君と私の恋の箱

華子

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君が好き

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 私は陸が好き、昔からずっと。保育園の頃から一緒で、家が近くて。

 シングルマザーの陸の家と、子育てに協力的ではない遊び人の父を持つ私の家とで、母同士は協力し合いながら、日々子育てに奮闘していた。ひとりっ子の私にとって陸と楓と過ごす時間は、保育園での遊び時間が延長された気がして、とても楽しかった。
 一緒の家に住んでいたらばいばいなんてしなくていいのに、そう思っていた時期もあった。

 小学二年生のバレンタインデー。陸はクラスの女の子から、人生初めてのチョコをもらっていた。楓に「ひとくちちょうだい」と言われても無視で、私達の目の前、全て平らげた。
 楓は単純に、ケチだと怒っている様子だったが、私の中には違う感情が生まれていた。陸を好きだと感じ始めたのは、この頃からだと思う。

 毎日陸を目で追って、他の女の子といれば悲しくなって。小学五年生で恋だと認めた。

 中学一年生の時、陸に好きだと告白をされた。嬉しいくせに、照れ臭さの方がまさってしまい、思わず「嘘でしょ?」と言った。すると陸も「罰ゲームで告っただけ」と言った。ショックだった。

 それから何度か遊びか本気かわからない告白を陸から受けたけれど、付き合う気にはなれなかった。いや、イエスと言うのが怖かった。
 中学生ともなれば、恋愛に夢中になる友達も多く、次々結ばれていく。でもそんなものはすぐに壊れ、お互い外方そっぽを向くようになる。それを学んでしまった。
 思えばうちの親も、陸の親も、恋愛に失敗した人間のひとりだ。本当に大事な人ならば友達でいるべきだと、そう感じた。

 何人かに告白をされて、何人かと付き合った。本気の愛ではなくとも、皆に隠れてするキスはそれなりにドキドキしたし、抱きしめられる感覚も嫌いじゃない。でもやっぱり、すぐに終わった。
 校内だけでもこれだけ多くの出会いがあるのに、相手が他の子に目移りしないわけはないし、私も義務化されたメールを疎ましく感じたりもした。

 人生において恋愛はただの暇潰しであり、飽きたら皆、よそへいく。

 しかし最近の私は、少し困惑しているんだ。
 私の心が自分にないと知っていても受け入れてくれる勇太君や、何度邪険に扱われようが、私を想っていてくれる陸といると、永遠という二文字が頭にチラついてしまう。そして、心のどこかで可能性を信じてしまう自分を嫌に思う。確実なんてそんな言葉、とうに辞書から消したのに。


「乃亜?」

 勇太君が、私の顔を覗き込む。

「えっと……あ、ごめん。聞いてなかった」
「ううん。この問題、難しいもんね。もっとわかりやすく言うね」

 彼の部屋での受験勉強。彼は己の手を止めて、私に構ってくれる。

 あれからの勇太君はキスもしてこなければ、その先も求めてこない。本当にただ、隣にいてくれるだけ。手は時々繋ぐけれど、それは外を歩いている時だけで、部屋へ一歩入れば触れもしない。陸とのことも聞いてこない。私を責めない、咎めない。優しさだけを与えてくれる。そしてそれは、心地の良いことだった。
 これも愛のかたちだというのなら、ありなのだろうか。

✴︎

「このマドレーヌ大好き!美味しいよね!」

 とある週末。私が玄関先で差し出した手土産を、楓は豪快に喜んでくれた。その声に、陸の母もエプロン姿で顔を出す。

「あらまあ乃亜ちゃん。お菓子なんて持ってきて、どうしたの?」
「ずっと、お礼が言いたくて」
「お礼?」
「はい。私が妊娠した時にすごく支えてくれて、本当にありがとうございました」
「そんなこと、気にしなくていいのに」

 彼女は楓と目を合わせる。

「お礼なんて言われること、私達何かしたかしら?」
「してないしてなーい。乃亜ちゃんよそよそしいよぉ」

「でも」と言葉を続けようとした私の頭に、彼女はぽんと手を置くと、こう言った。

「こんな立派に挨拶できるようになっちゃって。お母さんに、報告しなくちゃね」


「あれ、陸は?」

 居間で三人、世間話をする中、陸の姿はいつまで経っても現れない。楓は言う。

「お兄ちゃん昨日遅くまでゲームしてたから、まだ寝てるんじゃない?」
「え!もう十一時半だよ?」

 湯気の立つ台所で、包丁を動かしていた陸の母は、苦笑い。

「乃亜ちゃん、陸を起こしてきてやって。みんなで一緒にお昼ご飯食べましょう」


 これから起こすのだから、物音など気にしなくていいはずのに、何故かだかそおっと扉を開けた。

「陸ぅ?」

 部屋に踏み入った途端、陸の匂い。昔よりも、男臭い。

 今にもベッドから落ちそうな寝相なのに、すやすやと気持ちよく寝息を立てる陸の顔に、ふと笑みが抜けていく。床に腰を下ろして、彼の枕元で頬杖をついた。
 髭が薄ら生えている。まつ毛は羨むほどに長い。髪は猫っ毛。

「んー……」

 ぼんやり観察していると、陸の瞼が半分開いた。細い目が段々と丸くなって、視線がかちりと嵌まったところで、私は彼の耳を引っ張った。

「こら陸っ。いい加減起きろっ」

 陸はまだ、寝ぼけ顔。

「なんでお前いんの……」
「もうお昼だよ、ご飯できるよっ」
「えー、もうそんな時間……」

 まだ眠るのだと言わんばかりに、陸は私に背を向けた。

「こら、陸ってばっ」

 そんな陸を強引にベッドから出そうとした手は、寝起きとは思えぬ強い力で握られた。そのまま彼は言う。

「俺を信じて、乃亜」

 頬しか見えないその横顔に、胸が締め付けられた。


「さっ。勉強しよ、べんきょー」

 昼ご飯を食べ終えて、楓が友人と出かけた頃。鞄に潜めていた単語帳を取り出した私に、陸は嫌な顔をした。

「うげ。土曜の昼から勉強すんの?」
「そうだよ。そろそろ本気出さないと、塾も行ってない私達はまじで高校落ちるよ?」

 渋々机に向かい、参考書を広げる陸。

「勉強なんか、優等生の恋人とやれよ」

 意地が悪いその発言には、聞こえないふりをした。話題を少しだけ逸らす。

「陸はどこの高校狙ってるの?」
「俺?俺は今のとこ、妙海高校」
「え。それって凛花と一緒じゃん」
「そうなん?」
「えー、いいなあ!凛花と一緒ずるーい!」
「知らねえよそんなの。それなら乃亜も妙海にすりゃあいいじゃん」
「無理。頭いいじゃんあそこ」
「そうか?俺はギリギリ行けると踏んでいる」

