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第6章:静かに横たわる傷
そういうの、今はやめてください
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窓の外では、柔らかい午後の日差しがうっすらと街並みを照らしていた。
時間はもうすぐ夕方に差しかかろうとしていて、病室のカーテンは半分だけ開いている。
白いシーツのうえに静かに横たわる玲の姿は、薄い光の中でどこか現実感が希薄だった。
陸は、紙袋を片手に病室のドアをそっと閉めた。
靴音を立てないようにゆっくり歩き、ベッドの脇の椅子に腰を下ろす。
「こんにちは、如月さん」
玲は反応しなかった。
顔を向けるでもなく、目を閉じるでもなく、ただ天井を見つめていた。
静かな呼吸のリズムだけが、彼が意識の奥にいることを示している。
「今日、会社の近くの書店で小説見つけたんですよ。
前に“活字は好き”って言ってたの、思い出して」
そう言って、陸は紙袋から文庫本を取り出した。
やや厚めの、装丁の地味な文学作品。
感情に訴えるような台詞は少ないけれど、文章の温度が低いぶん、沁みる作品だった。
玲がもし読んだら、どんなふうに感じるだろうか。
そう思いながら選んだ一冊だった。
続けて、袋の奥から個包装の焼き菓子を出す。
糖分はまだ控えめの方がいいかと思い、ナッツとドライフルーツが入ったものを選んだ。
「あと、これ。病院のご飯って味薄いでしょ。
甘いもん、ちょっとは欲しいかなと思って。無理なら無理でええんで」
説明口調になっているのが、自分でもわかった。
相手の沈黙を埋めるように言葉が増えるのは、よくない癖だと知っていたけれど。
玲はようやく目を向けた。
けれどその目は、物言わぬまま、冷たくも優しくもなかった。
ただ、澄んでいた。
「……そういうの、今はやめてください」
静かな声だった。
責めるわけでも、嫌悪を込めるわけでもなかった。
けれど、その一言は確かに境界線を引くものだった。
陸は、胸の奥がきゅうっと縮むのを感じた。
「……俺、なにか間違えましたか?」
声が、少しだけ震えた。
怒っているわけではない。
ただ、わからなかった。
どこまでが“していいこと”で、どこからが“触れてはいけないもの”なのか。
玲はすぐには答えなかった。
目を伏せ、浅く息を吸って、それからほんの少しだけ顔を横に向けた。
「間違ってない。
ただ……俺が、受け取れる状態じゃない」
それは、拒絶ではなかった。
けれど、それ以上に強い壁だった。
陸は、何も言えずに頷いた。
そういうときは、言葉を重ねるほど相手を苦しめてしまう。
それは、喫煙室での沈黙の心地よさを思い出せば、わかるはずだった。
けれど、今この沈黙は、少し違う。
何を言っても、届かない。
気持ちを向けても、それが跳ね返ってくるわけでもなく、ただ地面に沈んでいくようだった。
ベッドと椅子の距離は、手を伸ばせば届くはずの距離だった。
けれど今は、それが果てしなく遠く感じられた。
カーテンの隙間から射し込む光が、玲の頬に薄く落ちていた。
その肌はどこか儚く、無防備なのに、近づけなかった。
陸は、小さく息をついた。
「本は、ここ置いときます。……読まなくても大丈夫ですから」
文庫本をテーブルの端にそっと置いた。
包装された焼き菓子も、その横に添えた。
玲は何も言わなかった。
手も動かさず、視線を戻すこともなかった。
陸は、立ち上がった。
「じゃあ、今日はこれで」
それ以上、何かを言えば、自分のための言葉になってしまう気がして、口をつぐんだ。
病室のドアを静かに開けて、もう一度だけ玲の方を振り返った。
玲はまだ、天井を見つめたままだった。
その瞳の奥に何があるのかは、どうしても見えなかった。
廊下に出ると、空気が少し冷たく感じた。
病院の外は、もう夕焼けに染まり始めていて、窓のガラスが赤く色づいている。
歩きながら、陸はふと手を見た。
紙袋を持っていたはずの指先が、どこか空っぽだった。
渡せたはずの気持ちが、ひとつも届かなかったことに、ようやく実感が伴ってきた。
それでも。
これ以上なにもできないことが、わかっていた。
玲の言葉には、きちんとした輪郭があった。
「傷つけるため」ではなく、「これ以上、何かを壊さないため」の言葉だった。
あの人は今、自分のなかの何かを守っているのだ。
だったら、自分もそれを壊しにいくようなことはしたくなかった。
ドアの向こうには、何も変わらない静かな病室がある。
けれどそこに、微かな苦しさが横たわっていることを、陸は確かに知っていた。
時間はもうすぐ夕方に差しかかろうとしていて、病室のカーテンは半分だけ開いている。
白いシーツのうえに静かに横たわる玲の姿は、薄い光の中でどこか現実感が希薄だった。
陸は、紙袋を片手に病室のドアをそっと閉めた。
靴音を立てないようにゆっくり歩き、ベッドの脇の椅子に腰を下ろす。
「こんにちは、如月さん」
玲は反応しなかった。
顔を向けるでもなく、目を閉じるでもなく、ただ天井を見つめていた。
静かな呼吸のリズムだけが、彼が意識の奥にいることを示している。
「今日、会社の近くの書店で小説見つけたんですよ。
前に“活字は好き”って言ってたの、思い出して」
そう言って、陸は紙袋から文庫本を取り出した。
やや厚めの、装丁の地味な文学作品。
感情に訴えるような台詞は少ないけれど、文章の温度が低いぶん、沁みる作品だった。
玲がもし読んだら、どんなふうに感じるだろうか。
そう思いながら選んだ一冊だった。
続けて、袋の奥から個包装の焼き菓子を出す。
糖分はまだ控えめの方がいいかと思い、ナッツとドライフルーツが入ったものを選んだ。
「あと、これ。病院のご飯って味薄いでしょ。
甘いもん、ちょっとは欲しいかなと思って。無理なら無理でええんで」
説明口調になっているのが、自分でもわかった。
相手の沈黙を埋めるように言葉が増えるのは、よくない癖だと知っていたけれど。
玲はようやく目を向けた。
けれどその目は、物言わぬまま、冷たくも優しくもなかった。
ただ、澄んでいた。
「……そういうの、今はやめてください」
静かな声だった。
責めるわけでも、嫌悪を込めるわけでもなかった。
けれど、その一言は確かに境界線を引くものだった。
陸は、胸の奥がきゅうっと縮むのを感じた。
「……俺、なにか間違えましたか?」
声が、少しだけ震えた。
怒っているわけではない。
ただ、わからなかった。
どこまでが“していいこと”で、どこからが“触れてはいけないもの”なのか。
玲はすぐには答えなかった。
目を伏せ、浅く息を吸って、それからほんの少しだけ顔を横に向けた。
「間違ってない。
ただ……俺が、受け取れる状態じゃない」
それは、拒絶ではなかった。
けれど、それ以上に強い壁だった。
陸は、何も言えずに頷いた。
そういうときは、言葉を重ねるほど相手を苦しめてしまう。
それは、喫煙室での沈黙の心地よさを思い出せば、わかるはずだった。
けれど、今この沈黙は、少し違う。
何を言っても、届かない。
気持ちを向けても、それが跳ね返ってくるわけでもなく、ただ地面に沈んでいくようだった。
ベッドと椅子の距離は、手を伸ばせば届くはずの距離だった。
けれど今は、それが果てしなく遠く感じられた。
カーテンの隙間から射し込む光が、玲の頬に薄く落ちていた。
その肌はどこか儚く、無防備なのに、近づけなかった。
陸は、小さく息をついた。
「本は、ここ置いときます。……読まなくても大丈夫ですから」
文庫本をテーブルの端にそっと置いた。
包装された焼き菓子も、その横に添えた。
玲は何も言わなかった。
手も動かさず、視線を戻すこともなかった。
陸は、立ち上がった。
「じゃあ、今日はこれで」
それ以上、何かを言えば、自分のための言葉になってしまう気がして、口をつぐんだ。
病室のドアを静かに開けて、もう一度だけ玲の方を振り返った。
玲はまだ、天井を見つめたままだった。
その瞳の奥に何があるのかは、どうしても見えなかった。
廊下に出ると、空気が少し冷たく感じた。
病院の外は、もう夕焼けに染まり始めていて、窓のガラスが赤く色づいている。
歩きながら、陸はふと手を見た。
紙袋を持っていたはずの指先が、どこか空っぽだった。
渡せたはずの気持ちが、ひとつも届かなかったことに、ようやく実感が伴ってきた。
それでも。
これ以上なにもできないことが、わかっていた。
玲の言葉には、きちんとした輪郭があった。
「傷つけるため」ではなく、「これ以上、何かを壊さないため」の言葉だった。
あの人は今、自分のなかの何かを守っているのだ。
だったら、自分もそれを壊しにいくようなことはしたくなかった。
ドアの向こうには、何も変わらない静かな病室がある。
けれどそこに、微かな苦しさが横たわっていることを、陸は確かに知っていた。
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