三条美玲の炎上

中岡 始

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「とりあえず、少し休んでみようか。息抜きしよう」

 そう答えると、ユージェフの顔にわかりやすく安堵が浮かんだ。隠しているのだろうがわかりやすい。アーサーは微笑ましい気持ちになった。

「息抜き……ですか」

 そうだよ、とアーサーは頷く。いまのユージェフに必要なのはとにかく休息だ。

「たぶんね、いまユージェフくんの視野はすごく狭くなってるんだ。それは悪いことばかりじゃなくて、目指した目標に向かって一直線に走れるっていう美点でもある。けれど同時に、逃げ道を塞いでしまって、自分を追い詰めることになってしまう」

 ユージェフが目標に向かって一直線な人間であることは明らかだ。それをするための行動力だって十分に持ち合わせている。ジルベルトについて尋ねてきた勢いを思い出し、アーサーは目尻を緩めた。

「……追い詰める、ですか」
「うん。もちろんそうやって自分を追い込まなくちゃいけないときだってある。けれど、常にそうではないよね。全力で頑張ってるのに、さらに上を求めるのは無理がある。適度に緩めて色んなものを取り込むことも必要だし、そこから新しい発見もあるかもしれない」
「……」

 ユージェフは頷いた。賢い子だから、理屈としてとっくに理解はしているのだろう。
 しかしその表情にはまだ焦りがある。アーサーからしてみればユージェフはまだ第一学年で、焦る必要なんて一片もない。話を聞く限り彼はすでに実力もあって、それを伸ばそうとする気概もある。試験だってこのさき何度もあるのだから、彼の伸びしろはあまりにも大きいのだ。とはいえ、そう俯瞰できるのはアーサーがひととおり経験したからであって、いまその成長の渦中にいる本人には響かない。
 ユージェフ本人も休むべきだとわかっているのだ。だからさっき、アーサーに休めと言われてほっとした。だからあとは彼のなかにあるという焦りを宥めて、納得させてやるだけでいい。
 アーサーは慎重に言葉を選んだ。

「そうだな……ジルベルトの話をしようか。彼は超人のよう見えるだろうけど、やっぱり息抜きはしていたよ。昼寝だってそうだし、真面目くさった顔で論文を読んでいるのかと思ったら冒険小説だったこともある。『暁の英雄』だって読んでいたよ。僕は、そういうところが彼のすごさに繋がっていると思う」
「ジルベルト様が……」

 ユージェフの表情が動いた。やはり憧れの人物の影響力は凄まじい。

「うん。彼が昼寝するのは夜遅くまで頑張っているからだろうし――いや、授業をサボるのはよくないんだけどね。小説を読んでいても、横にはやっぱり論文も積んであった。彼だって人間だから、常に全力で稼働できるわけないんだよ。うまくできないときだってあるし、ときには休んでだらだらしないとやってられない」

 適度な休息が作業の効率を上げる、という研究もあるよ。アーサーはそう言い添えた。
 ユージェフの表情が揺らぐ。あと一押しだろう。

「だからユージェフくんも、ちょっと息抜きしてみたらどうかな。もし罪悪感があるなら、頑張るための休みだと思えばいい」
「……頑張るために、休む」
「そうそう。街に甘いものを食べに行ってもいいし、家でのんびり昼寝したっていい。この週末は星花祭りもある――そうだ」

 星花祭りで思い出した。アーサーは引き出しを開けた。取り出したのはチラシである。
 そこに印字されたタイトルに、ユージェフが「あ」と目を瞠る。アーサーは微笑んだ。

「星花祭りで『暁の英雄』の劇をするんだって。評判もいい劇団だし、行ってみたらどうかな。ユージェフくん、『暁の英雄』は好きでしょう」
「はい……好きです」

 チラシを手に、ユージェフが頷く。まじまじとチラシを見る目が、少しずつ輝いてきた。

「先生も行かれるんですか?」
「うん。これを楽しみに仕事してるよ」

 誘った相手には断られてしまったけども。内心付け加えて自嘲する。あのあともジルベルトは毎晩のようにやってくるし、アーサーを抱えて眠る。朝はいつもアーサーのほうが早くて、朝食をひとりぶん余分に作るのが常だ。帰宅するとなくなっているから、ちゃんと食べてはいるらしい。

「確かに……確かに、楽しみも必要です、よね」
「そうそう」

 しっかり頷いてやると、ユージェフはようやく顔をほころばせた。

「あの……先生、突然来てすみませんでした。ありがとうございます。少しほっとしました」
「どういたしまして」
「あと、あの、それから……」
「ん?」
「その、サルウェル先生は」

 ユージェフがちらりとバジルのほうを見やる。ああ、なるほど。言わんとすることを察し、アーサーは目配せを返した。ちなみにバジルはすっかり書類に埋もれてしまっていて、時折ミルクティー色の髪がふわふわ跳ねるのが見えるのみである。

「サルウェル先生、まだしばらくは安静らしいね。でも命に別状はないそうだよ」
「そう、なんですね。よかった……!」

 ぱっとユージェフの顔が明るくなる。事件からずっと気になっていたのだろう。第一発見者とはいえ、いち生徒であるユージェフにはそれほど情報が回っていないはずだ。大丈夫だよ、とアーサーは柔らかく笑ってみせる。

「本当に、よかったです」
「早く戻られるといいね」

 ユージェフは頷いた。しかしすぐにハッと気づいたように首を振る。

「あっ、あの、いまのはアーサー先生が代理で不満とか、そういう意味じゃないですからね!」
「あはは、わかってるよ」

 なにを言いだすかと思えば。だが当のユージェフは必死である。身を乗り出して、アーサーの手でも握りそうな勢いだ。

「俺はアーサー先生が来てくださって、本当に、本当にうれしく思っているので!」
「うん、ありがとう」
「優しいし、教えるのお上手ですし、ジルベルト様のお話もたくさんしてくださいますし、もうこのままずっと担任でいてほしいくらいで――あっ、サルウェル先生が嫌というわけではなくてですね」
「あははっ」

 堂々巡りだ。
 堪らず吹き出すと、「し、真剣なんですよ俺……」とユージェフが眉を下げる。もちろんわかっている。わかっているからこそおもしろいし、嬉しいのだ。あと教師としての評価にしれっとジルベルトの話を聞きたい下心が紛れていて、そのブレなさがいっそ清々しい。
 笑いすぎてずれた眼鏡を直しながら、アーサーは緩む口許をなんとか引き締める。

「まぁとにかく、試験も終わったことだしゆっくり休んでね」
「はい」
「サルウェル先生のこともあるし、……くれぐれも身体には気をつけて」

 言外にまだ犯人は捕まっていないと匂わせると、ユージェフがはっと目を見開いた。そうしてしっかりと頷く。

「先生も。気をつけてくださいね」
「ありがとう」

 それじゃ、失礼します。ユージェフが部屋を出て行く。ぱたりと扉が閉じると同時、ずっと黙っていたバジルがぼそりと呟いた。

「……なんというか、よくわからん悩みでしたね」
「そう?」
「頭のいい連中の考えることは不思議です」
「バジルくんも成績いいほうだったでしょう」
「おれは中の上ですよ。あんな感じにガツガツやってないし、平均点超えてたらやったーって感じでした」

 アーサーは笑った。確かにそんな感じだった気がする。とはいえバジルはなにごとにおいても器用で要領がよかった。そんな彼には、なるほどユージェフの悩みは理解しがたいのかもしれない。
 と、いうより。

「もしかしてバジルくん、ユージェフくんのことちょっと苦手だったりする?」
「……わかります?」
「まぁ、わりとあからさまだから」

 アーサーはくるりとペンを回した。
 ユージェフが来ると若干身構えている雰囲気がある。誰にでも人当たりがいいバジルがここまでわかりやすいのは珍しい。

「もちろん本人に当たったりはしませんよ。でもその、先生に対する接し方が、ちょっと……」
「僕?」

 まさか言及されるとは思わなかった。瞬くと、バジルは顔をしかめる。

「なんか……下心を感じるんですよね」
「下心?」
「はい。下心です。先生、ご飯とかデートとか誘われてません? 大丈夫です?」
「まさか」

 アーサーは手を振った。あのユージェフに限ってまさか、だ。確かに懐かれてはいると思うが、半分くらいはジルベルトのエピソード目当てのような気もしている。それくらい毎回根掘り葉掘り尋ねられるのだ。

「ならいいんですけど。でも、必要以上に先生に寄りかかってくる感じとか……なーんか、嫌な感じするんですよね」
「なるほど……? ええと、じゃあ気をつけるね」
「そうしてください」

 バジルが重々しく頷く。冗談を言っているふうではない様子に、アーサーは困惑した。アーサーにとってユージェフは勉強熱心な生徒だが、他人から見るとまた違うのだろう。

「でも、好き嫌いとか関係なくさっきのはよくわかんないですよ。テストが揮わなかったのは、まあ残念ですけど。できないなら割り切って休むしかないじゃないですか。なにをあんな思いつめることがあるんですかね? 首席どうこう言っても、まだ第一学年でしょう彼」

 不思議そうなバジルに、そうだねとアーサーは頷いた。

「相談ってわざわざ言ってたでしょう。彼もね、休まなきゃいけないってきっとわかってるんだ。でも頑張らないとだめだって思ってるから躊躇ってしまう。だから他人が「休まないとだめだよ」って後押ししなきゃいけない」
「そういうもんですか」
「そういうもんです」

 実際、ああいうタイプは何度か出会ったことがある。真面目であればあるほど休むのに罪悪感を抱くのだ。アーサー自身もそのあたりの切り替えがうまくない自覚はあるので、あまりユージェフにえらそうに言えた立場ではない。
 はぁ、とバジルは首を捻る。

「なんとも難儀な性格ですね」
「……そう、かもね」

 アーサーは思わず胸のあたりを押さえた。いま、ちょっとぐさりと来た。
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