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他愛もないことに一喜一憂した、過去に囚われて

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 ミミリップ地方に足を踏み入れた俺は、以前来た時は何も思わなかったのに、ふとアリスお嬢様のことが頭に浮かんだ。
 ひたむきに書類へ向き合うあのお姿、たまに微笑むお顔、そして、誰よりも食べることがお好きで、美味しそうに召し上がる表情。ああ、懐かしい。思い出しただけで、頬が緩む。
 そう、彼女の好物は……。


***


 アリスお嬢様は、鴨肉がお好きだった。
 特に、バルサミコソースをかけた鴨肉のステーキを好んで召し上がる。あのニコニコとした表情は、メイド長のアンナや料理長のメアリーにいびられ疲弊していた雇われ当初の俺に、肩の力を抜かせてくれるもの。毎回、鴨肉がお夕飯に出る時は、何があっても急いでお仕事を片付けてお嬢様のお側にいた。
 一度だけ「好きなのですか?」と聞いたが、お顔を真っ赤にして「なんでわかったの?」と言った時は可愛らしかったな。どうやら、自分の好きなものを他人に知られるのが恥ずかしいらしい。だから、お嬢様だけダイニングではなく、自室で食べ物を召し上がるのかもしれない。

 それを知った俺は、今までで一番熱心に物事に取り組んだと思う。
 何をしたのかというと、お嬢様にありとあらゆる食べ物を差し上げたんだ。3度の食事はもちろん、アフタヌーンティや夜食まで用意した。最初は「いらないです」と言って目も合わせてくださらなかったのに、いつの間にか彼女の専属執事になっていた。

『アレン、今日はお夕飯持ってこなくて良いからね』
『ご体調が優れないのですか?』

 陛下の命で登録した紹介所からここに派遣されて3週間は、常に気を張って情報収集に勤めた。16の自分がどこまでできるのか、どこまで通用するのか何もかも不明な中、1人でグロスターの正体を探ってたんだ。
 前任だったクリステル様の話は、一切聞いていない。聞けば、未熟な俺は顔に出る。俺が知らないはずの過去の話を覚えていたら、それこそ怪しまれるだろう? だから、断った。

 この3週間、自分の足で掴んだ情報は、グロスターを黒と……真っ黒と教えてくれる。
 同じ領地に屋敷を持つ男爵からの賄賂、領民からの搾取、それに、職務放棄。どれを取っても、爵位剥奪は免れないほどのレベルだった。なぜ、領地を管理する侯爵は声をあげないのかの疑問は、屋敷を歩けば歩くほど顕著になる。
 屋敷の外から見れば、任された仕事は期限前に提出されているし、男爵と親友のように仲良く交流し、「普通の貴族」を印象付けてくるからか? 

 それが嘘で固められたもので、実際はグロスターが怖くて不正も見て見ぬふりしてるだけ……なんて、侯爵ならわかると思うが。だからほら、領民はグロスターの背中に向かって聞こえないように暴言を吐く。
 俺が見ても、グロスターは陛下直属機関の調べによって爵位剥奪、一家共々貴族社会追放は妥当なのに。

 でも、その暗闇に光が居たのは否定しない。

『ううん、元気よ。今日、お仕事で1つ失敗しちゃって。私のだけお夕飯がないの。だから、いつも通り私の分を持ってきてもらっちゃうと誰かのお夕飯が無くなっちゃうから、気をつけてね』
『……どんな失敗をしたのですか?』

 俺と同じ年齢の伯爵令嬢、アリス・グロスターお嬢様。このお方は、俺が知る16歳のご令嬢ではなかった。
 だって、そうだろう? この年齢なら、もっと身を着飾って他の令嬢とのお茶におしゃべりに忙しいはず。高級貴族が開催するお茶会という名の社交界デビューを目指して、そこにお呼ばれするために必死になって他の貴族との交流を取り繕い……そう、俺の姉さんのように、そうであるべきなんだ。
 嫌だ、面倒と言っておきながら、内心はそういう繋がりを楽しみにしている。そんな年頃のはずだろう?

