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番外編3

ひとでなしのこい⑥

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 籍だけの夫、忠勝には、他に好きな相手がいる。
 そのことに気付いてしまってから数週間、家康の生活は表面上は何も変わっていないかのように見えた。
 だがしかし、その内心は墨を一滴ずつ垂らした水桶の様に、日に日に薄汚く濁っていき、やがて底がまったく見えなくなるほど黒く染まった頃……ついに家康は行動を起こす決心をした。
 夜ごとの忠勝の不可解な行動の意味。これはつまり、忠勝が彼の想い人と、毎夜逢瀬を重ねているからではないかと、そう思ったのだ。




 その夜は、異様に月が大きく見える満月の夜だった。
 この家の庭は広いので、普段はあちこちから虫や蛙の鳴き声が聞こえてくるのだが、その日は不思議と何の音もせず、それどころか木々の葉音さえもしない、不気味なほど静まり返った奇妙な夜だった。
 いつものように、寝ている家康の顔にそっと顔を寄せて、暫く彼の寝息を確認していた忠勝が、廊下の奥に消えて四半刻。音も無く布団から起き上がった家康は、雪洞を手に取ると、迷うことなく庭の片隅にある土蔵へと急いだ。

(灯りが……)

 ぼんやりと灯りの灯る二階の窓を暫く見上げていた家康は、やがて、慎重に土蔵の入口の扉を開けると、二階へと続く狭い梯子段を上がっていく。
 階段の木は大分古く、どんなに気を付けていてもキシキシと音は鳴ってしまったが、二階の落とし戸はどうやら厚いようで、中にいる忠勝に気付かれる事も無く、何とか二階の戸の前まで辿り着く事が出来た。
 暫くの間、息を押し殺し、中の様子を伺っていた家康のくっきりとした眉が、ピクリと動く。
 扉の向こう側から、低い声で話す男の声を――忠勝の声を漏れ聞いたのだった。
 確信があったとはいえ、いざ自分の疑いが明らかな事実となって目の前に現れてしまうと、怒鳴り込んでいく事も、泣いて逃げ出す事も出来ず、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。
 ひどく穏やかなトーンの話し声。それは家康が一度も聞いたことのない、初めて聞く忠勝の声音だった。

 薄い唇を噛みしめて、家康が立ち尽くす。
 しかしそんな状態でも、耳だけは、部屋の中の話し声に聞き耳を立てずにはいられなかった。忠勝の声は小さく、会話の内容までは聞き取ることは出来なかったが、その声はあくまで優しく、愛しさに満ち溢れ、そして時に切なそうであった。
 そして、極度に鋭敏になった家康の耳が、やがて、艶めかしい気配を感じ取り始めた。
 何かが擦れる様な衣ずれの音、段々と激しくなる熱い吐息、そして、幾度となく交わされる――これは、口づけの音?


 

 土蔵の傍らのその辺の茂みに身を潜めて暗闇に紛れた家康は、忠勝が通り過ぎるのをただひたすら待っていた。
 忠勝の情熱的な逢瀬の音を盗み聞いて、どこまでも深い底の無い穴に落ちていくかのような感覚を覚えていた家康が、それでも何とか動けたのは、呆然自失の家康が佇む部屋の中から、ガタンという大きめの音が聞こえてきたからに他ならない。何かの蓋を閉める様なその音によって、はっと我に返った家康は、出口に向かってくる忠勝と間一髪顔を合わさず、梯子段を駆け降りる事が出来たのだった。
 そして、血の気の失せた顔で茂みに身を潜めていた家康の脳裏に、「こうなったら相手の顔だけは見てやろう」という、ふつふつとした闘志のような想いが湧いてきた。

 形だけとはいえ、自分は忠勝の妻だ。

 自分の夫の浮気相手の顔を盗み見るくらい、当然許されるだろう。
 まあ、浮気相手どころか、忠勝に言わせれば蔵の中の相手こそが本気の相手で、家康こそがお邪魔虫の、名前だけのお飾りの妻だと言われるのがオチだったが。
 ガタガタと重い扉を開く音がして、土蔵の中から忠勝が出てきた。普段通りの涼しげな顔をした忠勝は、家康が潜む茂みの前を通り過ぎると、やがて雪洞の灯りと共に母屋の方へと消えていった。
 だが、いつまで経っても、どれだけ待っても、忠勝から暫く時間を置いて出てくるつもりなのかと踏んでいた密会の相手は、待てど暮らせど家康の前に姿を現す事はなかった。 

「まさか」

 寝巻きの上の羽織を思わずかき寄せていた手を止めて、家康が顔を上げる。
見上げた先にあるのは、土蔵の二階。じっと目を凝らしていた家康が、ぼそりと呟く。

「もしかして……あそこに囲っているのか、相手を」
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