遠くて近い君へ

中岡 始

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第1章 別れの時

7.翔と健一

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「田中さん、次のチェックインの手続き、もう一度確認してもらえますか?」

健一が不安げに書類を差し出してきた。翔は軽く頷きながら書類を受け取り、一通り目を通す。彼の提出した書類にはいくつかの小さなミスが見受けられたが、大きな問題ではない。翔はその点を指摘しつつも、健一が萎縮しないよう気を配って言葉を選んだ。

「中村君、この部分だけど、ここは先にお客様のリクエストを確認してから、予約内容を記載するんだ。細かいところだけど、間違えないように気をつけて」

健一は頷きながらも、どこか肩を落としたような表情を見せる。

「すみません、田中さん。やっぱりまだ慣れなくて…」

その言葉に、翔はかつての自分を重ねるようにして、少し前まで隼人が自分に対してどう対応してくれていたかを思い出した。隼人はいつも冷静で的確だった。それが不思議と安心感を与えてくれていた。翔もそんなふうに健一を導けるだろうかと自問しながら、声をかけた。

「大丈夫だよ、中村君。初めての環境で緊張するのは当然だから、焦らずにやっていこう。少しずつでいいから、一歩ずつ成長していけばいい」

健一は翔の励ましに少しだけ顔を上げたが、その目にはまだ迷いが見えた。翔は内心、隼人ならもっと適切なアドバイスができるだろうと感じていたが、今は自分がその役割を果たすしかない。そう思うと、翔は今まで以上に冷静に対処する自分の姿勢を強く意識するようになっていた。

「それに、中村君が分からないことがあれば、いつでも聞いてほしい。僕もできる限りフォローするから」

健一の目に少しだけ安心感が戻ったようだった。翔は自分が健一を指導しながら成長していることを感じ始めていた。健一とのやり取りを重ねるごとに、翔は指導者としての責任を実感し、「隼人ならどうするだろう?」という問いかけが次第に自分の行動指針となっていった。

それでも、健一との指導の中で、翔は自分自身にもまだまだ成長が必要だと痛感する瞬間が何度もあった。健一がうまく対応できなかった時や、ミスを重ねた時、そのフォローに奔走する自分に対して、どこか頼りなさを感じることがあった。しかし、その度に隼人の言葉や姿勢が頭をよぎり、自分の中で何かが少しずつ変わり始めていることに気づくのだった。

「中村君、次の業務の流れを確認しようか。少しでもスムーズに進められるように、今のうちにしっかり復習しておこう」

「はい、田中さん。お願いします」

二人のやり取りは決して完璧ではなかったが、その中で翔は隼人の不在による寂しさと共に、自分がもっと成長しなければならないという新たな意識を強く抱くようになっていた。そして、いつしかその成長の先に隼人が戻ってきた時に、彼に胸を張って会えるようになりたいという想いが芽生えていく。翔は、健一との日々を通じて、自分の心の中に深まっていく隼人への特別な感情に気づき始めていた。
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