に抗えず、ベルと繋がれていた手を離してしまった。
驚いてベルの顔を見たけど……やっぱり、表情というものがない。まるで死人のような顔色をして、真っ直ぐに私の目を見てくる。
一瞬だけ微笑んだと思ったけど、気のせいね。だって、そんな内容の会話は続かなかったんだもの。
「アリス。私はもう、死んでるのよ。……だから、戻れないの。黙っててごめんなさいね」
「え? 今、なんて……」
「私の都合であなたを生き返らせてしまったこと、申し訳なく思ってるわ。最初は、嫌がらせのつもりだったんだけど」
「ベル、どういう……キャッ!?」
次の瞬間、床がすっぽり抜けたかのように足場が無くなった。両手を大きく掻いて掴む場所を探すも、その努力は虚しい。やっと掴んだと思いきや、手が滑ってしまい床から離れてしまう。
私は、ベルが見守る中、真っ逆さまに落ちて行った。
目指していた扉の奥ではなく、下へ、下へ。
「……後継を産めない私には、あの優しい環境が毒なのよ」
もう少し頑張ってその場に居続ければ、彼女の呟きが聞こえたかもしれない。その頬に流れる涙を、拭えたかもしれないのに。
この時の私には、それだけの力がなかったの。
***
今の今まで急降下していたのに、それは突然終わりを迎えた。
気づくとそこは、見慣れたグロスターのダイニング。周りでは、まるで私が見えていないかのように忙しなく使用人たちが行き交っている。
「……ハンナ、マリーナ、ドイット?」
『……』
『……』
『……』
近くに居た3人に声をかけたけど、思った通り彼女たちは私の声に反応しない。
でもそれが、私が見えていないのか、見えていて無視しているのかまではわからない。だって、彼女たちは彼女たちの都合で、私への接し方を変えていたから。
ハンナは、イラついたような態度で桶を持ってダイニングを出ていくところだった。
その桶を覗くと、湯気の出た液体がなみなみと注がれている。あれは、お湯? こんな昼間から、身体を拭くのかしら? まさか、誰か風邪を引いたとか……。心配だわ。
『……全く、奥様も昼間から』
『旦那様が居ないから良いだろ、別に』
『旦那様はご存知なのか?』
『さあ。どうせ、あっちだって同じようなことしてんだろ』
『違いねえ』
「……?」
マリーナたちは、そんなことを話しながらため息まじりにハンナの後を追ってダイニングを後にする。
会話的に、お母様が風邪を引いてるのかしら? でも、2人とも、お母様を心配するような態度ではない。もしかして、お父様が風邪を引かれてるとか。
心配になった私は、先に出て行ったハンナを追ってダイニングを出た。
廊下は、相変わらず悪趣味な成金を連想させるような置物が多い。
あれを購入した金額で、どれだけたくさんの領民が助かるのか……なんて、考えないのでしょうね。その計算を陛下から依頼されていたのは私ですもの、お父様とお母様が知る由もない。いくらその帳簿を見せたって、「偽善者!」だものね。取り合ってもらえたこともなかったし。
でもきっと、ベルのお父様お母様なら……。ううん、ここはグロスターですもの。フォンテーヌは関係ない。
『またシャルル様とですって……』
『まあ、シャルル様可哀想。断れないでしょう』
『そうよね。私、貴族じゃなくて良かったわ』
『でも、シャルル様になら抱かれてみたい』
『わかる! なんか、独特な雰囲気あるし力強そう』
廊下が真っ直ぐで良かったわ。すぐ、ハンナの後ろ姿を見つけられたもの。
急いでついていこうと早歩きしていると、前から来たメイドのリンとナナリーとぶつかりそうになった。というか、絶対ぶつかったと思ったのに、すり抜けるようにナナリーの身体を通った気がする。ってことは、前と同じく私の姿は誰にも見えてないってこと? これは、過去の話なの?
とりあえず、誰が風邪を引いているのか確認しましょう。私にも手伝えることがあるかもしれないし。
ハンナは……いたいた。あそこは、お母様のお部屋だわ。
『奥様、お持ちしました』
『今開けます』
私は、廊下の物陰に隠れてハンナを見ていた。
桶だけで大丈夫? 熱があるなら、水分も摂った方が良いんでしょう? そう、アインスが言っていたし。いえ、そもそも風邪じゃないのかも。どっちにしろ、お母様の無事を確認したいわ。現実ではどこにいらっしゃるのかわからないから、せめてここではね。
そう思いながら覗いていると、部屋の中から聞き慣れた声がした。あの声、最近も聞いたことがあった気がする。
でも、おかしい。なぜ、お母様の部屋から男性の声が聞こえてくるの? お父様でもお祖父様でも、お兄様でもない。お母様も、何かお仕事の打ち合わせをしていたってこと?
よくわからないまま見守っていると、扉の奥から目を疑うような人物が出てきた。
『入ってどうぞ』
『ありがとうございます。奥様のお身体を拭くものをお持ちしました』
『今、終わったところだから。好きにして』
『承知しました。では、失礼いたします』
「ドミニク?」
そうなの。
薄暗い部屋の中から、上半身をさらけ出したドミニクが出てきたの。
……多分、彼だと思う。恥ずかしくて、直視できないから絶対とは言えないけど。でも、声は彼のもの。どうして、ドミニクは服を着ていないの?
案の定、私のことは見えてないみたい。
だって、彼が私を無視する理由はないし。声に反応しないってことは、そういうことでしょう? いつもなら、話しかけるとお仕事のお話を聞いてくれるし。
それに、ドミニクの雰囲気がいつもと違って怖い。
記憶にある優しい彼でも、私を誘拐したあの乱暴そうな彼でもない。どこか鋭い視線で、まるで獲物を狩るような……そんな雰囲気を醸し出しながらも、無表情を決め込んでいる。感情を押し殺しているの? ちゃんと見たわけじゃないけど、私にはとても苦しそうに見えた。
「今のは、何……?」
ドミニクが、飲み物をこぼした? でも、それならお母様の身体を拭くのはおかしいわ。彼も濡れてしまったなら拭かなきゃ。でも、桶は1つだったし、2人分じゃなかった。
何があったの……?
私は、ハンナが消えた扉の前で立ち尽くす。
いくらでも中に入れたと思うけど、それをするだけの思考がなかったの。……いえ。自分の知らない何かが目の前にあるって事実に、足がすくんでしまった……と言った方が近いかもしれない。
ねえ、ベル、ジョン・ドゥさん。
早く現実に帰してよ……。
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