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第5章:静かに、壊れるとき
あの夜を、まだ覚えている
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視界が滲んでいた。
うす暗い会議室の床が、冷たい。
額を下げたその場所は、カーペットの繊維が少し起きていて、焦げ跡のように黒ずんでいる。
その形だけが、妙に鮮明に記憶に焼きついていた。
どうして、自分がここに膝をついているのか。
それはもう分かっていた。
分かっていたが、誰の目にも、それは無意味だった。
目の前の男の声は大きく、湿り気を帯びていた。
机を叩いた音が、腹の底まで響く。
「こんなもんで通ると思ってるのか? こっちはもう何度修正出してると思ってんだよ」
その言葉は、玲に向けられているわけではなかった。
隣に座っていた後輩――その日まで、ずっと一緒に走ってきた子が、震える手でパワポを閉じた。
けれど、怒声を真正面で受けたのは玲だった。
「……こちらの確認不足でした。申し訳ありません」
声を出すのに、喉の奥が少し痛んだ。
けれどそれは、自分が発した言葉だとすぐには思えなかった。
誰かの台詞を、代わりに読み上げているような気がした。
部下は顔を上げなかった。
玲もまた、表情を見ようとしなかった。
そのまま、頭を下げる。
声が遠ざかる。
――大丈夫です、と言っていた。
――すぐ直します、も言っていた。
――でも、出来ていなかった。
その全部を、自分が背負うことに、もう迷いはなかった。
なのに数日後、彼女は突然会社を辞めた。
メールも、ロッカーの中も、すべて空っぽだった。
残されたのは、修正前のデータと、玲のアカウントに残された通知だけ。
人事の言葉はあっけなかった。
「如月さん、責任取ってもらえますよね」
「彼女の教育係はあなたでしたから」
「トラブルを起こさないよう、静かに処理してください」
静かに処理、という言葉が、妙に頭に残った。
誰かの責任を、誰かが静かに引き受けて終わるのが、この会社だった。
会議室の扉が閉まる音、冷たい目線、声を潜めた同僚の噂。
全部、自分に降ってくる。
自分の名前を誰かが呼ぶ声に、振り返れなかった。
誰も、真っすぐ目を見てこなかった。
だから、玲ももう、誰の目を見なくなった。
あの日から、心が何層も分厚い膜で覆われていくのが分かった。
言葉の温度を調整するようになった。
笑顔は、必要最小限の場面だけで使うものになった。
誰かと近づかないよう、どれだけ優しくされても踏み込ませないよう、心のドアに鍵をかけた。
そして、残業が続いたある日の夜。
高層ビルの非常階段にひとり腰を下ろし、誰もいない夜の街を見下ろしていた。
星が見えない東京の空は、どこまでも無言だった。
吸いかけの煙草が手の中で消えていく。
誰も来ないその場所で、ほんの少しだけ、涙が落ちた。
声を上げなければ、泣いていないことになる。
誰にも見られなければ、弱っていないことになる。
そうやって、息をする場所をひとつずつ削っていった。
もう、誰にも期待しなければいい。
誰にも寄りかからなければ、裏切られることもない。
そうやって、ひとりの形をつくった。
気づけば、それが“自分”になっていた。
***
どこからか、機械音が聞こえる。
淡い光の中で、何かが揺れていた。
喉が乾いていた。
身体が重い。
でも、目は開かない。
何かが、指に触れている気がした。
温かかった。
握られている。
その感触に、かすかに眉が動く。
遠くの記憶が、再び沈んでいく。
静かに、音を立てずに、深く、深く。
ただ一言だけ、残されていた。
――あの夜を、まだ、忘れていない。
そして現在の玲が、目を閉じたまま、眉をほんのわずかにしかめた。
眠りの底で、痛みに似た何かが再び動きはじめていた。
うす暗い会議室の床が、冷たい。
額を下げたその場所は、カーペットの繊維が少し起きていて、焦げ跡のように黒ずんでいる。
その形だけが、妙に鮮明に記憶に焼きついていた。
どうして、自分がここに膝をついているのか。
それはもう分かっていた。
分かっていたが、誰の目にも、それは無意味だった。
目の前の男の声は大きく、湿り気を帯びていた。
机を叩いた音が、腹の底まで響く。
「こんなもんで通ると思ってるのか? こっちはもう何度修正出してると思ってんだよ」
その言葉は、玲に向けられているわけではなかった。
隣に座っていた後輩――その日まで、ずっと一緒に走ってきた子が、震える手でパワポを閉じた。
けれど、怒声を真正面で受けたのは玲だった。
「……こちらの確認不足でした。申し訳ありません」
声を出すのに、喉の奥が少し痛んだ。
けれどそれは、自分が発した言葉だとすぐには思えなかった。
誰かの台詞を、代わりに読み上げているような気がした。
部下は顔を上げなかった。
玲もまた、表情を見ようとしなかった。
そのまま、頭を下げる。
声が遠ざかる。
――大丈夫です、と言っていた。
――すぐ直します、も言っていた。
――でも、出来ていなかった。
その全部を、自分が背負うことに、もう迷いはなかった。
なのに数日後、彼女は突然会社を辞めた。
メールも、ロッカーの中も、すべて空っぽだった。
残されたのは、修正前のデータと、玲のアカウントに残された通知だけ。
人事の言葉はあっけなかった。
「如月さん、責任取ってもらえますよね」
「彼女の教育係はあなたでしたから」
「トラブルを起こさないよう、静かに処理してください」
静かに処理、という言葉が、妙に頭に残った。
誰かの責任を、誰かが静かに引き受けて終わるのが、この会社だった。
会議室の扉が閉まる音、冷たい目線、声を潜めた同僚の噂。
全部、自分に降ってくる。
自分の名前を誰かが呼ぶ声に、振り返れなかった。
誰も、真っすぐ目を見てこなかった。
だから、玲ももう、誰の目を見なくなった。
あの日から、心が何層も分厚い膜で覆われていくのが分かった。
言葉の温度を調整するようになった。
笑顔は、必要最小限の場面だけで使うものになった。
誰かと近づかないよう、どれだけ優しくされても踏み込ませないよう、心のドアに鍵をかけた。
そして、残業が続いたある日の夜。
高層ビルの非常階段にひとり腰を下ろし、誰もいない夜の街を見下ろしていた。
星が見えない東京の空は、どこまでも無言だった。
吸いかけの煙草が手の中で消えていく。
誰も来ないその場所で、ほんの少しだけ、涙が落ちた。
声を上げなければ、泣いていないことになる。
誰にも見られなければ、弱っていないことになる。
そうやって、息をする場所をひとつずつ削っていった。
もう、誰にも期待しなければいい。
誰にも寄りかからなければ、裏切られることもない。
そうやって、ひとりの形をつくった。
気づけば、それが“自分”になっていた。
***
どこからか、機械音が聞こえる。
淡い光の中で、何かが揺れていた。
喉が乾いていた。
身体が重い。
でも、目は開かない。
何かが、指に触れている気がした。
温かかった。
握られている。
その感触に、かすかに眉が動く。
遠くの記憶が、再び沈んでいく。
静かに、音を立てずに、深く、深く。
ただ一言だけ、残されていた。
――あの夜を、まだ、忘れていない。
そして現在の玲が、目を閉じたまま、眉をほんのわずかにしかめた。
眠りの底で、痛みに似た何かが再び動きはじめていた。
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