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居場所
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「この問題は、Aの気持ちがわかる一文が文章の中に隠れているんだよ。それをまず、見つけ出そう」
とある放課後。「勉強しよう」と勇太君に誘われて、彼の自宅へと招かれた。
リアルな人間の気持ちにも疎い私が、物語に登場する人物の気持ちなどわかるわけがない、などと思いつつも、私は大人しくその一文を探すことに勤しんだ。
彼の部屋は、整頓が行き届いたシンプルな部屋だった。本棚に並ぶ参考書には、付箋が幾つも貼ってある。
固定だと言われた私のシフトは、塾の都合で変動制になった。彼のオフ日がデートの日。曜日は特に決まっていない。
「乃亜、わかった?」
隠された一文をなかなか見つけられずにいると、彼に顔を覗かれた。
「わ、わかんない」
「じゃあ一緒に探そっ。隣きて」
自身の横にクッションを置く彼。私がそれにしずしず座ると、すぐに間は埋められた。
「よし、途中から読んでいくよ」
こんな私にも丁寧に勉強を教えてくれる勇太君は、優しい人だ。
「おしまーい!今日はもう無理っ!」
クッションを枕代わりに、床へごろんと寝そべった。そんな私を見て、彼もペンを置いた。
「俺も、おーしまいっ」
天井を見つめたまま、私は聞いた。
「勇太君って、勉強が好きなの?」
テーブルの上を片しながら、彼は答える。
「好きだよ。勉強はすればするほど身になるから、ある意味自分の思い通りになる。それよりむしろ、努力したって手に入らないことの方が、よっぽど辛いし嫌いかな」
なるほどと、どこか納得してしまう。けれど。
「私は勉強苦手……」
両手で顔を覆えば視界は闇に。脳内ではぐるぐると、未だにAが彷徨っている。
「乃亜」
指の隙間から光が差し込んできたかと思ったら、それは彼が、私の指を一本ずつ剥がしているせいだった。闇から一転、彼が広がる。
「乃亜、好きだよ」
愛の呟きと同時に重なる唇。彼の香りが鼻尖をつく。抵抗せず、そのキスに応えていると、彼はぺろりと舌を見せた。
「なんか甘いね、乃亜の口」
「そう?あ、リップかも。パッケージにぶどうのマークついてたから」
「んー。ぶどうもあるけど……」
「他の味もする?」
目と目を合わせ、静寂が存分に流れていく。にこっと微笑み彼は言う。
「わかった、乃亜が甘いんだ」
再び落とされる、キス。
彼の舌を伝って、私の中にも侵入してくるぶどう味。騒ぎ出した心臓がバレぬよう、私はふたりの胸の間に手を添えた。
✴︎
「凛花って、塾行ってるの?」
昼休み、校庭の隅。鉄棒に跨った私は聞く。凛花はブッと数滴の唾を空に吐いていた。
「乃亜の口から塾とか笑える!なんだかんだで学級委員に影響されてるじゃん!」
「影響、されてるのかなあ」
足を軸にぐるっと半転すれば、逆さになった校舎と思考。
「勇太君が言ってたんだけどね、勉強は思い通りになるらしいよ」
「何そのクレバー発言」
「凛花は塾、行ってる?」
「行ってるよ。バスケ部引退した途端、お母さんが行けって」
「ふうん。みんな、勉強してるんだねえ」
ぶらんぶらんと体を揺らせて、景色も揺らす。凛花も「よっ」と逆さになった。
「乃亜、志望校決めた?」
「決めるも何も、私のレベル的にこの辺じゃ無理。一番近くて桜橋高校かな。凛花は?」
「私は妙海高校かな。あそこバスケ強いし」
「高校行ってもやるんだ」
「うんっ。もちろん!」
未来に希望を持ち進学を決めた彼女の横顔は、キラキラとしていた。
「私も塾くらいは、行こうかなあ」
「あれ。お父さん」
帰宅すると、平日にしては珍しく、早い時間から父がビールを片手に寛いでいた。
普段留守がちな父と話せるこのチャンスを逃してはいけない。
「ねえねえ、私が塾行きたいって言ったら、オッケーしてくれる?」
ほんのり赤らんだ父の顔。その眉間に皺が寄る。
「塾ぅ?どうしてまた?」
