2 / 91
序章 定年と死と、そして召喚
漆黒の虚空 — 神との対話
しおりを挟む
暗闇だった。
音もない。風もない。地面も天井も感じられない。そこに“上下”という概念が存在していないことに、山本孝一は徐々に気づいていった。
意識だけが、ぽつりと浮かんでいる。そんな感覚だった。
痛みはない。寒くも暑くもない。ただ、全身が霞のように希薄になって、まるで身体というものがあったことさえ、曖昧に遠ざかっていく。
自分は、死んだのだろうか。そう思うには、あまりにも静かすぎる場所だった。
「ここは……どこだ?」
思考が、声になった。それが空間に響いたのか、単に自分の中で木霊しただけなのかはわからなかった。だが、その問いかけに応じるように、ふと、微かな光が差した。
濃密な闇の中、遠くで白い粒が瞬く。淡い、青白い輝き。それがゆっくりと近づいてきた。まるで意志を持っているかのように、まっすぐに、山本の意識の中心へと。
「山本孝一様」
その声は、中性的で、透明だった。男でも女でもなく、まるで水のように澄んでいる。どこか機械的な響きを含みながらも、冷たくはなかった。
「あなたの人生は、終わりました」
山本は眉をひそめた。眉など、もはや存在しているのかどうかも怪しかったが、意識の中で確かに反応した。
「やっぱり……死んだのか、俺は」
「はい。現世でのあなたの肉体は、すでに停止しています。これは、あなたの意識が最後に在る場。最終的な選択の場です」
「選択?」
「ええ」
光が近づいてくる。それは球体のようでもあり、淡い揺らぎを伴っていた。中心には、うっすらと人影のようなものが見えたような気がした。
「選ばなければならないのです。消滅か、再誕かを」
「なんだか、随分とストレートな言い方ですね」
山本は、自嘲気味に言った。
「神様……ってことで、いいんですか?」
「そのようにお考えいただいて構いません。私は“人事の神”リストリア。あなたを、この場に導いた存在です」
人事の神。耳慣れない言葉だったが、不思議としっくり来た。どこかで聞いたような語感すらある。中年会社員の心を妙にくすぐるタイトルだと、山本は思った。
「俺に、まだ何かできると?」
「はい。あなたの“人を見抜く目”と“組織を回す才”は、今、私たちの世界に必要です」
「異世界ってやつか」
「はい。混沌と秩序の狭間で揺れる世界。力ある者が上に立ち、力なき者が蹂躙される世界。ですが、力を持ちながらも統べる術を知らぬ者たちの組織は、いずれ崩壊します」
山本は静かに頷いた。それは、この世界の話ではない。彼が身を置いてきた会社でも、同じことが起きていた。
「似てますね。俺のいた会社と」
「あなたが生きてきた場所は、世界こそ違え、同じように“人”で構成されていました。ゆえに、あなたの知識と経験は、異世界でも価値を持ち得ます」
「それって、つまり……俺を異世界に転生させるってことですか?」
「そのとおりです」
リストリアの声に、揺らぎはなかった。断定的で、事務的ですらある。まるで、今日の人事異動を読み上げる課長のようだった。
「で、もし拒否したら?」
少しの間、沈黙が流れた。
「その場合、あなたの魂はこのまま消滅となります。記憶も、人格も、存在も。すべてが無に還るのみです」
「無か……そりゃ、また極端ですね」
「お好みでお選びください」
さらりと言われたその言葉に、山本は思わず吹き出しそうになった。いや、そもそも声を出して笑ったのか、ただ心で笑ったのか、自分でもはっきりしなかった。
「ブラックな神様だな」
「恐縮です。効率主義なもので」
リストリアの声には、ほんの一瞬だけ、冗談とも思える柔らかさが混じった。
山本は、ほんの短い間だけ、考えた。
この人生に未練はない。達成感もなければ、名残惜しさもない。妻はすでにいない。息子とも疎遠。仕事は終わり、役職も肩書きも外れた。友人も少なく、老後にやることも決まっていなかった。
何も残っていない。そう思っていた。
だが、心のどこかに、燻ったものがある。言葉にならない、何か。
「最後に、誰かの役に立てるってのは……悪くないな」
彼はぽつりと呟いた。
「……いいですよ。やります。どうせ俺の人生、そんなに未練もないし。役立てるなら、転生でも何でも」
「ありがとうございます」
リストリアの声は、淡く、しかし確かに満足そうだった。
「では、あなたを新たな世界へ送りましょう。肉体は若返り、能力はそのまま。あなたは“人事官”として魔王軍に降り立つことになります」
「魔王軍、ですか。ずいぶんと……ややこしそうな職場だ」
「あなたなら、適応できます。では——」
光が、急速に強まっていった。闇の空間を一気に照らし出し、山本の意識が、その輝きの中に飲み込まれていく。