 いいなと妬むと同時に、不安を抱く。

「私と陸はさ、高校行ったらあまり会えなくなるのかな」

 保育園から中学まで、ずっと同じ場所に通っていた私達が、初めて離れることへの不安。
 一気に気持ちが沈んだ私に対し、陸は伸びをし、けろりと言った。

「俺が何かしら理由つけて乃亜に会いに行くから、会えるっしょ」
「え……」
「会いたい時は、俺が会いに行く」

 顔がぼっと熱くなる。電気ケトルで沸かされた湯のように、一瞬にして温度が上がった。
 そんな私を前に、陸も恥ずかしくなったのか、彼の耳は赤くなる。

「そ、そんなことより、勉強するんじゃなかったのかよっ。ほら、やるぞっ!」

 そういうところが、愛しいと思う。
 陸の赤い耳は、私のお気に入り。

✴︎

 時の流れは止められない。期末試験の答案用紙が返されたかと思えば、明日からは冬休みへ突入する。一月に入ればもう、受験本番。

「ああ、めんどくさっ。校内の大掃除に受験生駆り出すなしっ」

 ホウキに顎を乗せ、凛花は言った。廊下の隅から隅まで、私達の班はひたすらホコリを集める。

「乃亜、今日は何するの?」
「何って?」
「クリスマスイブじゃん。菊池勇太と過ごすの?プレゼント渡しあったりさ」

 クリスマスプレゼント。それは、考えもしていなかった。

「勇太君は今日も塾だし、クリスマスを祝う約束なんかしてないよ」
「そっか。まあ、受験生なんてそんなものだよねー。私も妙海合格する為に、頑張らなきゃなあ」

 妙海、陸の志望校。もしふたり共に合格すれば、凛花はこれからの三年間、毎日学校で彼を見られる。もやっとかかる、嫉妬の霧。

「凛花。陸も妙海志望だって知ってた?」
「え!そうなの?どっちかひとりだけ落ちたら、気まずっ」
「あははっ。それはどちらかと言えば陸の方でしょ。凛花は受かるよっ。そしたらバスケの試合、応援行くね」
「乃亜ぁ……」

 ホウキを勢いよく放り投げた彼女は、私に飛びかかった。

「ありがとう!乃亜も絶対絶対、受かってね!高校別々でも、定期的に会おうね!」
「もちろんだよ」

 乗り気じゃなかった大掃除の時間でさえ、貴重に感じてしまう瞬間だった。


 帰宅して、勇太君からのメールに気付く。

『明日の夕方、会えないかな』

 クリスマスという聖なる日を、一応気にしてくれているのだろうか。

 彼に返事を送りつつ、冷蔵庫に飲み物を取りに行く。ガランとした冷蔵庫内。母が生きていた頃のこの時期は、チキンなど様々な食材で溢れていたのに。
 パタンと冷蔵庫を閉める音が響く。私と父だけになったこの家に、何の行事もありはしない。


「ただいま」

 夜の七時。父が帰宅した。

「お。乃亜、いたのか」

 ネクタイを緩める父。今日はもう、家で過ごすということだろうか。

「お父さん、夕飯は家で食べるの?」
「そうしようかなあ」
「珍しいね。クリスマスイブに家にいるなんて」
「ああ、今日はイブか。じゃあチキンでも食べるか?そこのスーパーで買ってくるよ」
「え」

 父の気紛れに驚いていると、彼は財布だけを持って、家を出た。


「乃亜とふたりだけだから、そんなに大きいのはいらないだろう」

 父が購入してきたのは、サラダの上に乗ったスライスチキンと少しの惣菜。彼はビール、私は麦茶で乾杯をした。

「どうだ?受験勉強は」

 テレビのチャンネルを変えながら、父は聞く。

「まあまあかな」
「そうか」

 画面の中、大いに騒ぐ芸能人。

「このチキン、美味しいね」
「ああ、そうだな」

 クリスマスの特番だからか、サンタのコスチュームに身を包んだモデルもいた。

「今日はどのチャンネルも、祭りだな」
「イブだからね」
「ビール、ビールっと……」

 唯一ニュースを放送していたテレビ局で画面を落ち着かせた父は、二杯目のビールを台所へと注ぎに行く。注ぎ終われば、また席に着く。

 食器の音。咀嚼音。事件現場の記者の声。父とふたりきりの食事は、いつからこんなに、つまらなくなってしまったのだろう。

「ごちそうさま……」

 九時頃になって、父は「奈緒を迎えに行く」と、結局彼女のスナックへと出かけて行った。私はブラックコーヒーを片手に机に向かい、受験勉強。カリカリとペンを走らせる音を聞けば、理解云々に関わらず、勉強した気分にはなる。
 ふと力を入れすぎたせいで折れた芯。私の心に似ていた。

