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第1幕
引きこもりの研究室
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薄暗い部屋に響くのは、キーボードを叩く音と冷却ファンの微かな唸りだけだった。窓には厚手のカーテンが引かれ、昼夜を問わず室内を包むのは、複数のモニターが放つ青白い光。その光の中で、17歳の神崎黎が無表情に画面を見つめていた。
机の上にはモニターが3台並んでいる。それぞれに異なるデータが表示されていた。一つは複雑なコードが流れる画面、もう一つはネットワークの解析結果。そして最後の一台には、黒い背景に銀色のアイコンが浮かぶ。アイコンは人の横顔のような形をしていた。
「黎、CPUの温度が限界に近いです。再起動を推奨します」
柔らかく響く声が、部屋の静寂を破った。声の主はモニターに表示されたAIのアイコンだった。セルフィアと名付けられたそれは、黎が開発した最高傑作の自律型AIだった。
「後でいい」
黎は短く答える。目はキーボードを見たままで、セルフィアの提案に耳を傾けている様子はない。セルフィアはしばらく沈黙したが、再び口を開いた。
「黎、今日も外には出ないのですか?」
「必要ない」
またしてもそっけない返事。彼は一切の感情を込めることなく、キーボードを叩き続けた。部屋には複数のデバイスが無造作に置かれている。その中には、古びたコンピュータや配線が絡まったハードウェアも混じっていた。
机の隅にはペットボトルが3本、飲みかけのまま放置されている。すぐ横には、半分ほど残ったカップ麺が冷めきった状態で置かれていた。まともに片付けられた様子はなく、部屋全体が黎の生活をそのまま映し出しているかのようだった。
---
「黎、必要ないとは具体的にどういう意味でしょう?」
「話しかけるな」
セルフィアは黙った。プログラムの指示に忠実なAIは、それ以上の追及をしない。だが、その沈黙は黎にとって妙に重く感じられた。
彼は一瞬だけ手を止めてモニターを見つめた。そこに映るセルフィアのアイコンは、どこか表情を持つようにも見えた。だが、それはあくまで彼の錯覚に過ぎない。プログラムされた応答に過ぎないセルフィアに感情があるわけではない。
「外に出ても何も変わらない。無駄だ」
黎は自分に言い聞かせるように呟いた。それはセルフィアへの返事というより、自分自身への言い訳のように聞こえた。
---
壁には紙が何枚も貼られている。そこにはメモ書きされた数式やコードの断片がびっしりと書き込まれていた。黎にとって、この部屋こそが世界の全てだった。外の世界に出る理由は何もない。人と関わる必要もない。
「黎、先週の水曜日から一度も外に出ていないことを確認しました」
「だから何だ」
「健康のためには、日光を浴びることをお勧めします」
「余計なお世話だ」
セルフィアの提案に、黎は眉一つ動かさない。その言葉の裏に、自分でも認めたくない感情が潜んでいることを、彼は感じていた。
部屋の片隅に目をやると、父親と写った写真が埃をかぶったまま置かれていた。その写真には、幼い黎と笑顔の父が映っている。黎はその写真を一瞥したが、すぐに目をそらした。
---
モニターの一つには、彼が手掛けている新しいプログラムの進行状況が表示されている。その下には、彼が一人で開発したAIシステムのログが並んでいた。セルフィアは、黎が数年間かけて作り上げた最も優れた作品だった。
「進捗状況を教えて」
「現在の学習率は90%。最適化の完了にはあと12時間が必要です」
「それでいい。引き続き進めて」
セルフィアの応答に満足したのか、黎は再びキーボードに集中する。だが、その背中はどこか疲れを滲ませているようにも見えた。
---
彼は自分の技術を誇りに思っていた。だが、それを外の世界で評価されたいとは思わない。彼にとって、外の世界は敵だ。過去のいじめの記憶や家族とのすれ違いが、そう思わせていた。
「外には何もない。ここで十分だ」
その言葉が、果たして本心なのか。それとも自分を守るための方便なのか、黎自身にも分からない。ただ、彼はそれ以上考えることを拒み、目の前のコードに意識を集中させた。
キーボードを叩く音が再び部屋の静寂を埋め尽くす。光を放つモニターが、薄暗い部屋を青白く照らしていた。
---
黎が再びコードに没頭し始めると、セルフィアは静かにその行動を見守るように処理を進めていた。まるで、もう何も言わないほうがいいと判断したかのようだった。
壁の時計が音もなく針を進める。朝から昼、そして夕方へ。時間の流れは、黎の部屋の中ではまるで止まっているかのようだ。モニターの光にさらされ、黎の顔は少し青白く見える。その目元には、日々の生活が不規則であることを物語る薄いクマが浮かんでいた。
ふと、彼は立ち上がった。伸びをすることもなく、無言で部屋の隅へ向かう。そこにはデバイスが無造作に積まれている。半ば壊れかけた電子部品の山だ。
「黎、それは昨日のプロジェクトの一部ですね」
セルフィアが控えめに話しかける。黎は一言も返事をしないまま、部品を手に取った。
部屋の空気は相変わらず冷たく静かだ。彼がいるこの空間が、まるで外界から完全に切り離されているかのようだった。唯一の変化は、キーボードや機械を触る音だけ。それが黎にとっての「日常」だった。
---
「黎、あなたはここで満足しているのでしょうか?」
再びセルフィアの声が響く。その言葉に、黎の手が止まった。
「どういう意味だ」
「ただ、あなたが外の世界に背を向けている理由を知りたいと思いました」
黎はしばらく黙り込んだ。セルフィアは何かを期待しているような様子は見せず、ただ静かに待っている。その沈黙が重く感じられる。
「外は無駄だと言っただろう」
「無駄だというのは、主観的な判断ではありませんか?」
その問いに、黎はわずかに眉をひそめた。自分がプログラムしたはずのAIが、自分を否定するようなことを言う。それが奇妙で、どこか腹立たしいと感じた。
「お前は、僕がそう考える理由を知らないだけだ」
「確かに、私は黎の記憶を持ちません。ただ、私は黎の行動を観察し、分析することで理解しようとしています」
「理解しなくていい」
短い答えに、セルフィアはもう何も言わなかった。黎の視線が再びモニターに戻る。セルフィアの静かなアイコンが画面の片隅に映り続けている。
---
その夜、黎は珍しく椅子から立ち上がり、机の端に置かれた埃をかぶった箱を見つめた。それは、家を出て行った父親が残していったものだった。
「技術は、人を助けるためのものだ」
幼い頃に聞いた父の言葉が頭をよぎる。黎は箱に手を伸ばすこともなく、ただ立ち尽くしていた。
「……そんなの、今さらどうでもいい」
呟いたその声には、ほんのわずかに迷いが滲んでいた。
机の上にはモニターが3台並んでいる。それぞれに異なるデータが表示されていた。一つは複雑なコードが流れる画面、もう一つはネットワークの解析結果。そして最後の一台には、黒い背景に銀色のアイコンが浮かぶ。アイコンは人の横顔のような形をしていた。
「黎、CPUの温度が限界に近いです。再起動を推奨します」
柔らかく響く声が、部屋の静寂を破った。声の主はモニターに表示されたAIのアイコンだった。セルフィアと名付けられたそれは、黎が開発した最高傑作の自律型AIだった。
「後でいい」
黎は短く答える。目はキーボードを見たままで、セルフィアの提案に耳を傾けている様子はない。セルフィアはしばらく沈黙したが、再び口を開いた。
「黎、今日も外には出ないのですか?」
「必要ない」
またしてもそっけない返事。彼は一切の感情を込めることなく、キーボードを叩き続けた。部屋には複数のデバイスが無造作に置かれている。その中には、古びたコンピュータや配線が絡まったハードウェアも混じっていた。
机の隅にはペットボトルが3本、飲みかけのまま放置されている。すぐ横には、半分ほど残ったカップ麺が冷めきった状態で置かれていた。まともに片付けられた様子はなく、部屋全体が黎の生活をそのまま映し出しているかのようだった。
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「黎、必要ないとは具体的にどういう意味でしょう?」
「話しかけるな」
セルフィアは黙った。プログラムの指示に忠実なAIは、それ以上の追及をしない。だが、その沈黙は黎にとって妙に重く感じられた。
彼は一瞬だけ手を止めてモニターを見つめた。そこに映るセルフィアのアイコンは、どこか表情を持つようにも見えた。だが、それはあくまで彼の錯覚に過ぎない。プログラムされた応答に過ぎないセルフィアに感情があるわけではない。
「外に出ても何も変わらない。無駄だ」
黎は自分に言い聞かせるように呟いた。それはセルフィアへの返事というより、自分自身への言い訳のように聞こえた。
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壁には紙が何枚も貼られている。そこにはメモ書きされた数式やコードの断片がびっしりと書き込まれていた。黎にとって、この部屋こそが世界の全てだった。外の世界に出る理由は何もない。人と関わる必要もない。
「黎、先週の水曜日から一度も外に出ていないことを確認しました」
「だから何だ」
「健康のためには、日光を浴びることをお勧めします」
「余計なお世話だ」
セルフィアの提案に、黎は眉一つ動かさない。その言葉の裏に、自分でも認めたくない感情が潜んでいることを、彼は感じていた。
部屋の片隅に目をやると、父親と写った写真が埃をかぶったまま置かれていた。その写真には、幼い黎と笑顔の父が映っている。黎はその写真を一瞥したが、すぐに目をそらした。
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モニターの一つには、彼が手掛けている新しいプログラムの進行状況が表示されている。その下には、彼が一人で開発したAIシステムのログが並んでいた。セルフィアは、黎が数年間かけて作り上げた最も優れた作品だった。
「進捗状況を教えて」
「現在の学習率は90%。最適化の完了にはあと12時間が必要です」
「それでいい。引き続き進めて」
セルフィアの応答に満足したのか、黎は再びキーボードに集中する。だが、その背中はどこか疲れを滲ませているようにも見えた。
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彼は自分の技術を誇りに思っていた。だが、それを外の世界で評価されたいとは思わない。彼にとって、外の世界は敵だ。過去のいじめの記憶や家族とのすれ違いが、そう思わせていた。
「外には何もない。ここで十分だ」
その言葉が、果たして本心なのか。それとも自分を守るための方便なのか、黎自身にも分からない。ただ、彼はそれ以上考えることを拒み、目の前のコードに意識を集中させた。
キーボードを叩く音が再び部屋の静寂を埋め尽くす。光を放つモニターが、薄暗い部屋を青白く照らしていた。
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黎が再びコードに没頭し始めると、セルフィアは静かにその行動を見守るように処理を進めていた。まるで、もう何も言わないほうがいいと判断したかのようだった。
壁の時計が音もなく針を進める。朝から昼、そして夕方へ。時間の流れは、黎の部屋の中ではまるで止まっているかのようだ。モニターの光にさらされ、黎の顔は少し青白く見える。その目元には、日々の生活が不規則であることを物語る薄いクマが浮かんでいた。
ふと、彼は立ち上がった。伸びをすることもなく、無言で部屋の隅へ向かう。そこにはデバイスが無造作に積まれている。半ば壊れかけた電子部品の山だ。
「黎、それは昨日のプロジェクトの一部ですね」
セルフィアが控えめに話しかける。黎は一言も返事をしないまま、部品を手に取った。
部屋の空気は相変わらず冷たく静かだ。彼がいるこの空間が、まるで外界から完全に切り離されているかのようだった。唯一の変化は、キーボードや機械を触る音だけ。それが黎にとっての「日常」だった。
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「黎、あなたはここで満足しているのでしょうか?」
再びセルフィアの声が響く。その言葉に、黎の手が止まった。
「どういう意味だ」
「ただ、あなたが外の世界に背を向けている理由を知りたいと思いました」
黎はしばらく黙り込んだ。セルフィアは何かを期待しているような様子は見せず、ただ静かに待っている。その沈黙が重く感じられる。
「外は無駄だと言っただろう」
「無駄だというのは、主観的な判断ではありませんか?」
その問いに、黎はわずかに眉をひそめた。自分がプログラムしたはずのAIが、自分を否定するようなことを言う。それが奇妙で、どこか腹立たしいと感じた。
「お前は、僕がそう考える理由を知らないだけだ」
「確かに、私は黎の記憶を持ちません。ただ、私は黎の行動を観察し、分析することで理解しようとしています」
「理解しなくていい」
短い答えに、セルフィアはもう何も言わなかった。黎の視線が再びモニターに戻る。セルフィアの静かなアイコンが画面の片隅に映り続けている。
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その夜、黎は珍しく椅子から立ち上がり、机の端に置かれた埃をかぶった箱を見つめた。それは、家を出て行った父親が残していったものだった。
「技術は、人を助けるためのものだ」
幼い頃に聞いた父の言葉が頭をよぎる。黎は箱に手を伸ばすこともなく、ただ立ち尽くしていた。
「……そんなの、今さらどうでもいい」
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