まばゆい光の中、彼は目を閉じた。まるで、目を閉じるという行為自体が、現実を受け入れる儀式であるかのように。
次に目を開けたとき、自分はどこにいるのだろう。どんな世界が待っているのだろう。
そんなことを、かすかに思いながら。
山本孝一の人生は、終わった。
そして、新たな物語が、始まった。
音もない。風もない。地面も天井も感じられない。そこに“上下”という概念が存在していないことに、山本孝一は徐々に気づいていった。
意識だけが、ぽつりと浮かんでいる。そんな感覚だった。
痛みはない。寒くも暑くもない。ただ、全身が霞のように希薄になって、まるで身体というものがあったことさえ、曖昧に遠ざかっていく。
自分は、死んだのだろうか。そう思うには、あまりにも静かすぎる場所だった。
「ここは……どこだ?」
思考が、声になった。それが空間に響いたのか、単に自分の中で木霊しただけなのかはわからなかった。だが、その問いかけに応じるように、ふと、微かな光が差した。
濃密な闇の中、遠くで白い粒が瞬く。淡い、青白い輝き。それがゆっくりと近づいてきた。まるで意志を持っているかのように、まっすぐに、山本の意識の中心へと。
「山本孝一様」
その声は、中性的で、透明だった。男でも女でもなく、まるで水のように澄んでいる。どこか機械的な響きを含みながらも、冷たくはなかった。
「あなたの人生は、終わりました」
山本は眉をひそめた。眉など、もはや存在しているのかどうかも怪しかったが、意識の中で確かに反応した。
「やっぱり……死んだのか、俺は」
「はい。現世でのあなたの肉体は、すでに停止しています。これは、あなたの意識が最後に在る場。最終的な選択の場です」
「選択?」
「ええ」
光が近づいてくる。それは球体のようでもあり、淡い揺らぎを伴っていた。中心には、うっすらと人影のようなものが見えたような気がした。
「選ばなければならないのです。消滅か、再誕かを」
「なんだか、随分とストレートな言い方ですね」
山本は、自嘲気味に言った。
「神様……ってことで、いいんですか?」
「そのようにお考えいただいて構いません。私は“人事の神”リストリア。あなたを、この場に導いた存在です」
人事の神。耳慣れない言葉だったが、不思議としっくり来た。どこかで聞いたような語感すらある。中年会社員の心を妙にくすぐるタイトルだと、山本は思った。
「俺に、まだ何かできると?」
「はい。あなたの“人を見抜く目”と“組織を回す才”は、今、私たちの世界に必要です」
「異世界ってやつか」
「はい。混沌と秩序の狭間で揺れる世界。力ある者が上に立ち、力なき者が蹂躙される世界。ですが、力を持ちながらも統べる術を知らぬ者たちの組織は、いずれ崩壊します」
山本は静かに頷いた。それは、この世界の話ではない。彼が身を置いてきた会社でも、同じことが起きていた。
「似てますね。俺のいた会社と」
「あなたが生きてきた場所は、世界こそ違え、同じように“人”で構成されていました。ゆえに、あなたの知識と経験は、異世界でも価値を持ち得ます」
「それって、つまり……俺を異世界に転生させるってことですか?」
「そのとおりです」
リストリアの声に、揺らぎはなかった。断定的で、事務的ですらある。まるで、今日の人事異動を読み上げる課長のようだった。
「で、もし拒否したら?」
少しの間、沈黙が流れた。
「その場合、あなたの魂はこのまま消滅となります。記憶も、人格も、存在も。すべてが無に還るのみです」
「無か……そりゃ、また極端ですね」
「お好みでお選びください」
さらりと言われたその言葉に、山本は思わず吹き出しそうになった。いや、そもそも声を出して笑ったのか、ただ心で笑ったのか、自分でもはっきりしなかった。
「ブラックな神様だな」
「恐縮です。効率主義なもので」
リストリアの声には、ほんの一瞬だけ、冗談とも思える柔らかさが混じった。
山本は、ほんの短い間だけ、考えた。
この人生に未練はない。達成感もなければ、名残惜しさもない。妻はすでにいない。息子とも疎遠。仕事は終わり、役職も肩書きも外れた。友人も少なく、老後にやることも決まっていなかった。
何も残っていない。そう思っていた。
だが、心のどこかに、燻ったものがある。言葉にならない、何か。
「最後に、誰かの役に立てるってのは……悪くないな」
彼はぽつりと呟いた。
「……いいですよ。やります。どうせ俺の人生、そんなに未練もないし。役立てるなら、転生でも何でも」
「ありがとうございます」
リストリアの声は、淡く、しかし確かに満足そうだった。
「では、あなたを新たな世界へ送りましょう。肉体は若返り、能力はそのまま。あなたは“人事官”として魔王軍に降り立つことになります」
