君と私の恋の箱

華子

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「す、すみません!」

 遊園地翌日のバイトはミスばかり。力のない指先をするっと抜けた皿は数枚、床で割れた。善人代表の店長に、溜め息を吹きかけられる。

「いいよ、ここは僕が片しておくから持ち場に戻って」
「すみませんっ、店長」
「今日は少し疲れているみたいだから、早めにあがりなさい」

 何もかも、うまくいかなかった。

 シフトを二時間も早く切り上げた私は、ただ開けたままの双眸で商店街を歩く。

「あれ、乃亜じゃん」

 そんな瞳に目的をくれたのは、卒業式以来初めて会う勇太君だった。
 

 喫茶店のテラス席に座った私達は、互いの近況報告をした。

「へえ、森と一緒のとこでバイトしてるんだ。森、元気?」
「元気元気っ。もしよかったら今度お店来てよ、飲み物奢るから。勇太君は最近どう?」
「俺は相変わらず勉強ばっか。それ以外は特に何もないよ」
「嘘だあ。勇太君モテるから、もう彼女とかできたでしょ?」
「ああ、有り難いことに告白はされたけど、勉強が理由で断っちゃった」
「あははっ。断り文句も勉強なんだねっ」

 口元に手をあてて、ふと気付く。彼と自然に恋の話ができている。

「なんか、びっくりかも……」

 別れたら気まずくなって、そこで終わりだと思っていた彼との関係。

「勇太君とこんな風にお茶できる日が、また来るなんて思ってもみなかった」
「ははっ、確かに。俺達色々あったもんな」

 どれもこれも鮮明に思い出せるのに、それ等はどれをとっても、遠い昔のことのよう。
 指先で氷を突ついた彼は言う。

「でもべつに、不思議なことじゃないよ。だって森と乃亜も元恋人だけど、今は友達でしょ?」
「そういえばそうだ。忘れてたっ」

 はははとたくさん笑って、表情を戻す彼。

「きっと本当に気が合う人とはさ、別れたってこうやって、楽しく時間を共有できるんだよ。かけがえないよね、元恋人って。相手のダメなとも良いとこも全て知ってる存在」

 そう言った彼の笑顔が陽に照らされて、暑い真夏の午後でも清々しく映った。


「陸とは、うまくやってる?」

 残り少ないドリンクを、くるりとカップごと回して彼が聞く。

「ああ、うん、一応……」

 私はコーヒーで口を封じた。

「ならよかった。俺、乃亜の好きな相手が陸だから諦めなきゃって思った部分も、多少あるからさ」
「え?」

 軟らかに笑う勇太君。続きを話す。

「陸に殴られた時さ、俺、どっかで負けを意識したんだ。ああ、陸と乃亜には強い絆があるんだなぁって。俺じゃ入ってはいけないなって、不安になった。そんなの取っ払うくらいに乃亜を振り向かせようと頑張ったけど、結局乃亜は、ずっと陸の方を向いてたよ」
「そ、そんなことっ」
「乃亜がこっちを向く努力をしてくれていたのもわかってる。その上で言ってるんだ。ふたりの間には誰も入れない、それがわかってからは、しばらく辛かったよ」

 その麗しい彼の瞳に私は一瞬でもときめき、あの頃、惹かれたのかもしれない。

「勇太君」

 もう少しで空になるカップを前に、最後にひとつだけ、聞いてみたいと思ってしまった。

「私との思い出は、苦い思い出ですか?」

 急に畏まった私に笑いながらも、彼は丁寧に答えてくれた。

「乃亜と過ごした日々は、素敵な思い出です」

 双葉が押してくれた背中に、手を添えられた気がした。


「ただいま……」

 いつも通りの静けさにプラスされる空虚。奈緒さんの部屋は昨日のまま、帰ってきた形跡はない。母が死んだ時もそうだった。何日も何十日も片付けられることのなかったこの部屋が、ある日突然掃除され空っぽになるんだ。その経験を、私はもう一度するのだろうか。

 辛いから誰かに聞いて欲しい、そんなんじゃなくて。今すぐ逢って話したい。だから私の指は、陸を呼び出したんだ。

「陸?逢いたいっ」


 突然寄越した電話にも関わらず、陸は予定を切り上げて会いにきてくれた。いつもの川沿い、いつものふたり。これが一番、心安らぐ。真剣な面持ちの私に、陸は不安げだった。

「どうした乃亜。何かあったか?」

 陸に話したいことは、くだらない内容も含めて無数にある。でもまずは──

「前に……話したことあったっけ。お父さんの彼女のこと」
「ああ、一緒に住んでるって言ってたよな。スナックの人だろ?」
「うん。陸にあんまり話してなかったけどさ、けっこう上手くやってたんだよ。お正月にお蕎麦用意してくれたり、高校合格した時も、みんなでご飯行ったりしてさ。なんていうか……お父さんとふたりきりじゃできなかったこと、彼女がしてくれたっていうか」
「そうなんだ」
「奈緒さんがいなかったら、もっと暗い家になってたと思う」

 だから信じた。なのに。

「奈緒さん、いなくなったの……」

 信じなければよかったのだろうか。

「お父さんと喧嘩して、あっさりと出て行った。馬鹿みたいだよねっ。一緒に住むのもいいかも、楽しいかもって思ったのに、結局これだもんっ」
「いつ?」
「昨日の朝」
「だからか、お前の様子が変だったの。ずっと無理して笑ってた気がしてた」

 見えない風を見つめ、陸は今にも泣きそうな私にかける言葉を探している。彼の視線の先、向こう岸で飛ぶ鳥を、私は眺めていた。

 川、鳥、空、そして陸。私は息を吸った。

「陸とは一緒にいたい」

 自分でも不思議なんだ。こんなどん底にいるのに、闇の中にいるのに。陸だけは、陸とだけは。

「陸とは一緒になりたい」

 そう思ってしまう。

 驚いた顔の陸を、私は真っ直ぐ見た。

「陸を信じたい、側にいたい。そう思っちゃう。ねえ、なんでなの?」

 涙が一筋流れていく。彼の瞳も潤んでいた。

「ねえ陸。俺も乃亜の前から消えるよって、俺もどうせすぐいなくなるよって言ってっ。じゃないと私、またひとりぼっちになった時に辛くなるっ」
「乃亜」
「俺なんか信じるなって、そう言ってよ!」
「乃亜っ!」
 
 気付けば口を噤んでいたのは、陸の胸元に引き寄せられたから。陸の匂いがして、陸の鼓動を感じて、胸がいっぱいになる。

 震えた声が、少し上から聞こえてきた。

「俺が、離れられると思うの……?俺が乃亜を、手放せると思う……?」
「……わかんない」
「凛花と付き合ってみて実感した。アイツいい奴だし、一緒にいて楽しいよ。でも乃亜といる時は、嫉妬とか胸の詰まる感じとか、苛ついたり辛い時がいっぱいあるんだよ。お前すぐ泣くし、テンションすぐ変わるし、ご機嫌とるの、ぶっちゃけまじでめんどくせえっ」

 夏より熱い陸の体が、どうしてだか私に安心感を与えてくれた。

「なのに、乃亜の少しの笑顔ですっげー幸せになれんだよ俺。叩かれたってあしらわれたって、馬鹿にされたって。乃亜さえ笑ってりゃいいんだ」

 陸の胸から彼を見上げた。彼の瞳からは、今にも滲んだ私がひと粒落ちてしまいそうだ。

「もうどこにも、行かないでよ……」

 シャボン玉のように、儚い声だった。

「俺もどこにも行かない、乃亜を放さない。そしたら離れることなんかねえよ、一生一緒じゃんかっ。絶対約束する。俺は乃亜をひとりにしない。だからお願い乃亜、どうか……」

 絞り出される、その声。

「どうか俺を、受け入れて……」


 陸の涙に胸を打たれたからじゃない。闇に落ちていくずっと前から、いつか覚悟できる日がきたら必ずこの手を取ろうと、そう決めていたんだ。


「好き」

 ずっと伝えたかったこの愛を、今日初めて素直に言えた。

「私は、陸が大好き」


「あ、乃亜ちゃんだ!」

 家に帰ると寂しくなる。そんな私を気遣ってくれた陸は、夕ご飯に誘ってくれた。

「乃亜ちゃんいらっしゃい。久しぶりねぇ」

 いつでも温かく迎えてくれる、陸の家族。

「乃亜ちゃん、ちょっと」

 靴もまだ脱ぎきらぬ私を、楓は自身の部屋へ促す手招きをした。その瞬間、膨らむ期待。もしかしたらあの報告をしてくれるのではないかと思ったから。
 私の耳に顔を近付けて、楓は囁いた。

