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彼の名前は、アレン・ロベール

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 充血した瞳、痩せ細った頬、それに、顔色だってまるで死人のような出立ち。よく見ると、ジャケットが所々ドス黒い色に染まっているわ。あれは、血……? 怪我をしてるの?
 そんなお兄様が、フラフラと彷徨うように、しかし、確実にこちらへ向かってくる。

 容姿が異常者のそれで、お兄様が目の前にいる驚きよりも恐怖が勝ってしまった。周囲の人たちが逃げ出す中、私はパトリシア様と一緒にどこへ逃げれば良いのかわからなくなる。
 イリヤに、どこに逃げるか指示を出さないと。イリヤに……。

「お嬢様、お許しください」
「え? わ!?」

 すると、後ろにいたイリヤから謝罪の言葉が聞こえてくる。……と、同時に身体が浮いた。何が起きているかわからない私は、恐怖に目を閉じることしかできない。

 暗闇の中、頭の後ろに温かい何かが当てられる。それがイリヤの手だとわかった時、私は彼女に抱き抱えられていることに気づいた。ということは……。

「ぐあ!」
「確保しろ!」

 ガシャーンと、大きな音が耳をつんざく。恐る恐る目を開けてみると、そこには横転した車椅子と倒れているお兄様の姿が。すぐに、騎士団の方々が取り押さえていたわ。
 どうやらイリヤは、私が乗っていた車椅子をお兄様に向かって勢いよく転がしたみたい。よく見ると、倒れたお兄様の足首付近が真っ赤な跡があるわ。……あれ? お兄様の足首が見えてる?

 容姿を気にするお兄様が、足首が出るような短いパンツを着るはずがない。サイズが合わないものは、すぐに捨てるような人よ。どうして……。

「お嬢様、大丈夫でしょうか」
「え、ええ……。パトリシア様は」
「私は大丈夫よ。ごめんなさい。知り合いで驚いてしまって、声を出してしまったわ」
「こちらこそ、ごめんなさい。ご無事で何よりです」
「イリヤは、反射神経がすごいわね」
「先ほどたんまり食べたので、イリヤは元気です。あと一発やりましょうか」
「い、いいわよ! これ以上は……」

 イリヤにしがみついてぼーっとしていると、パトリシア様が話しかけてきた。彼女は……うん、怪我はしてないわね。イリヤの冗談に笑っている。

 怪我でもさせてしまったら、彼女の侍女であるサヴァンに怒られてしまうところだった。今日だって、パトリシア様はお家に黙ってここに来ているわけだし……。

「お怪我はございませ……ん、か」
「あら、ラベル様。ご機嫌麗しゅう」

 3人で安堵していると、そこに騎士団……これは、第二騎士団ね。第二騎士団の青い制服を着た男性が、車椅子を押して近づいてきた。どうやら、パトリシア様の知り合いらしい。

 にしても彼、どうしたのかしら。パトリシア様と話しているのに、チラチラと私の方を見ては青ざめているわ。こっち見てるのに、視線が合ってない気がするし。

「……あ、え、えっと。その、お怪我は」
「大丈夫よ。どうしたの?」
「い、いえ。なんでもございません。それより、こちらお返しします」
「ベル嬢のよ。私のじゃないわ」
「は、はい! どど、どうぞ、こちらを」
「……? ありがとう」
「壊れているところはございません! で、では、私はこちらで失礼しますっ!」

 ラベル様と呼ばれた男性は、やっとこちらを向いてくれた。
 でも、とても腰が低いわ。ずっと頭を下げていて、まともに顔が見れない。

 私、子爵令嬢だからそんなヘコヘコしなくても大丈夫よ。
 確か、騎士団には伯爵以上の爵位を持つお家の人しかなれないって条件があったから。私より、爵位は上のはずなのにな。

 それを教えようとしたのに、ラベル様はパトリシア様に再度挨拶をしてそのまま、ジョセフお兄様を捉えた騎士団の方々へ合流して行ってしまった。
 本当、なんだったの? いえ、今はそれよりも……。

「イリヤ、おろして」
「少々お待ちください。どこか破損でもしていたら、お嬢様にお怪我させてしまいます」
「……そう」

 ここからじゃ、お兄様の様子が見えないのよね。
 なんだか、「待ってくれ! 話を!」といまだに抵抗しているみたい。声だけが聞こえるの。
 早く車椅子に座って、お姿だけでも見たいのだけれど。

 にしても、イリヤってば力ありすぎ。ずっと私のこと抱きかかえて、明日筋肉痛になっても知らないわよ。

「イリヤ。ベル嬢、座れそう?」
「ええ、大丈夫そうです。お嬢様方、お手間を取らせてしまいまして申し訳ございません」
「ありがとう、イリヤ」
「イリヤは、すごいわね。サヴァンなら、そういうの確認できなさそう」
「まさか。旦那様からお預かりしているお嬢様ですよ。きっと、サヴァン様もできます」
「なんだか、今日のイリヤは格好良いわね」
「外ですから」
「ふふ」