「魔王軍、ですか。ずいぶんと……ややこしそうな職場だ」
「あなたなら、適応できます。では——」
光が、急速に強まっていった。闇の空間を一気に照らし出し、山本の意識が、その輝きの中に飲み込まれていく。
まばゆい光の中、彼は目を閉じた。まるで、目を閉じるという行為自体が、現実を受け入れる儀式であるかのように。
次に目を開けたとき、自分はどこにいるのだろう。どんな世界が待っているのだろう。
そんなことを、かすかに思いながら。
山本孝一の人生は、終わった。
そして、新たな物語が、始まった。
2
あなたにおすすめの小説
アワセワザ! ~異世界乳幼女と父は、二人で強く生きていく~
eggy
ファンタジー
もと魔狩人《まかりびと》ライナルトは大雪の中、乳飲み子を抱いて村に入った。
村では魔獣や獣に被害を受けることが多く、村人たちが生活と育児に協力する代わりとして、害獣狩りを依頼される。
ライナルトは村人たちの威力の低い攻撃魔法と協力して大剣を振るうことで、害獣狩りに挑む。
しかし年々増加、凶暴化してくる害獣に、低威力の魔法では対処しきれなくなってくる。
まだ赤ん坊の娘イェッタは何処からか降りてくる『知識』に従い、魔法の威力増加、複数合わせた使用法を工夫して、父親を援助しようと考えた。
幼い娘と父親が力を合わせて害獣や強敵に挑む、冒険ファンタジー。
「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています。
ヒロインですが、舞台にも上がれなかったので田舎暮らしをします
未羊
ファンタジー
レイチェル・ウィルソンは公爵令嬢
十二歳の時に王都にある魔法学園の入学試験を受けたものの、なんと不合格になってしまう
好きなヒロインとの交流を進める恋愛ゲームのヒロインの一人なのに、なんとその舞台に上がれることもできずに退場となってしまったのだ
傷つきはしたものの、公爵の治める領地へと移り住むことになったことをきっかけに、レイチェルは前世の夢を叶えることを計画する
今日もレイチェルは、公爵領の片隅で畑を耕したり、お店をしたりと気ままに暮らすのだった
少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
不倫されて離婚した社畜OLが幼女転生して聖女になりましたが、王国が揉めてて大事にしてもらえないので好きに生きます
天田れおぽん
ファンタジー
ブラック企業に勤める社畜OL沙羅(サラ)は、結婚したものの不倫されて離婚した。スッキリした気分で明るい未来に期待を馳せるも、公園から飛び出てきた子どもを助けたことで、弱っていた心臓が止まってしまい死亡。同情した女神が、黒髪黒目中肉中背バツイチの沙羅を、銀髪碧眼3歳児の聖女として異世界へと転生させてくれた。
ところが王国内で聖女の処遇で揉めていて、転生先は草原だった。
サラは女神がくれた山盛りてんこ盛りのスキルを使い、異世界で知り合ったモフモフたちと暮らし始める――――
※第16話 あつまれ聖獣の森 6 が抜けていましたので2025/07/30に追加しました。
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
凜
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます!
貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
魔力値1の私が大賢者(仮)を目指すまで
ひーにゃん
ファンタジー
誰もが魔力をもち魔法が使える世界で、アンナリーナはその力を持たず皆に厭われていた。
運命の【ギフト授与式】がやってきて、これでまともな暮らしが出来るかと思ったのだが……
与えられたギフトは【ギフト】というよくわからないもの。
だが、そのとき思い出した前世の記憶で【ギフト】の使い方を閃いて。
これは少し歪んだ考え方の持ち主、アンナリーナの一風変わった仲間たちとの日常のお話。
冒険を始めるに至って、第1章はアンナリーナのこれからを書くのに外せません。
よろしくお願いします。
この作品は小説家になろう様にも掲載しています。
憧れのスローライフを異世界で?
さくらもち
ファンタジー
アラフォー独身女子 雪菜は最近ではネット小説しか楽しみが無い寂しく会社と自宅を往復するだけの生活をしていたが、仕事中に突然目眩がして気がつくと転生したようで幼女だった。
日々成長しつつネット小説テンプレキターと転生先でのんびりスローライフをするための地盤堅めに邁進する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる