籠の中の天才

中岡 始

文字の大きさ
上 下
3 / 49
第1幕

引きこもりの研究室

しおりを挟む
薄暗い部屋に響くのは、キーボードを叩く音と冷却ファンの微かな唸りだけだった。窓には厚手のカーテンが引かれ、昼夜を問わず室内を包むのは、複数のモニターが放つ青白い光。その光の中で、17歳の神崎黎が無表情に画面を見つめていた。

机の上にはモニターが3台並んでいる。それぞれに異なるデータが表示されていた。一つは複雑なコードが流れる画面、もう一つはネットワークの解析結果。そして最後の一台には、黒い背景に銀色のアイコンが浮かぶ。アイコンは人の横顔のような形をしていた。

「黎、CPUの温度が限界に近いです。再起動を推奨します」

柔らかく響く声が、部屋の静寂を破った。声の主はモニターに表示されたAIのアイコンだった。セルフィアと名付けられたそれは、黎が開発した最高傑作の自律型AIだった。

「後でいい」

黎は短く答える。目はキーボードを見たままで、セルフィアの提案に耳を傾けている様子はない。セルフィアはしばらく沈黙したが、再び口を開いた。

「黎、今日も外には出ないのですか?」

「必要ない」

またしてもそっけない返事。彼は一切の感情を込めることなく、キーボードを叩き続けた。部屋には複数のデバイスが無造作に置かれている。その中には、古びたコンピュータや配線が絡まったハードウェアも混じっていた。

机の隅にはペットボトルが3本、飲みかけのまま放置されている。すぐ横には、半分ほど残ったカップ麺が冷めきった状態で置かれていた。まともに片付けられた様子はなく、部屋全体が黎の生活をそのまま映し出しているかのようだった。

---

「黎、必要ないとは具体的にどういう意味でしょう?」

「話しかけるな」

セルフィアは黙った。プログラムの指示に忠実なAIは、それ以上の追及をしない。だが、その沈黙は黎にとって妙に重く感じられた。

彼は一瞬だけ手を止めてモニターを見つめた。そこに映るセルフィアのアイコンは、どこか表情を持つようにも見えた。だが、それはあくまで彼の錯覚に過ぎない。プログラムされた応答に過ぎないセルフィアに感情があるわけではない。

「外に出ても何も変わらない。無駄だ」

黎は自分に言い聞かせるように呟いた。それはセルフィアへの返事というより、自分自身への言い訳のように聞こえた。

---

壁には紙が何枚も貼られている。そこにはメモ書きされた数式やコードの断片がびっしりと書き込まれていた。黎にとって、この部屋こそが世界の全てだった。外の世界に出る理由は何もない。人と関わる必要もない。

「黎、先週の水曜日から一度も外に出ていないことを確認しました」

「だから何だ」

「健康のためには、日光を浴びることをお勧めします」

「余計なお世話だ」

セルフィアの提案に、黎は眉一つ動かさない。その言葉の裏に、自分でも認めたくない感情が潜んでいることを、彼は感じていた。

部屋の片隅に目をやると、父親と写った写真が埃をかぶったまま置かれていた。その写真には、幼い黎と笑顔の父が映っている。黎はその写真を一瞥したが、すぐに目をそらした。

---

モニターの一つには、彼が手掛けている新しいプログラムの進行状況が表示されている。その下には、彼が一人で開発したAIシステムのログが並んでいた。セルフィアは、黎が数年間かけて作り上げた最も優れた作品だった。

「進捗状況を教えて」

「現在の学習率は90%。最適化の完了にはあと12時間が必要です」

「それでいい。引き続き進めて」

セルフィアの応答に満足したのか、黎は再びキーボードに集中する。だが、その背中はどこか疲れを滲ませているようにも見えた。

---

彼は自分の技術を誇りに思っていた。だが、それを外の世界で評価されたいとは思わない。彼にとって、外の世界は敵だ。過去のいじめの記憶や家族とのすれ違いが、そう思わせていた。

