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まだ夢の中なら良かったのに
しおりを挟む静かな部屋の中、アインスの持つ試験管の中の液体が揺れ動いている。
医学的知識がない俺が見ても、その光景が何をしているのかさっぱりわからない。なのに、見入ってしまうのはなぜなのか。
『……毒性があってアルカリでこの匂い』
『それだけでわかるのですか?』
『何度も嗅いでいますからね。これは、ベラドンナでしょう』
『……はい、そうです』
『だから、宮殿侍医から受け取っていた薬を飲み続けていたのですね』
『はい。私は、体内にある毒と同じ毒を摂取し続けないと自家中毒で死ぬそうなので。でも、もう飲めないですよね。こうなったら』
自家中毒。
それは、彼女が自身の毒によって弱まっていく……ということか。毒を抜くなんて簡単だと思っていた反面、その言葉に驚愕するしかない。
アインスは、どう抜くつもりでいるのだろうか。表情を伺うに、特に不安はなさそうに感じる。
俺は、そんな光景をソファで座りながら見ていた。横になってろと言われたのだが、そうするとサレン様とアインスの居るベッドの方が見えないんだ。ただ寝ているだけだと、居づらいしな。
『すぐに同等の薬を作るのは難しいでしょうな。ストックなどはあるのでしょうか?』
『私は持っていないわ。ジャックからいつももらっていたから』
『では、医療室を後ほど拝見させていただきますね。1錠拝借してはいますが、サンプルとしては弱い』
『……私は、これからも薬を飲み続けるのですか?』
サレン様は、先ほどとは真逆の質問をアインスに向かってしている。
きっと、彼女の中で「飲まないと死ぬ」思いと「もう飲みたくない」という気持ちが交差しているのだろう。今まで、どんなことを思って飲み続けていたのか。それを考えるだけで、胸が締め付けられていく。彼女も、被害者だったということだ。
開け放たれた窓から吹く風は、どことなくそんな雰囲気を壊すかのように部屋を駆け巡る。風に香りなんて無いのに、なぜかとても新鮮で深呼吸したくなるほど美味と感じてしまった。
それほど、この空間に充満している毒が強いのだろうか。頭痛は治らないし吐き気もあるが、慣れは恐ろしい。先ほど解毒薬を飲んだこともあり、あまり気にならなくなっている。
それに、アインスはあんな近づいてもケロッとしてるなんてすごいな。手袋は装着しているが、マスクはしていない。なのに、顔色は良いし普通にサレン様と話している。あんな直近で。
それだけ、過去に毒を扱ってきたのか? だとすれば、すごいな。
『私は医療者なので、患者が望むコンディションにさせるのが仕事です。もし、貴女様が毒のない生活をしたいのであればそうしましょう。ただ、リスクはありますので、今のまま毒を食む生活を続けたいのでしたらそれも手助けできますよ』
『……私の気持ち次第ってことですか』
『はい。医療者とは、そう言うものなのです』
アインスは、毒を目の前にしてもいつも通りのおっとりとした話し方を変えない。きっと彼は、どんな時でも冷静沈着なんだろう。その精神力が羨ましい。
そんな声を聞いたサレン様の表情が、ゆっくりと崩れていく。
『……諦めなくて良いの?』
『貴女様が諦めたら、私も諦めざるを得ませんね』
『それは嫌だわ』
『なら、一緒に頑張りましょうか』
『……ええ、ええ。私、知ってることは全部話すわ。全部、この国に情報を差し上げます。だから……アインス』
『はい』
『……私を助けてください。もう、毒を飲む生活は嫌なんです。記憶のない時間を悔やむのも嫌なんです』
サレン様は、そう言って一筋涙をこぼされた。……いや、一筋だけじゃないか。堰を切ったように、次々と彼女の頬を濡らしていった。
その様子は、今まで生きてきた時間に我慢してきたものと思ってしまうほど感情の昂りが激しい。その涙さえ毒になるというのだから、どれだけ残酷な日々を送ってきたのだろうか。
懸命に涙がアインスの方へ行かないよう、サレン様は横を向き全身を震わせる。
その身を抱きしめてやれたら、どれだけ彼女の心が……俺の心が軽くなるのか。そう思ったと同時に、彼女がアリスお嬢様ではないと自身に鞭を打つ。
そもそも、彼女がアリスお嬢様を名乗ったのにも理由があるはずだ。それは、後で聞いてみよう。答えてくれる気がする。
『サレン様、私も協力します。情報をいただける代わりに、その身をお守りしましょう』
『……ありがとう、アレン』
『私も、全面的に貴女様をバックアップしましょう。ただ、サンプルはいただきますよ』
『サンプル?』
『はい。毒の強度を図るため、全身の体液をいただきます。それから、今までの生活のヒアリングに治験も』
『そこまでするのか……?』
『ええ。毒人間なんて、私も初めてですから。命の危険がない程度に色々試させていただきますよ』
『そのくらいなら良いわ。いくらでも協力します』
ソファから見たサレン様の顔は、今まで見たどの表情よりも凛々しく硬く決意した印象を与えてきた。先ほどまで泣いていたのが嘘のように、晴れやかな表情で前を向いている。
俺は、そんな表情をするアリスお嬢様を見ていたかった。でも、それが叶わないのはわかっている。
しかし、目の前に座る彼女はまだ間に合う。こんな、大人の都合で人生を無駄にするなんて2度とあってはならない。次こそ、この笑顔を守り抜こう。そのために、俺は鍛えてきたじゃないか。
『では、具体的なスケジュールを決めましょう』
『ええ。お願いします』
『もしかしたら、外出許可をいただくかもしれませんなあ』
『その辺りは、私が陛下に直談判します』
『それはありがとうございます、ロベール卿』
そう言って頭を下げたアインスが、羊皮紙と万年筆を取り出した。それを覗き込むサレン様は、微笑ましいほど子どものような無垢な表情をする。
この頭痛も吐き気も倦怠感も、全て彼女からもらったものなのにやはり俺には憎めそうにない。むしろ、支えてやりたいと思ってしまう。
のちに、その表情を思い出し「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の重みを感じるようになることを、今の俺はまだ知らない。
***
ベルと会話を終えた私は、眠い目を擦りながら現実へと戻ってきた。
目を開くと、眩しいほどの太陽光が私に降り注いでいる。びっくりして目を閉じ布団をかぶってしまったわ。どうして、カーテンが引かれてないの? 確か、寝る前に自分で引いたはずなのだけど……。
「!?」
寝る前の行動を思い出しながら布団をかぶりモゴモゴしていると、床に陶器が落ちたような鋭い音が響いてきた。その音で完全に目が覚めたわ。
私は、かぶっていた毛布をパッと取り去りそちらに目を向ける。
すると、そこにはメイド姿のイリヤがソーサーだけを持って立ち尽くしていた。よくよく見ると、床に散らばっているのがティーカップっぽい形をしている。
「……お、お嬢様?」
「おはよう、イリヤ」
「お、お、……お?」
「お?」
「お……」
「……お?」
え、待ってなにこのやりとり。
イリヤは、どうしてしゃべらないの? というか、私がしゃべれば良いのか。……なんて考えつつも、今なお「お」のやりとりが続いている。
とりあえず、私が抜け出しましょう。
「お、お、……お仕事元気?」
「……はい?」
あっ! 違う!