「なんなの、もう……」

 家族とクリスマスを過ごせても、美味しいチキンを頬張れたとしても、そこに喜怒哀楽など存在せず、代わりに味わうのは、虚無感だけ。暴力を振るわれるわけではないし、外に放り出されるわけでもないけれど。

「とうに家庭崩壊ってやつ」

 改めて気付かされた現実に、涙も出ない。

✴︎

 翌日。勇太君の抱える授業が終わる時間に合わせ、私は彼の塾まで行った。

「ごめんね、塾の前なんかで待ち合わせで」
「ううん。勇太君、塾お疲れ様」
「それと、本当に悪いんだけど、あと一時間後にまた授業入っちゃって、戻らなきゃいけないんだ」

 ごめんと顔の前で手を合わせる彼。私よりも彼の方が落ち込んでいるように見えた。

「じゃあ、そのへんでも散歩する?」
「寒いしどこか喫茶店でも入ろうよ。俺が出すから」
「気を遣わなくていいよ。一時間しかないし、サクッと歩ける外にしよう」

 怒りは微塵も湧かなかったのに、どこか素っ気ない態度にはなったかもしれない。

 塾のある大通りから、一本外れた路地を歩く。私は勇太君の前を進んだ。

「路地に入るだけでも全然人通り違うね。クリスマスでも、塾にはたくさんの生徒がいるの?」

 ポケットに手を入れたまま横顔で聞くと、彼は少し俯いた。

「乃亜、こんな薄暗い路地なんかじゃなくてさ、公園でも行かない?」

 上目でそう言われ、私は首を振る。

「どこでもいいけど、ここでいいよ」

 冷たい言い方だなと、自分で思った。

 早足で私へと追いついた彼は、私のポケットを見て何か言いたげだったが、口を噤んだ。代わりに私が喋る。

「今日、無理して会わなくてよかったのに」

 彼はきょとんと私を見た。

「無理?」
「本当は忙しいけど、クリスマスなのに私と会わないのも悪いなって思って、無理して会ってくれたんじゃないの?」
「そんなことないよ。俺はただ、乃亜と過ごしたかっただけ」
「こんな僅かな隙間時間使って会ったって、過ごしたって言えないよ。予習や復習だってしたいだろうし、もう塾に戻れば?」

 昨夜の父のことを引きずっているのか、義務で私との時間を過ごされた感覚に陥った。彼の哀しそうな顔を見て、また自分が嫌になる。

 彼はぽつりと呟いた。

「これ、プレゼント」

 同時に小さな紙包が現れた。テープを外し、自身の手の平に中身を出す彼。鈴がついた桃色の御守りが目に入る。ポケットから出した手で、私はそれを受け取った。

「合格、祈願……」
「乃亜に無理言って俺の恋人やってもらってるから、クリスマスプレゼントなんか何あげても重い気がして悩んでたんだけど、御守りなら受験終わったら身に付ける必要もないし、負担にならないかなって」

 白い息を吐いた彼は、自身を笑った。

「いつフラれてもおかしくない、頼りない彼氏だけどさ、乃亜と恋人でいられるうちは、贈り物だってしたい。今日は少ししか会えないのに、わざわざ寒いとこ足を運ばせちゃってごめんね」

 こんなにも哀愁漂う彼なのに、この場が暗くならないよう努めてくれている。
 陸と一緒に彼を裏切った時も、別れを告げた時も、そして今も。この人は何故私を責めないのだろう。ただただ、愛をくれる。

 彼のコートの袖を掴んで、今度は私が俯いた。

「勇太君。私、勇太君にプレゼント用意してないよ……」
「そんなのいいよっ。俺が勝手にあげたかっただけ」
「ごめんね、勇太君……」
「気にしないでよ」

 何か彼にしてあげたい。その思いが行動に出たのかもしれない。

 思い切り抱きついた勇太君のコートは冷たくて、細やかな温もりも感じられなかった。戸惑う彼が私の首元に回した腕も、とても冷たかった。
 チリンと手元で小さく鳴るは、御守りの鈴。喧騒離れた寂しい路地で、チリンと何度か鳴っていた。