「外には何もない。ここで十分だ」

その言葉が、果たして本心なのか。それとも自分を守るための方便なのか、黎自身にも分からない。ただ、彼はそれ以上考えることを拒み、目の前のコードに意識を集中させた。

キーボードを叩く音が再び部屋の静寂を埋め尽くす。光を放つモニターが、薄暗い部屋を青白く照らしていた。

---

黎が再びコードに没頭し始めると、セルフィアは静かにその行動を見守るように処理を進めていた。まるで、もう何も言わないほうがいいと判断したかのようだった。

壁の時計が音もなく針を進める。朝から昼、そして夕方へ。時間の流れは、黎の部屋の中ではまるで止まっているかのようだ。モニターの光にさらされ、黎の顔は少し青白く見える。その目元には、日々の生活が不規則であることを物語る薄いクマが浮かんでいた。

ふと、彼は立ち上がった。伸びをすることもなく、無言で部屋の隅へ向かう。そこにはデバイスが無造作に積まれている。半ば壊れかけた電子部品の山だ。

「黎、それは昨日のプロジェクトの一部ですね」

セルフィアが控えめに話しかける。黎は一言も返事をしないまま、部品を手に取った。

部屋の空気は相変わらず冷たく静かだ。彼がいるこの空間が、まるで外界から完全に切り離されているかのようだった。唯一の変化は、キーボードや機械を触る音だけ。それが黎にとっての「日常」だった。

---

「黎、あなたはここで満足しているのでしょうか?」

再びセルフィアの声が響く。その言葉に、黎の手が止まった。

「どういう意味だ」

「ただ、あなたが外の世界に背を向けている理由を知りたいと思いました」

黎はしばらく黙り込んだ。セルフィアは何かを期待しているような様子は見せず、ただ静かに待っている。その沈黙が重く感じられる。

「外は無駄だと言っただろう」

「無駄だというのは、主観的な判断ではありませんか?」

その問いに、黎はわずかに眉をひそめた。自分がプログラムしたはずのAIが、自分を否定するようなことを言う。それが奇妙で、どこか腹立たしいと感じた。

「お前は、僕がそう考える理由を知らないだけだ」

「確かに、私は黎の記憶を持ちません。ただ、私は黎の行動を観察し、分析することで理解しようとしています」

「理解しなくていい」

短い答えに、セルフィアはもう何も言わなかった。黎の視線が再びモニターに戻る。セルフィアの静かなアイコンが画面の片隅に映り続けている。

---

その夜、黎は珍しく椅子から立ち上がり、机の端に置かれた埃をかぶった箱を見つめた。それは、家を出て行った父親が残していったものだった。

「技術は、人を助けるためのものだ」

幼い頃に聞いた父の言葉が頭をよぎる。黎は箱に手を伸ばすこともなく、ただ立ち尽くしていた。

「……そんなの、今さらどうでもいい」

呟いたその声には、ほんのわずかに迷いが滲んでいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ダークランナー

不来方久遠
ミステリー
それは、バブル崩壊後による超不況下の頃だった。  元マラソン・ランナーで日本新記録を持つ主人公の瀬山利彦が傷害と飲酒運転により刑務所に入れられてしまった。  坂本というヤクザの囚人長の手引きで単身脱走して、東京国際マラソンに出場した。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

設計士 建山

如月 睦月
ミステリー
一級建築士 建山斗偉志(たてやま といし)小さいながらも事務所を構える彼のもとに、今日も変な依頼が迷い込む。

俺が咲良で咲良が俺で

廣瀬純一
ミステリー
高校生の田中健太と隣の席の山本咲良の体が入れ替わる話

通詞侍

不来方久遠
ミステリー
 明治28(1895)年の文明開化が提唱されていた頃だった。  食うために詞は単身、語学留学を目的にイギリスに渡った。  英語を学ぶには現地で生活するのが早道を考え、家財道具を全て売り払っての捨て身の覚悟での渡英であった。

失くした記憶

うた
ミステリー
ある事故がきっかけで記憶を失くしたトウゴ。記憶を取り戻そうと頑張ってはいるがかれこれ10年経った。 そんなある日1人の幼なじみと再会し、次第に記憶を取り戻していく。 思い出した記憶に隠された秘密を暴いていく。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...