「実はね私、彼氏できたのっ」

 ああ、嬉しくなる。

「ふふっ。もう知ってるよーん」
「え!」

 右から左へ脳を貫くほどの大声に、私は咄嗟に耳を覆った。

「お兄ちゃんが言ったのね!あのばか兄貴、すぐ言いふらすんだから!」

 憤慨する彼女に聞く。

「彼、どんな人?どんな性格?」
「そんなの説明しなくても、直接会えばいいじゃんっ」
「ええっ。だって私、どの立場で会えばいいのか……」

 ぽりぽりとこめかみをなぞる私に、彼女は平然と言ってのける。

「楓の姉ですでいいじゃん。実際そう思ってるし」
「あ、姉……?」
「え!そう思ってるの私だけ!?」

 度肝を抜かれたのは束の間で、これまでの彼女と私を振り返り見れば、いとも簡単に答えは出た。

「私も楓のこと、妹だと思ってるよ」


 四人で食卓を囲むのは久々だった。バイトの話や楓の受験話など、終始話題は尽きなかった。

 塾に通い出したという楓を送り出した後、陸と私はゲームをした。彼の部屋のテレビへ精神統一していると、こんな質問を投げかけられた。

「なあ、俺達って付き合ったの?」

 その途端、切れる集中力。

「はい?何言ってんの、付き合ってるわけないじゃん。陸は凛花の彼氏でしょ」
「あ、そっかそうだった。凛花と話さなきゃか、俺」
「忘れるとか、最低」

 コントローラーを操作する手が図らず止まる。陸を最低だと罵る資格など、私にはない。

「おい乃亜、何やってんだよ。あーあ、死んだじゃんか」

 敵にあたり、点滅するキャラクター。それを目に入れながら、私は言った。

「私、凛花に酷いこと言っちゃったんだよね」

 記憶を呼び起こすだけで、負い目しか感じない。

「くだらない八つ当たりした。凛花ばっか楽しそうに見えて、鬱陶しかった」

 陸は呆れて、笑う。

「まぁ、アイツは人生楽しそうだしな。嫉妬する気持ちもわかるよ」

 画面のキャラクターが生き返る。またすぐ敵にあたって死んでいく。

「どうでもいいって言った。凛花がどれだけ私の人生で大きな存在だったかなんて考えずに、人生どうでもいいって。凛花のことも大嫌いって言った」
「んー。それはアイツ、傷付くかもな。凛花は乃亜のこと、本当に好きだから」

 背後のベッドに頭を預け、天井いっぱい凛花を描く。

「……私、どうすればいい?」

 寸刻悩んだ陸は言った。

「悪いと思ったなら、謝ればいいんじゃん」
「謝って、もし仲直りできたとして。陸のことが好きですって言ってまた傷付けるの?もう私、凛花と喧嘩したくないよ。仲直りのまま終わりたい……」

 嫌な静寂が漂って、陸が口を開く。

「じゃあ、俺のこと諦める?」
「何。その上から目線」
「だってお前、友情とって諦めそうだから」

 私は、その言葉に何を返せばいいかわからなかった。陸と凛花、ふたりを天秤にかけるわけではないけれど、陸を取った際に凛花との関係が崩れるのがとても怖い。それだけは、絶対に避けたいと思った。

 いつまでも黙りこくる私の側に来て、陸も天井に目を移す。

「諦めんな」
「え?」
「俺は乃亜に俺を諦めて欲しくない。俺は乃亜をもう二度と、諦めねぇ」
「でも、そしたら凛花を……」
「そんでもって凛花のことも諦めんな。お前等一体何年友達やってんだよ。もう十年は経つだろ。凛花が乃亜に愛想尽かすならとっくに尽かしてるし、お前等の友情なんて壊れてるよ。十年も隣にいてくれるってことは、乃亜のそういうとこ全部知って、何回も振り回されて、それでも友達やりたいからやってんだろ?俺と一緒だよ凛花は。乃亜の身勝手なとこも全部知った上で、悔しいけどずっと一緒にいてぇんだよ」

 真顔のままにこちらを向いて、陸の親指がグッと立つ。

「だから安心して、話してこい」

 しっかり説得されてしまい、こくこくと二回に分けて頷いた。そんな私に、彼は優しく微笑んだ。


「あ。そーいうの全部終わったらさ、俺、また乃亜に告白するわ」

 ゲームを再開させた陸が言う。

「次は絶対、オッケーしろよ」

 綿毛のように軽い口調でも、耳は薔薇のような深紅色。くすぐられるのはハートの真ん中、笑みが自然と溢れていく。

「陸の格好いい告白、待ってる」
「ハードルあげんな、ばーか」

 色々な雑念を飛び越えて、その日を待ち遠おしく思う。

✴︎

 数日後、凛花の自宅前で深呼吸。知らせなしのベルを鳴らせば、彼女の戸惑いはマイク越しに伝わった。

「え。な、何」
「凛花。少し、出てこれる?」

 家で何度も復唱してきた謝罪文。わかり易く丁寧に、きちんと順を追って話そうと決めていた。しかし玄関から出てきた彼女を一目見れば、一番最後の三文字が、最初に口から抜けていく。

「ごめん!」

 出し抜けの大声に、彼女の口があんぐり開いた。

「遊園地の日っ、私、朝に嫌なことあって、凛花に八つ当たりしたっ。どうでもいいなんて少しも思ってない、凛花とずっと仲良くいたい!」
「乃亜、声大きすぎっ。夜だよ」
「ご、ごめん!」

 注意を受けた直後のボリュームも調整できぬ私に、彼女はほんのり少し笑った。

「私も……乃亜に酷いこと言っちゃったね。死んでくれなんて思ってない。撤回する、ごめん」
「うん、わかってるっ」
「いつでも相談乗るからさ、八つ当たりする前に、全部話してよ」
「うんっ!いっぱいいっぱい凛花に聞いて欲しいことあるから、今度丸一日ちょうだいっ」
「オーケー」

 準備していた文面とは異なってしまったけれど、彼女との関係が修復できて安堵した。しかしすぐに襲ってくるは、大きな不安。
 陸のくれた「諦めんな」を脳内で反芻させて、勇気を出す。

「あと私……凛花に言わなきゃいけないことが、まだあるの」
「何?」

 蝉が鳴く。あの日みたくなりたくない。いや、絶対にそうさせない。私は彼女を諦めない。

 唾を飲む。

「私、陸のことが好きなの。小学生の時からずっと、陸が好きっ」

 凛花の表情は変わらなかった。けれど瞬きの回数が増えた。彼女は何も発さない。だからまだ、私の番だ。

「恋愛なんて終わりがくるものだと思ってたから……だから陸とはずっと幼馴染でいたいって思ってた。悲しい別れも何もない関係でいたいって。私、逃げてたのっ。本気で恋愛するのを避けてた。でも、でも凛花が陸と付き合ってすごく辛くて、ちゃんと応援出来なくて、そんな自分がすっごく嫌でっ。だから──」

 その先を予想したのか、凛花の眉間に皺が寄る。

「だから私、陸に正直に好きって伝えたっ。そしてそれを、今ここで凛花に正直に言うっ。私、陸と付き合いたいっ」

 はたから見れば、私はただのエゴイストなのだろう。

「でも凛花とは仲良くいたい!私の親友でいて欲しい!」

 自分でも、心の底からそう思う。だけどこれが、私の本心なんだ。

 再度出された大声に、彼女は周りを気にしなかった。

「凛花」

 下唇を噛むだけの、彼女に言う。

「率直に、凛花の今の気持ちを言って欲しい。何を言われてもいい、言葉なんて選ばなくていい。覚悟決めて、今日ここに来たから」

 潤んだ瞳と視線が絡む。深く息を吸った彼女は、それを大きく吐き出した。

「じゃあ……うん、遠慮なく」

 そしてまた、息を吸う。

「まじあり得ないっ!最っ低!」

 バキュンといきなり打たれた弾丸に倒れそうになったけど、グッと足に力を入れて持ち堪える。

「なんなの!?なんで今更そんなこと言うの!?意味わかんないよっ!もっと早く言ってくれればさ、私、陸だけは絶対に好きにならなかった!恋愛で友達と揉めるなんてまじ勘弁だし、乃亜の好きな人なら尚更、応援させて欲しかった!」

 はあはあと肩で息をして、震える彼女は拳を握った。

「せっかく……せっかく好きな人ができて付き合えたのに、好きになれるように頑張るって言ってもらえたのにっ!私が乃亜に敵うわけないじゃん!昔からずっと陸の側にいて、陸だっていつも一番に乃亜を気にかけてて、ふたりには絶対的な絆があるんだよ、ふざけんな!」

 彼女が懸命に堪えるものを、先に私が流してはいけないとわかっていても、早々と限界を迎えそうで嫌に思う。

「陸が乃亜にやたらとちょっかい出すのも、大事にしてるのも、もしかしたら恋なんじゃないかって思ってたっ!でも乃亜が陸を相手にしてないって感じだったから、私もそんなの気にしないでいられたのっ!だから陸に告白だってした!乃亜のばか!あんたが好きならあんたの背中押したかったよ!言うの遅すぎ、もっと早く言ってよ親友でしょ!ばかばか、ばか!ばか野郎!」

 その瞬間、凛花の目から雫が落ちた。それを見てしまえばもう、私の涙腺も崩壊した。

 その場にふたり蹲り、わんわん泣いた。彼女は時折「ばか」と言った。私はその都度「ごめん」と言った。人目も時間も場所も気にせずに、ずっとずっと泣いていた。

 次第に泣き声が収まって、鼻を啜る音だけになった頃。ひしげた顔の凛花と目が合い、「酷い顔」と笑われた。掠れた声で、彼女は言う。

「これだけ文句言っておいてなんだけど、私も乃亜にはずっと親友でいて欲しいから」

✴︎

『今日の夕方会える?』

 そんな陸からのメールに気が付いたのは、バイトの休憩中だった。そわそわする私に森君は、「陸だな」と悪戯な笑みを向けてきた。私の心を読み取るのは陸のはずなのに、元恋人である彼も見透かし上手だ。


 陸との待ち合わせはあの公園。去年の夏、想いを初めて打ち明けた場所。バイトを終えて到着すると、彼はベンチで読書をしていた。

「陸、お待たせー。何それ」

 私の存在に気付くと共に、その本は閉じられた。表紙を覗き込む。

「バイト先の先輩に借りた漫画。乃亜は無理だよ、格闘技の話だもん。けっこう血ぃ出る」
「ふうん」

 陸の隣に腰を掛ける。途端に始まる真面目な話。

「俺、凛花とちゃんと話した」
「そっか……凛花、大丈夫そう?」
「んー、まあ。泣いてはいたけど」

 バーベキューでの出来事を嬉しそうに話す凛花が、つい昨日のことのように蘇る。彼女は本当に、陸のことが好きだった。

「なんかへこむ。凛花を思うと」
「乃亜は気にすんな。もとはといえば、俺が中途半端な気持ちで付き合ったのが悪い」

 私の腕をピンッと指ではじいた陸は、浅く座り直して姿勢を正す。

「ってことで俺、今フリーになったわけなんだけど、乃亜は付き合ってる奴いる?」
「はあ?いるわけないじゃん。何言ってんの」
「いや、だって乃亜ってすぐに誰かと付き合うからさ」

 持っていた鞄で陸を叩く。彼は頭をさすって言う。

「イテェよ今のは。武器はなしだ、武器は」
「人をチャラい女みたく言うから」
「一途なの?」
「い、一途だよっ」
「ほんと?じゃあ乃亜、俺と……」

 そこまで言って、本で口元を覆う陸。

「ダメだ。緊張して言えねえ」

 みるみるうちに、耳が赤くなっていく。そんな彼を前にすれば、私の胸もチュンチュンキュンキュン鳴き出した。

「早く言ってよ」
「ちょ。待て」
「今更何もたついてんの。早く告ってよ」
「自分から催促する奴いるかあ?」

 互いに一度ずつ咳を払って、向き合った。

「乃亜」
「はい」
「俺は乃亜のことを一生離しません。生涯愛し続けます。俺と付き合って下さい」

 まるでプロポーズのような台詞と共に真剣な眼差しを寄越されて、ここが公園だということを忘れてしまいそうになる。純白のタキシードを纏った陸に、ウエディングドレス姿の私。瞳にベールのフィルタがかかる。

「私も、陸の元から一生離れません。生涯愛し続けます。ずっと一緒にいて下さい」

 幼い頃からの夢。怖くて怯えて諦めていた。ようやく叶った今日という日は、一生忘れないだろう。

 陸は私を抱きしめた。私も彼を抱きしめる。寒くもないのに震える彼から察するに、おそらく彼は感極まっている。

「陸、泣いてるの?」
「うっせ、泣いてねえよ……」
「ふふっ。泣いてんじゃん」
「うるせっ」

 闇を抜けた先、そこは天国にも近い場所だった。

✴︎

 夏休みも終盤に差し掛かった、相も変わらず暑い朝。私は宿題に追われていた。
 居間から聞こえる競馬実況。父とのふたり暮らしに戻ってからは、会話が一層減っていた。

 宿題が一段落した頃、窓の外へと目をやった。西に沈みいく太陽に、新学期までのカウントがまたひとつ。

 冷蔵庫に飲み物を取りに行くと、父は一日中パジャマで過ごしていたのか、朝起きたままの格好で煙草を吸っていた。

「ねえ。奈緒さんの部屋って、片していいの?」
「さぁ。どうしたもんかなぁ」

 換気扇に、細い煙を送る父。

「さぁって、自分で出てけって言ったくせに」
「そうだなぁ」

 すーっと煙草の先を赤くさせ、また糸のように吐いていた。

 感情の読めぬ答え方に嫌気がさす。冷蔵庫の扉は強く閉めた。

「奈緒さんがもう帰ってこないなら、あそこはお母さんの部屋だし、片付けるから」
「うーん」
「選択してね」

 奈緒さんを呼び戻すか、別れるか。


「バイトやべえ。なんでこんなにピザの注文入るんだよ、クリスマスかっつーの」

 陸の部屋。ゲームをスタンバイさせる私の肩に、彼は頭を乗せた。

「八月ももう終わるんだし、みんな素麺でも食べてろよー」
「ずっと素麺だったから、夏の終わりにピザでも食べたくなったんじゃない?」

 そう言って、コントローラーを陸に渡すが、受け取る気配がない。

「陸?ゲームやらないの?」
「やる」
「めっちゃ疲れてんじゃん。無理して会わなくてもよかったのに」
「やるけどその前に──」

 首に回されるその腕は、いつだって私よりも熱い。触れた唇の先、いつもそこから溶けていく。

「チャージしたい」

 重なる私達に理屈はない。互いに罪悪感を抱えながら一線を超えたあの日から、きっといつまででもこうしていたかったんだ。


「ちょっとふたり共、言わなきゃいけないことあるでしょ」

 夕ご飯をご馳走になり、皆で寛いでいると、楓が突然腕を組んだ。

「お兄ちゃん、前にも増して乃亜ちゃんと座る距離近いし、夜ずっとメールしてるし、ふにゃふにゃしてるし。変、変すぎる!絶対何かあった!」
「はあ?ふにゃふにゃしてねえよっ」
「今もスライムみたいだよっ。もしかしてふたり、付き合ったの?」

 陸の反応を横目で見る。見事に耳が真っ赤っかだ。

「楓あたり。付き合ってるよ。陸ってば言ってなかったんだね」

 しれっとそう報告して、陸の二の腕をぎゅっと抓る。

「イッテ!イッテェってば!」

 悶える彼には皆が笑った。

「ちゃんと家族に言えし」
「そんなん、言わないだろ普通っ」
「あ、何。私は家族にも紹介できない恋人なの?」
「そ、そういう意味じゃなくてっ」

 陸の母は、写真立ての中で微笑む母に向かって、何やら話しかけていた。

「今の聞いた?私達の子供達、付き合ったんですって。びっくりねえ。乃亜ちゃんのことは、これからは陸が守るからねえ」

 よろしくね。そんな母の声が聞こえた気がした。

✴︎

 翌日。森君よりも先に仕事を終えた私は、レジで立つ彼に言う。

「森君お疲れっ。いつもより早くあがっちゃってごめんね」
「気にすんなー。凛花はいつ来るの?コーヒー用意しとくよ」
「バイト終わる時間伝えてあるから、もうすぐ着くと思う」

 凛花は私が誘った。特に用事はないけれど、会いたいから。親友の彼女とお喋りでもしたいから。


 彼女は疲弊しながらやって来た。夏の終わりは皆一様に、疲れが溜まっているようだ。店内二階、窓際の席に腰を下ろす。

「ちょっと聞いてよ乃亜ぁ。部活の三年生引退した途端に、二年生がまじで張り切っちゃってさ、練習超キツくなったんだけどー」
「えー、ただでさえバスケの練習ってキツいイメージあるのに、それは大変だね」
「もうダメ、死んじゃう。このままじゃもっと痩せちゃうよぉ」

 言われてみれば、彼女の体は遊園地の時より華奢に感じた。ハードな練習だけが理由なのか、若干の不安を抱く。

「凛花、そのお……」

 それを声に出して聞こうとすると、指の揃えられた彼女の手が、顔の前でピシッと立った。

「秋の大会、番号もらえそうだから陸と観に来なよ」
「え……」

 その手からひょっこりと、顔を出す彼女。

「付き合ったんじゃないの?あんた達」
「つ、付き合ったけど、いいの?」
「いいに決まってんじゃんっ。陸とも悲しい別れなんかしてないし、友達友達」

 さっぱりしたその顔に、どうやって陸を吹っ切れたのだろうと一瞬疑問を持つけれど、そんなものは思い過ごしで、本当はまだ未練があるかもしれない。

「絶対行く!超応援する!メガホン持ってく!」
「やめてよそんなのっ。恥ずかしいわっ」

 けれど私にそう勘違いさせてくるところが、凛花のすごいところなんだ。

 陸に今すぐ報告がしたい。諦めないでよかったと、凛花と私の友情は、崩れなかったよと。そういえば、今朝目にした星占いでは私の星座が一位だった。そんなことも思い出しながら、浮かれ気分で家路を行く。

「もしもし、陸聞いてっ。凛花がバスケの大会、陸と観にきなよだって!」

 半分無意識に押した通話ボタン。陸は「よかったな」と喜んでくれた。

「超嬉しいっ。凛花とまた前みたいに喋れた!なんか泣きそうっ」

 友人との相談ごとを恋人にできるなんて幸せだな、などと思いながらペラペラと陸に話していると、背後から聞き覚えのある声がした。

「乃亜ちゃん?」

 振り向かずとも誰だかわかる。この人とは一緒に住んでいた。

「奈緒さん……」

 家を飛び出た時よりも、ずっと大きな鞄を抱え、腰まであるキャリーケースは傍に。

「何、なんでここにいるの……」

 私の動揺した声に何かを察知したのか、陸は電話を切ってくれた。

 自ら家を出た彼女。一ヶ月も帰らぬ彼女。私を捨てた父の恋人。今目の前にいる人間は、私にはもう関係のない人だ。

「乃亜ちゃんごめんなさいっ」

 彼女に背を向け歩き出したのに、そのひとことで止まってしまう自分がいた。嫌悪感でいっぱいにはなれない。それは事実なんだ。
 恐る恐る振り向くと、涙目の奈緒さんが視界に入る。

「突然出て行ってごめんなさい……実家で少し、頭冷やしてた。それでまた、一緒に住みたいって思ったから、戻ってきた」

 なんだその理由はと怒りが湧く。逃げ場にすぐ逃げ帰るのならば、また同じことを繰り返すだけではないかと。
 ずるいと思えば、咎めていた。

「何言ってんの?またお父さんと喧嘩したら、出て行くんでしょ?どうせまた、捨てるんでしょう?うちを奈緒さんの気紛れな居候場所にしないで欲しいっ」
「もう出て行かない」
「そんなの信じられないよ」
「もう絶対に、出て行かない!」

 大きな声を出されて怖気づく。だけどそれはどうしてだか、悲しみへと変わっていった。

「私、やっと人の愛を信じることができたの……それをまた、奈緒さんにかき乱されたくないっ」

 彼女には望まない。愛も、情も、何もかも。だからお願い。

「もう何も、期待させないで……」

 今にも泣いてしまいそうだった。ずっと気に掛かっていた奈緒さんとせっかく会えたのに、こんな言い方しかできない自分を情けなく思った。だけど今ここで突き放さなければ、私はもっと辛くなる。それが怖かった。


 鞄をドンッと地面に置き、彼女はそこから一枚の紙を取り出した。そしてそれを、伸ばした腕で広げて見せる。

「私、あの人にプロポーズする。乃亜ちゃんとお父さんと、本当の家族になりたいっ」

 紙には「婚姻届」と書いてあった。妻の欄には彼女の名前。

「いくら待ってても結婚しようって全っ然言ってはくれないし、初めて大きな喧嘩をすれば出てけって言われる。ほんと、呆れるくらい乃亜ちゃんのお父さんは子供よね」

 夢か現実か咄嗟に判別できず、私はその紙を受け取って、何度も見直した。

「でも、だからこそ放っておけない。乃亜ちゃんのことも大事なくせして、不器用すぎなんだよっ。私、側にいたいの。お父さんと乃亜ちゃんの側に」

 百回ほど「婚姻届」と反復して、ようやく脳が理解した。これは紛れもなく婚姻届だ。

 顔を上げて彼女を見る。必死に気持ちを伝える彼女が滲んで瞳に映り込む。

「乃亜ちゃんのお母さんになれないのは知ってる。でも、親戚の叔母さんくらいの関係にはなりたいっ。ううん、友達みたいな関係でもいいっ。なんでもいいから、私はふたりとずっと繋がっていたいっ」

 次に彼女と会ったとしても、もう話すことなどないだろうと思っていた。どれだけ謝られたとしても、絶対に許さないのだと決めていた。

「ずっと家に帰らなくてごめんね。乃亜ちゃんに寂しい思いさせて、ごめんなさい」

 だけど彼女は選んでくれた。私と父と過ごす未来を、彼女自身が選択した。

 よかったね、乃亜。

 その時、母の声が聞こえたんだ。


「べつに、私はどっちでもいいけど」

 私は素直じゃない。この不器用なところは、父譲りなのだろうか。

「じゃあ一緒に住んでもいいの!?」
「ど、どっちでも」
「やったあっ!」

 彼女を許したのか許していないかはわからない。だけど一緒にいたいと思える人。複雑な顔をしているかと思いきや、おそらく今の私は彼女と同じ笑顔だろう。


 荷物をシェアし、ふたりで歩く帰り道。

「でもさ、万が一奈緒さんのプロポーズが失敗したらどうするの?」
「あ。それは予定になかった。どうしよう」
「また出てくの?」

 うーんと顎に手をあて考え、彼女は閃く。

「そしたらもう、乃亜ちゃんに結婚申し込もうかなっ」

 心に染み入る今日という日は、陸に報告することがまた増えた。星占いは大当たりだ。

✴︎

 夏休み最終日。陸は私を水族館へと連れ出した。

「地元以外でするデート、初めてだね」
「俺んちばっかじゃ飽きるだろ」
「うん」
「おい」

 あははと笑って、手を繋ぐ。


「けっこういっぱい、魚いるんだなあ」

 青白く包まれた館内の、一番大きな水槽の前。立ち止まった陸が言う。

「ちっさい時来たよな、ここの水族館。乃亜んちと俺んちで」
「そうだね。懐かしいね」
「暗いからはぐれないようにって、手ぇ繋がされてさ」
「そうだったっけ?」
「え、覚えてないの?ショック」
「そんな昔のこと、覚えてないよー」
「たぶんあれが、乃亜と初めて手を繋いだ日なんだよなあ」

 結ばれた手をぶらんぶらんと揺らせながら、「こんな風にしてたじゃん」と、彼は私の記憶を探ってくる。

「お、覚えてない」
「んだよ、もう」

 陸は一体、いつから私を好いてくれていたのだろう。

「そういえば双葉がね、今度陸に会いたいって」
「双葉?」
「私の高校の友達だよ。可愛いなら男避けになるねって陸が言ってた子」
「あー。あの子」
「双葉と陸は同志だから、絶対気が合うと思うんだっ」

 つい先日、泣きながら私に電話を寄越した双葉。てっきりまたあの彼にフラれたのだと思い、慰めにまわろうとすれば、なんと吉報だった。

「同志って何。似たもの同士とかの同士?」
「さあ」
「ああ、顔がいい者同士か」
「鏡見てから言って」

 大好きな双葉に早く、大好きな陸を紹介したい。


 土産屋傍に数台あったクレーンゲームには、鮫から深海魚まで、色とりどりのぬいぐるみが入っていた。

「どの乃亜にしようかなあ」

 そう私を揶揄やゆしながらも、陸は真剣。しかしコイン投入口に記載されている金額が目に入り、たまらず彼に待ったを入れる。

「ねえ、やめよ?一回五百円もするもん、観光地価格だよ」
「たっけえな。でも、一回だけっ」

 陸がそうやって挑むから、欲しくもなかったぬいぐるみが、急に宝物のように見えてくるんだ。絶対欲しいって、思ってしまう。


「俺、ピザ屋やめてゲーセンでバイトするわ……」

 今日も戦利品はなし。陸は空に向かって嘆いていた。

「そしたら休憩中に、少しは練習できねえかなあ」

 水族館を出れば広がる海岸。伸びた影と共に散歩をする。
 朝早くに待ち合わせても、陸といれば時は急ぐ。水平線と重なりいく夕陽を見れば、切なくなった。

「明日から学校始まったら私達、あんまり会えないね」
「会えるだろ。バイト休む日合わせようぜ」

 私はすぐ未来を不安視するけど、陸はそんな私に靡かない。

「俺が、会いに行くし」

 だから私も、強く気持ちを持てる。

「あ、そうだ」

 ふと歩みを止めた陸は、ポケットから小さな箱を取り出した。

「何、その箱」
「鍵貸して」
「鍵?」
「渡しただろ?校庭で」

 その言葉で、ああとすぐに思い出す、ふたりの恋をしまった箱を。

「ええっと、はいはい」

 鍵を取り出す仕草をし、形なきそれを陸に預ければ、彼も受け取る仕草に差し込む仕草。

「いいか、開けるよ」

 ゆっくりと鍵が回された。それと同時に鼓動は速まる。

「じゃじゃん!」

 蓋が開いたその瞬間、小さなイルカが目に入る。

「ピ、ピンバッジ……?」
「さっき乃亜がトイレ行ってる時に買った」
「え、でも、その箱はどうしたの?」
「これは家にあったやつ。恋箱こいばこのギャグでもしようと思って、ポケットに忍ばせておいた」
「恋箱って……」

 ふたりの恋をしまった箱は、二度と開けられないと思っていた。鍵を大事にとっておいても意味などないと。だから今、私が陸の隣にいて、ふたりで一緒に恋の箱を開けられたのは奇跡なんだ。


「ええ!これで泣くのかよ!」

 陸が驚くのも無理はない。自分でもどうして涙が出たのかわからず戸惑った。

「なんでなんで、なんで泣いてんのっ」

 俯く私の顔を覗いて陸は言う。

「べつにこれ高い指輪じゃないぞ、ただのバッジだぞ。たったの四五十円っ」
「そういうことじゃないのぉ……」
「じゃあなんだよ。相変わらず、乃亜はよく泣くなあ」

 よしよしと頭を撫でられて、嬉しくなる。

「私、しつこいからね……?」

 足元の砂浜にできた水玉模様は、靴で掬った砂で隠すけど、何度やっても何度もできた。

「陸から、絶対絶対離れないよ?ずっとずっと側にいちゃうんだからっ」

 一生陸の側にいたい。永遠にだって愛していたい。

「乃亜」

 優しく呼ばれた名前と共に、額に温かなキスが降る。泣き顔のままに頭を上げれば、愛しい人はこう言った。

「俺の方が相当しつこいって、知ってるくせに」
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