イリヤ、元気? って聞きたかったのに! どうして、先にお仕事が出てくるのよ私の馬鹿!
でも、とりあえず効果はあったみたい。
イリヤは、私の意味不明な言葉で正気に戻った。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。何かあったの? 私ったら、サヴィ様のことを放っていつの間にか眠ってしまったわ。彼の容態は……」
「またベルお嬢様とお話でもされていたのですか?」
サヴィ様の容態を尋ねると、それを無視してイリヤが話しかけてくる。会話のキャッチボールって難しいわ。今度、コミュニケーションを充実させる系の本を読まなきゃ。もちろん、イリヤもね。
……いえ、イリヤは必要ないかも。だって、私がベルとお話してきたことに気づいたんだもの。どうしてわかったのかしら?
そう思いつつベッドから降りると、「わあ、カップが割れてる! お嬢様、ベッドにいてくださいまし!」とイリヤが慌て出す。どうやら、今気づいたらしい。
「ベッドにいるわ。でも、どうして私がベルと話してたってわかったの?」
「だって、お嬢様がベッドに入られてからすでに3日が経っていますよ」
「……え?」
「以前の状態と似ていたので、旦那様たちにはアインスが「まだ身体が生活についていけてない」って誤魔化しておいてくれました」
「そうなの、ごめんなさいね」
ってことは、お仕事が溜まってしまってるわ。お部屋を歩けるようになったら、すぐにでも取り掛からないと。
いえ、でもその前に……。
私は、陶器の破片を拾い集めているイリヤへ再度質問を投げかける。
「ねえ、サヴィ様は? あれから、目を覚ましたの?」
なのに、イリヤは黙々と作業をするだけ。まさか、この距離で聞こえなかったってことはありえない。滑舌が悪いわけでも……多分ないし。
まさか、彼に何かあったのでは? そう思ってしまってもおかしくない場面よね。
イリヤの作業が一段落するのを待ってから、再度声をかける。
「ねえ、サヴィ様は……」
「……2日前に目を覚まされました。アインスによると、治療後の経過は順調とのことです」
「よかった……」
「そうでもありません」
「え?」
いつもは私が起きたらあれだけ騒ぐ彼女の声が沈んでいることに、今更ながら気づく。
イリヤがこんな沈んだ表情をするのも、珍しいわ。一体、どうしたの? 経過は順調なのでしょう?
それとも、まさか……。
「クラリスに何かあったの?」
「いえ。彼女はすぐに起き上がって今もずっとサルバトーレ様のお側にいらっしゃいます」
「そうなの。……じゃあ、何があったの? 何かあったのよね?」
「……」
「イリヤ?」
私は、床に再度足をつきながらイリヤの顔を見る。いつもなら、「まだ小さな破片があるので、ベッドにいてください!」って怒るのに。今日はそれすらない。
不思議に思って催促するように名前を呼ぶと、やっと口を開いてくれた。
でも、それは私の想像していたことを遥に超えるものだった。
「……ダービー伯爵家が、本国へ攻撃をした疑いでテロリストとして指名手配されました。もちろん、サルバトーレ様も例外ではありません」
「え?」
「先ほど僕も聞いたのですが、最近、城下町周辺の領民が使用する水道管へ毒が流されていたそうです。亡くなる方が多く、生き残っても後遺症が残る方も多いらしく。その毒を流したのが、ダービー伯爵の疑いがあると……」
「……今、伯爵はどちらに?」
「それが、行方がわからないのです。このお屋敷を出てから、ダービー伯爵夫人と共に消えてしまったようです」
「そんな……」
「サルバトーレ様は、クラリスさんと医療室でお過ごしになっております。が、時間の問題でしょう……」
「嘘よ……」
いまだに、部屋へは太陽光が差し込んでいる。
その光は、相変わらず眩しい。真っ暗な闇の入り口を照らしてくれるかのように、淀みなくこちらへ光を届けてくる。
私は、その光の中に身を起きながら、しばらく動けなかった。
イリヤの話が本当だとすれば、そんな大量殺人のようなことをしたダービー伯爵一家は処刑される。……サルバトーレ様も含め。
その事実が、大きすぎて受け止められない。
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