 なのに、今目の前に居るアリスお嬢様は、分厚い本を片手に書き物をしている。俺と会話しながらも、心はその羊皮紙に向いているんだ。
 そんな姿を、ここに派遣されてきてから見なかった日はない。最初は、宮殿司書でも目指してままごとをしているのかと思った。でも、3日も見ていれば、それがままごとではないことがいやでもわかる。彼女は、伯爵家の仕事を1人でこなしていたんだ。

『領民の数を1人間違えちゃったの。ちょうど、書類を提出した日の午後に、流行り病でお亡くなりになったのですって。後で、手を合わせに行きたいのだけど……私が行ったところで、嫌がられるだけね』
『……お嬢様』

 それは、間違いというものではない。未来が見えていない限り、わかるはずもないことだ。なのに、お嬢様には……いや、グロスター伯爵か? には、仕事の失敗になるらしい。んな馬鹿な。王宮の仕事でも、そのミスはミスとも言えない。
 でも、お嬢様は自分がミスをした事実よりも、領民の死に心を痛めている。お優しいお方だ。この一帯の貴族、領民に嫌われているグロスターなのに。グロスター伯爵夫人と似たような容姿を持ちつつも、心までは似ても似つかない。

 そんなお嬢様は、悲しそうなお顔をしながらも筆を走らせていた。明日締め切りになる、会計報告書か。手伝ってやりたいが、使用人である俺がそういう書類の整理を得意としていることを知られたらまずい。とある地方に住む領民からの成り上がり男爵の嫡男、ということになっているのに、こんな複雑な計算ができたらおかしいだろう。
 どうにかしてやれないものか……。

『それに、今回は2日だけご飯なしなだけだから大丈夫』
『は!? 夕飯だけじゃなくて……ですか』

 おっと、驚きすぎて敬語が抜けるところだった。お嬢様がフレンドリーすぎるから、たまに敬語が抜けそうになるんだ。いけない、いけない。
 いや、そうじゃない。2日だと? 2日、このお方は食べ物を与えられないのか? それは、虐待だろう。

 なのに、目の前のお嬢様は「それが何?」みたいな顔して視線を本に向けている。

『シャロンが……えっと、前の私の専属侍女がいた時は、1週間ご飯もお風呂も入れない時がしょっちゅうあったもの。それに比べたら、2日くらい』
『……そ、そんなことが』

 シャロンとは、俺の前任のクリステル様のこと。
 彼女は、次期陛下の付き人と言われているので、名前を表に出すことが多いんだ。そんな人が、法で違反とされているスパイ行為をしたなんて知られたら大変だろう。ただでさえ、法を取り仕切っている元老院と王族の仲が悪いというのに。

 領民と貴族の上に立ちたい元老院と、一緒に国を作りたい王族では、そもそも仲良くしようという考えが無謀だ。それはわかってる。
 俺も、この仕事を終えたらクリステル様同様、陛下のお側に就く。その時、少しでもその溝をなくせるよう自分にできることをしたい。……なのに、元老院の神経を逆撫でするような行為をしていて、矛盾してると思うだろう? 俺も、最初はそう思っていたよ。王族は、元老院と仲良くする気はないと。

 でも、違ったんだ。
 本当の理由はわからないが、陛下は、この才能が環境のせいで埋もれていくことを恐れたのかもしれない。

『私が悪いんですもの、当然だわ。マドアス様に二度手間を食わせてしまったし』
『それが、彼らの仕事でしょう。お嬢様が気に病むところではありません』
『ありがとう、アレン。優しいのね』
『……』

 でも、手遅れかもしれない。
 すでに俺がここに到着した時には、お嬢様の性格がこうなっていた。褒めてもお世辞だと思われ、自分にはこんなことしかできないとの思い込みが激しすぎる性格にな。
 そりゃあ、こんな劣悪な環境に居たらそうなるか。これだけすごいことを毎日こなしているのに、誰も褒めてくれないどころか、お嬢様のことを見もしない。

 よくよく考えなくても、お嬢様はお世辞なしですごい人だろう。
 この歳で領民の水道料の計算ができるし、作物にも詳しい。それだけでなく、他地方からの領民を受け入れるための手順も完璧に把握している。大人でも難しいのに、だ。
 本来ならばグロスター伯爵が取り仕切る仕事なのに、それを俺と同じ16歳の人が全部1人でやっているなんてここに来るまで想像もつかなかった。しかも、人間の域を超えた完璧な仕事をする。
 これは、陛下が欲しがる天才的頭脳を持っているよ。スパイ行為をしてでも、その才能を確認したい気持ちはわからなくもない。

 きっと陛下は、これから何度かここを訪れグロスター伯爵と他愛のない会話をするだろう。しかし、心はアリスお嬢様を見てるに違いない。そうやって、彼女のことを知りながらスカウトを狙ってるんだ。
 ただ、今はまだ社交界デビューを果たしたか果たしてないかの微妙な年齢で、親の許可が必要だ。そんな美味しい話を金に目が眩んでいるグロスター伯爵たちが知ったらどうなるのか。そんなの、俺だってわかる。

『お嬢様、専属執事としてそれは許しませんよ』
『え?』

 思考を巡らせながら声をかけたせいか、少し怒ったような口調になったと思う。
 すると、ここに来て初めてアリスお嬢様がお顔をあげた。よく見ると、目元が赤い。1人で泣いたのだろう。その涙が、悔し泣きか悲し泣きか。日の浅い俺には判断がつかない。

 俺が近づくと、お嬢様はビクッと肩をあげて警戒し始めた。持っているペンに力が入っていることは、ここから見てもわかる。
 こんな反応だって、普通はしない。普通なら、「夕飯を摂らないなんて許さない」になるだろう。きっと、お嬢様の中では「仕事のミスは許さない」に変換されてるに違いない。

 だったら、俺がその性格を変えよう。
 もっと自信がつくように、甘やかそう。
 そうだ、最近知った好物を次の休みの日にでも購入するか。鴨肉は、生だと日持ちしないから干し肉にしてみよう。お嬢様は、召し上がるだろうか。

『お夕飯、お持ちしますので召し上がってください』
『でも、私の分はないってメアリーが』
『ありますよ。お嬢様がこうやってお仕事をするから、お屋敷に報酬が入り生活ができているのです。お嬢様は、もっと大きな顔をしても……良いのですよ』

 途中で、彼女自身を叱ってしまったような気持ちになりハッとした。別に俺は、お嬢様に怒りを感じているわけじゃない。むしろ、お嬢様が感じて良い怒りがないから怒っている感じで……って、自分で言ってよくわかっていない。
 なんて脳内で混乱していると、お嬢様は俺の言葉を聞いて少しだけ「心外だ」とでもいうような顔つきになった。言葉が強すぎたか? それは勘違いだ、俺はお嬢様の味方だから。

 そう言おうと口を開くと、その前にアリスお嬢様は眉を下げながら、

『……私って、そんなに顔が大きいの? さっきお腹が鳴ってお水をたくさん飲んだから、顔が浮腫んでるのかも』

 と、俺が思っていた「勘違い」の斜め上をいく勘違いを披露してくれた。

 このお嬢様は、強かで天然すぎる……。
 それが、お嬢様の専属になってわかったことだ。どこかエルザ様を感じる彼女と、早く一緒に王宮で仕事をしてみたいものだ。彼女の言葉に振り回されながら、仕事がしてみたいよ。

 ……もう、叶わないけどな。



***


「ここで待機しているように」
「はい」
「私も入って良いでしょうか」

 元老院に案内された場所は、牢屋の隣に位置した部屋……聴取室だった。
 サルバトーレ様が大人しく入るのを見ながらルフェーブル侯爵に話しかけると、すぐに許可をいただけた。普通なら、死刑囚となった彼は1人で居なきゃいけないのに。
 でも、私ならそんな決まり事をなかったことにできる。だって、私は……。

「どうぞ。ただし、罪人の付き人としてではなく、元老院の諜報機関所属クラリス・マクラミンとして入っていただこうか」
「承知しました、主」
「……クラリス?」

 だって、私は元老院所属のクラリス・マクラミン。諜報機関に所属する、合法的にスパイ活動のできる存在。
 だから、一緒に入れるの。

 でも、ごめんなさい。
 もう、貴方の知っているクラリスは居ないのよ。そんな顔してこっちを見ても、居ないものは居ない。

「……クラリス」

 私は、サルバトーレ様……いえ、サルバトーレ・ダービーの驚愕したような表情を横目に入れつつも、背筋を伸ばして、主であるルフェーブル侯爵に敬礼をする。


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