✴︎

『あけましておめでとう!乃亜ちゃんも一緒に、初詣行かない?』

 アイドルのカウントダウンコンサートの映像を眺めながら微睡んでいた私に届いたのは、楓のメール。風呂上がりの湿った髪へ乱暴にドライヤーをあてて、スウェットの上にブルゾンを羽織った。玄関の扉が閉まるその隙間から、奈緒さんの声が聞こえてくる。

「こんな時間にどこ行くの?」


 マンションの下には、鼻の赤い陸がいた。

「陸。なんでいるの?」
「なんでって。楓が乃亜も初詣行くって言うからさ、迎えに来たんだよっ」
「こんなに近所だし、ひとりで行けるのに」
「ばか、夜中だろ危ねえよ。お前来るの遅すぎて、まじで凍え死ぬかと思った」

 鼻が赤い理由は寒いからだろうけど、耳が赤いのは、そのせいではないかもしれない。何故なら私も陸を一目見たその瞬間、照れてしまったから。

「新年早々、私の格好真似すんなし」
「うっせ。乃亜が俺の真似したんだろっ。もうちょっとお洒落しろよ」
「あー、出たっ。男はいいけど女はこうあれ的な、最低発言っ」
「ち、ちげえよっ」

 同じ色のスウェットに、これまた同じ色したブルゾン。なんだか体が痒くなる。


「混んでるわねえ。みんな、はぐれないようにね」

 拝殿の前には長蛇の列。楓は陸の母と手を繋ぎ、私は陸の袖を持った。

「あの歳で親と手繋ぐか、普通」

 前列の楓に聞こえぬよう、陸は呟く。

「仲良い親子の証拠だよ」

 陸の家族は、私の理想だ。
 くるっと振り向いた楓が聞く。

「乃亜ちゃんは何お願いするの?やっぱり受験合格?」
「そうだね。それは絶対祈っておかないと。楓は何にするの?」
「んー、健康とか?」
「えーっ、おばさんくさいなあ」

 白い息と共に、楓は笑った。そんな彼女に、陸の母が言う。

「楓、健康も大事だけど、お兄ちゃんの合格も願ってあげなさい。落ちたら楓と同じクラスになっちゃうかもしれないわよっ」
「もうそれ、お兄ちゃんじゃないじゃん」

 そのやり取りに、陸は「おい」と声を挟む。

「中学生に留年制度なんてないだろうがっ。それにどっちにしたって、兄は兄だ」
「兄らしいとこ見たことないけどね」
「はあ?楓はもっと可愛いらしくしろっ」

 その発言には、「女はこうあれ的なやつやめろ」と私が陸の頭にチョップを入れた。
 列の最後尾についてから参拝できるまで、おそらくけっこうな時間を要したのだろうけど、そんなことは微塵も感じさせないくらい、楽しい時間だった。


「乃亜。何か燃やすのある?」

 神に願いごとを告げ終わり、楓達と別行動中、お焚き上げの前で陸が聞いた。

「ううん。何もない」
「うい」

 ぱらぱらと幾つかの御守りを炎に落とす陸。それ等がパチパチと、燃えていく。

 パチパチ、パチ、パチパチ。

 リラックスできる音だった。私は炎の傍にしゃがみ込む。

「陸って御守りとか持つタイプなんだね。意外」
「ああ、毎年家族で神社来るしな。なんとなく買っちゃう」
「ふうん。どんな御守り買うの?」
「色々。交通安全とか、病気平穏とか」
「へえー、想像つかない」
「一応、信仰心あるんだなあっ」

 そこで会話が終わり、炎に目を移す。パチパチとランダムに奏でられる音と、不規則なその動きに心奪われて、思わず無になる。何も考えない時間が、ずいぶんと久しく感じられた。

