裏切りの代償

中岡 始

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冷徹な訪問者

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「桐生さんがお見えになりました」

秘書の声に、尚紀は手元の資料から顔を上げた。予定にはない訪問だったが、その名前を聞いた瞬間、僅かに眉をひそめた。桐生志信きりゅうしのぶ――ネクサスラボの株主であり社外取締役の一人。冷徹で鋭い視点を持つ彼は、会社の業績や経営方針について妥協を許さない人物として知られている。

「急用ってことだな。通してくれ」

尚紀は声を落ち着けて答える。桐生の訪問が何を意味するのか、漠然とした予感が胸に広がった。

間もなくして、桐生がオフィスの扉を開けて入ってきた。黒いスーツに身を包み、肩には微かな疲労感を漂わせながらも、その鋭い目つきは失われていない。彼は尚紀に軽く頷くと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「急に押しかけて悪いね。ただ、少し話す必要があると思ってね」

桐生は淡々とした声で言った。その言葉に、尚紀は表情を崩さずに頷いた。

「構いませんよ。何の話でしょうか?」

「最近の業績についてだ」

桐生は手元のタブレットを開き、スライドをめくるように画面を操作した。そこには、今期の売上やプロジェクト進捗状況を示すグラフが映し出されている。

「どうやら、芳しくないようだね」

「それについては認識しています。一時的な問題だと考えています。特に新しいリーダーの育成には時間がかかるものです」

尚紀は穏やかな口調で答えたが、桐生の視線は変わらない。彼の無表情には、どこか冷たい圧力があった。

「その“新しいリーダー”というのが藤崎さんだね」

桐生が名前を挙げた瞬間、尚紀の背筋が僅かに伸びた。優美のことが話題になることは予想していたが、実際にその名前が出ると、思わず動揺を隠しきれなかった。

「彼女が担当しているプロジェクトについて、いくつか問題が報告されている。納期の遅延、現場の混乱、クライアントからのクレーム――これらがすべて、彼女のリーダーシップによるものだとすれば、放置するわけにはいかない」

「彼女は努力しています。初めての大きなプロジェクトであり、学びながら進めている段階です」

尚紀の声には僅かな焦りが混じっていた。だが桐生はその言葉を受け流し、再びタブレットを操作する。

「努力は評価するべきだが、それだけでは経営は成り立たない。結果を出す必要がある」

桐生は画面を尚紀に向けた。そこには、優美のプロジェクトに関連する経費や進捗状況が詳細に記されている。

「このデータを見る限り、藤崎さんのプロジェクトは赤字続きだ。さらに、現場の士気が下がっているという報告も受けている。これをどう説明する?」

「……改善に向けて対応中です」

尚紀は短く答えた。それ以上の言葉が出てこない自分に気づき、内心で舌打ちをした。

「対応中、か。それで次回の取締役会までに、どの程度の改善が見込めるのか?」

桐生の視線が尚紀に突き刺さる。彼の言葉には、経営責任を明確に問う鋭さがあった。

「具体的なプランはあります。ただ、少し時間が必要です」

「その“少しの時間”で、会社の信用が失われるリスクをどう考えている?」

桐生は一瞬も目を逸らさずに問いかけた。その冷徹な態度に、尚紀は言葉を詰まらせた。

(どうしてここまで厳しい? 桐生さんは普段、もっと寛容なはずなのに……)

内心で焦燥が膨らむが、それを表に出すわけにはいかない。尚紀は椅子の背もたれに寄りかかり、呼吸を整えた。

「藤崎は有能です。彼女を信じて任せています。それが結果に繋がると信じています」

「そうか。ならば、結果を見せてもらおう」

桐生はゆっくりと立ち上がった。その動作には躊躇がなく、すでに結論を出しているように見えた。

「次回の取締役会で、このプロジェクトの進捗と改善状況を確認させてもらう。必要があれば、経営方針そのものを議論するつもりだ」

「議論、ですか?」

尚紀の声にはわずかな動揺が滲んでいた。桐生は一度だけ頷くと、最後に言葉を残した。

「経営者としての責任を果たしてほしい。それができないなら、会社全体のために別の選択肢を考える必要がある」

桐生は尚紀の反応を待たずにオフィスを後にした。その足音が遠ざかる中、尚紀は机の上に手を置き、深い溜息をついた。

(優美がこれ以上失敗を重ねれば、すべてが終わる)

彼の胸には焦りが膨らみ、それが言葉にできない不安となって重くのしかかった。
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