 私を車椅子に戻したイリヤは、誇らしげに胸を張っている。

 それに笑いつつ、私は視線をお兄様に向けた。……いえ、私だけじゃない。パトリシア様も、お兄様を見ているわ。いまだに抵抗し、騎士団の方々に剣を向けられているお兄様を。

「……ジョセフ様」
「お知り合いなのですか?」
「ええ。以前のお茶会でお話した、尊敬している方のお兄様で」
「えっと……。元から、あのように乱暴なお方なのでしょうか」
「……」

 怪しまれないよう話を振ったけど、逆効果だったかも。
 パトリシア様は、どこか遠くを見ながら口を閉ざしてしまった。その表情は、どこか悲哀に満ちていて「これ以上は聞くな」と言っているよう。

 周囲の人々が日常に戻っていく中、パトリシア様の周辺だけ時間が止まっているみたいに見えるわ。

「あ、あの、パトリシアさ「誰か! 医療者は!」」
「まだ来ていません!」
「大袈裟ですって。大丈夫です。それより、サレン様は……」

 話題を変えようと再度声をかけようとしたら、なんだか近くで騒がしい声がするわ。
 そちらを向くと、第一騎士団の赤い制服を着た人が手から血を流しているのが見えた。その状態で、こちらに歩いてきてるの。後ろの道に点々と血が落ちてるってことは、かなりの量だわ。
 話を聞く限り、まだ医療者は来ていないみたい。

 これは、一大事よ。

「イリヤ、アインス居るわよね」
「ええ、今日は屋敷に居ますが……」
「医療者のことを待つなら、うちで治療した方が早いわね。あれは、一刻も早く血を止めないと傷跡が残ってしまうし、貧血になるわ」
「……屋敷にお呼びする、という事です?」
「ええ、私が話すわ。パトリシア様、よろしいでしょうか?」

 この後の予定が狂ってしまうことを気にしてパトリシア様の方を向くと、顔色が真っ青になっていた。彼女も血を見たのね。口元をハンカチで隠しながら、コクコクと無言で首を縦に振っているわ。

 そうと決まれば、急がなくては。

「あの! 私のお屋敷が近いので、そちらの方の治療をさせていただける、と……」

 声をかけると、その人たちが一斉に立ち止まって私の方を見てくる。


 そこで初めて、怪我をした人物の顔を見た。
 私は、したたる血しか見ずに声をかけた自分を呪わずにはいられない。


「助かります。申し訳ございませんが治療してやってください」
「おい 、ちゃんと止血してもらえよ」
「すみません、ご令嬢様。かすり傷なので、別に良いのですが……」
「ダメよ、ロベール様。このハンカチをお使いください。薄いですが、止血するには十分かと」

 そこには、以前この町で見かけた人が居たの。
 あれは、見間違いじゃなかったのね。貴方だったのね。

 アレン。
 ああ、アレン。
 あなた、大きくなったわ。なんだか、背が伸びて逞しくなった気がする。髪も伸びて、お顔が凛々しくなられた?
 けど、声はあの時のまま。「アリスお嬢様」と呼んでくれた声のまま。

 私は、パトリシア様が新しいハンカチをアレンへ手渡すのを見ながら、必死になって声を絞り出す。少しでも油断すれば、すぐにでも声が出なくなりそうで。
 アレンを視界に入れる度、なぜか胸が痛むの。息がうまくできない。……これは、何?

「南西門のところに、馬車を止めております。乗って行かれますか?」
「いえ、後ろからついて行きます」
「わかりました。ご無理はなさらず」
「急にも関わらず、感謝いたします」

 怪我をした彼がアレンだと気づくと、私の中にあった罪悪感が大きくなる。
 お兄様、騒ぎを起こしただけじゃなくて、アレンに怪我までさせたのね。申し訳ないわ。申し訳なさすぎて、治療してあげるだけじゃ足りない気がしてきた。

「パトリシア様。申し訳ございませんが、また次回に香油の聞き取り調査を……」
「ええ、今回は仕方ないわ。それより、ロベール様を優先して」
「ありがとうございます。イリヤ、案内お願い」

 ロベール様が、アレンだったのね。彼のフルネーム、初めて知ったわ。数ヶ月も一緒に居たのに。
 ……いえ、今の私はベルよ。ベル・フォンテーヌなのよ。忘れないで。

「……わかりました。皆様、こちらです」

 いろんなことが一気に押し寄せて慌てふためく私は、3つのことに気づかなかった。
 一つ目が、イリヤが乗り気ではないこと。もう一つが、お兄様が護送されてもう居なくなっていたこと。
 
 そして最後に、自身の体力がそろそろ切れそうなこと。
 私は、何一つ気づかなかったの。


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