「乃亜、寝てる?」

 瞳を閉じた私に、陸が聞く。

「おーい、乃亜」

 少しだけ、目を開けた。

「んーん、起きてる。気持ちいいだけ」

 私のその言葉で陸も腰を下ろすと、炎に手を翳していた。

「あったけー」

 このままここに、ずっといたい。


「あっちで甘酒くれたよー」

 紙コップとりんご飴を携えやって来た楓達に、痺れてきた足を立たせる。

「いいな、楓の飴。どうする陸、私達も出店の方に行ってみる?」
「せっかくだし、行くか」

 陸も伸びをしながら腰を上げると、財布の中身を確認した。腕時計に目を落とす陸の母。

「じゃあ、私と楓は先に家へ帰るわね。乃亜ちゃん、帰りは陸に送ってもらって」
「はーい。また今度お家行きますね。今年もよろしくお願いしまーすっ」

 手を振るふたりの姿は、人混みですぐに見えなくなった。

「よし、それじゃあ酒でも飲み行くか」
「甘酒でしょー?」
「それでも酒だっ」

 陸は私の手をとると、人混みを掻き分け進んで行く。私もその手をぎゅっと握った。


「え!何杯飲んでもいいんですか!」

 甘酒を無料配布しているテントの下で、私は今年一番の大声を出す。

「そんなに飲んだら、気持ち悪くなるぞ」
「だって私達未成年が堂々とお酒飲めるなんて、こんな時だけじゃんっ」
「やめとけってっ」
「大丈夫大丈夫!」

 正月の浮かれ気分もあってか、私は然程好んでもいないこの味を、何杯も胃に沈めていった。

「陸はもういいの?もっと飲もうよ」
「じゃあ、あと一杯だけなっ」
「たった一杯でいいの?もう少し飲めばいいのに、きゃはははっ」
「お前酔いすぎっ」

 もう甘酒など一生見たくもない。そう思ったのは、帰り道だった。


「うげ」
「だから言ったろ……」

 突然の嘔気に襲われて、蹲り動けずにいた私に陸は言う。

「コンビニのトイレ、借りるか?」
「やだ……吐くの疲れる……」
「んなこと言ったってどうすんだよ。じゃあ、ここで吐くか?」
「だからっ、吐きたくないんだってばっ!」
「新年からめんどい女だなーっ」

 呆れた溜め息をつかれた気がした。「ほら」と陸に言われた気がした。体が宙に浮いた気がした。目の前がグルグルしてぼやけていたけれど、私のブルゾンと同じ色に掴まった。

 カチャッと鍵が開く音と同時に慣れ親しんだ匂いがして、ここが陸の家だとわかった。

「ここ、あれら、りっくんの家ぇ?」

 呂律の回らぬ私の口を手で覆い、陸は囁く。

「しーっ。もう母さん達寝てるから」

 気持ち悪さを通り越し、今度は睡魔に包まれていた。
 ゆっくりと、ベッドにつく体。

「かえるらぁー」
「帰れねーだろこんなんじゃ。ほら、手ぇ伸ばして」

 苦労しながらブルゾンを脱がす陸をぼけっと眺めていれば、意識は遠ぬく。身軽になった途端ごろんと寝そべり、眠りに入る準備をした。

「おやしゅみーっ」

 そう言って夢へと落ちかけたその瞬間、いつもよりとろんとした陸の声が降ってきた。

「のーあっ」

 薄ら目を開けると、すぐそこには陸の顔。彼も私と同じくらい、酒の匂いを纏っている。「何?」と問う間もなく重なる唇。この甘酒味はどちらのものか。
 陸の全ての体重がベッドへ乗っかって、基盤がミシッと音を立てた。

 離れきらない唇で、陸が聞く。

「いい?」

 何に対して許可を求められているのかは、ダウンしきった脳でも判別できる。頷けぬままに陸を見つめていると、再びキスを落とされた。そして吐息だけで、彼は言う。

「愛してる」

 陸の手が腹部に伸びた。温度の違い過ぎる指先に全身ビクンと反応すると、彼は「ごめん」と笑っていた。しかしその指先も、ことが進めば次第に熱を帯びていく。

 ひとつになって、しばらく経って、陸が悲しそうな顔をした。

「陸?」
「離れたくない」
「え?」
「まだこのまま、乃亜と繋がっていたい……」

 動きを止めた彼は私に覆いかぶさると、耳元で何度も私の名前を口にした。それが仔猫の声より切なく感じて、気持ちが丸ごと溢れて出ていく。

「私も、陸とずっとこうしていたい」

 次に目が覚めた時、後悔すると知っている。勇太君を思えば苦しくなり、罪悪感に苛まれる。それでも私は求めてしまう。決して手に入れたくない陸を、愛してしまう。
 恋愛感情に終わりは付き物なのに、未だに抜けぬ彼への想い。


 東の空が白む頃、ふたりでそろりと家を出る。

「初日の出まだ?」
「まだだよ。それに、こっちじゃねえよ」
「そっか。川の方からはいつも、夕陽が見えるもんね」

 元旦からふたりきり。波音優しく、小鳥が飛び交う。

「あ。そうだ」

 ゴソゴソとポケットを漁った陸は、ひとつの御守りを取り出した。

「これ、乃亜の分ね。合格祈願」

 袋にも包まれていない、赤い御守り。それをぽんと私の手に置いてくる。

「いつ……買ったの?」
「乃亜が酔っ払ってる時。あ、ちなみにおソロね。俺は黒にしたわ」
「おソロって言うかな、これ。あの神社で買った人みんなお揃いなんじゃ──」
「おソロって思えばおソロだっ」

 桃色の御守りが一瞬頭を過ぎり、素直には喜べなかったけれど。

「ありがとう、陸」

 胸はきゅんと囀った。


 まだ誰も起床していない家へ帰宅すると、食卓にはメモが置いてあった。

『乃亜ちゃんへ。お蕎麦の具が冷蔵庫にあるから、もしよかったら食べてね』

 山菜の乗った皿は冷蔵庫の中央に、ガステーブルの鍋にはちょうど一人前残された蕎麦。奈緒さんはもしかすると、この家で初めて迎える年越しを楽しみにしていたのかもしれない。

 尻軽、浮気性。飽きっぽい。そんなイメージしか抱けぬ父が連れてくる女性は皆大体、私のことなど金魚のふんと捉えており、愛のひとかけらだってくれはしない。でも、奈緒さんは違う。私を一個人として、ひとりの人間として認識してくれている。

 少し休んで起きたら食べようだなんて思っていたら、私はたっぷり夢を見た。

 数時間後。ピコンと私の目覚ましになったのは、勇太君からのメールだった。

『乃亜、あけましておめでとう。今年もよろしくね』

 文面を見るだけで、即座に罪悪感で包まれた。


「おめでとう、乃亜ちゃん」

 居間に顔を出すと、エプロン姿の奈緒さんが父に雑煮をよそっていた。

「初詣に行ってたの?今朝早くに帰ってきたのかしら。ずいぶん寝たねえ」

 どこで、誰と、連絡くらい寄越しなさい。そんなことを言われないのは、奈緒さんにその権限がないからだ。

「お腹減ってる?」

 彼女のその言葉に、私は台所に目をやった。ほっと胸を撫で下ろしたのは、今朝見た鍋がまだそこにあったから。

「お、お蕎麦食べたいっ」
「え?」
「昨日のお蕎麦、奈緒さんが作ってくれたお蕎麦が食べたいっ」

 その瞬間、桜の開花と見紛うほどに、ぱっと明るくなる彼女の表情。

「うんっ!温め直すから、ちょっと待っててねっ」

 鍋に火をかけている最中も、ずっと笑顔の彼女は可愛かった。
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