「だ、だってみんな行ってるし、中三の二学期だし。そろそろ受験に本気出さなきゃ、どこも受からないよ」
「うーん……」
彼はグビッとグラスのビールを飲み干すと、台所で追加を注ぐ。半笑いで小首を傾げているのが目に入り、奥歯を噛む。
「おっとっと」と泡を啜りながら居間に戻って来た彼は言う。
「まあ、ダメとは言わないけど」
「じゃあいいの?」
「乃亜が塾なんか行って、意味あるか?」
その瞬間、ピキンと血管が浮き出るのがわかった。彼はまだ、馬鹿にしたように笑っている。
「今まで勉強なんか放ったらかしだった乃亜が、今更塾に行ったところで何か変わるか?馬鹿は馬鹿のままだろう。それに、乃亜が高校に行くなんて、父さんは何も聞いてないぞ。わざわざ金かけて無理に進学するくらいだったら、結婚でもすればいい。どうせ女なんだ。将来は夫に食わせてもらうんだろう」
その刹那、理解が追いつかなかった脳は懸命に、父の言葉を咀嚼する。
馬鹿は馬鹿のまま。無理に進学。結婚でもすればいい。
今更、わざわざ、どうせ。
気付けば食卓の新聞紙を掴んでいた。
「な、何をするんだ!」
バサンッと投げたのは父の方面。ビールが彼の服にかかる。
「何その言い方!私だって私なりに、受験のこと考えてるんだけど!」
父は卓を一撃、音を立てる。
「塾なんか行ったって、乃亜はすぐ辞めるだろう!」
「はあ!?」
「じゃあ今まで一体何が続いたんだ、言ってみろ!ピアノだって水泳だって、一年も続いてないじゃないか!母さんも困ってたぞ!」
「そ、それはっ」
「父さん、間違っていないだろう!?」
大きな咳払いをした父は、台所に行くと煙草に火をつけた。換気扇に向かってぐちぐちと吐く、私への不満。
父の意見は全くもってその通りだ。親の金であれをして、これをして、全部投げ出してきた。けれど私は子供だから、今この状況で感謝など口にできない。血走った目で私を怒鳴りつける父に、反抗したくなるんだ。
「自分だって、何も続かないくせに……」
私のその言葉で、父は口から煙草を外す。
「禁煙も女遊びも、ずっとやめてないじゃん!お母さん苦しんでたのに!お父さんの浮気が判明してからずっと泣いてたのに!なのにお父さん、お母さんが癌になってもずっと浮気してたじゃん!お母さんが死ぬまで!」
何も返さず戸惑うだけの父に、私はまた新聞紙を投げつけた。
「お父さんなんか大っ嫌い!」
今度の父は手を翳すだけで、どこを殴ることもしなかった。その代わりに、目も合わせようとしない。
「……何も言わないの?」
情けないよ、お父さん。
「それともねえ、何も言えないの!?」
煙草がぷるぷると震えているのは、娘の豹変に怯えているのではなくて、後悔からくるものだって思いたい。
父をひとり家に残し、私は財布と携帯電話を持って家を飛び出した。
コンビニのイートインコーナーには、何時間滞在していいのだろう。ここへ着いたのが夕方五時前だったから、もう三時間もここにいる。
携帯電話の電池が残り僅かになり、充電器を持ってこなかった自分を悔いた。そして、窓際の席に座ってしまった自分にも後悔しているところだ。
目の前の大きな窓ガラスは、陽が落ちると同時に鏡へ化けた。モノクロの自分とちらちら目が合って、反吐が出そうになる。
『乃亜ちゃんは、お母さんそっくりね』
親戚や保育園の先生に、そうやってよく言われていた。『大きくなったら、お母さんみたいになるのが想像つくわ』って。
母は美人だったし頭も良かったから、私は彼女のようになりたいとずっと思っていた。
「それなのに、何この醜い自分……」
ガラスの中。自分の顔。
「超ブッサイク」
マジックで塗りつぶしてしまおうか。
母に似て生まれたところで、お前は母にはなれないんだよ。勉強を頑張る、塾に行きたい。何を言っているんだ、どうせすぐ投げ出すくせに。高校なんか行かなくたっていいじゃないか。勉強なんか、大嫌いなんでしょう?
そう訴えかけてくるモノクロの自分から逃げたくて、私はテーブルにうつ伏せた。
「ちょっと君。おーい」
夢か現実か。誰かに肩を揺さぶられて顔を上げる。腕には赤い痕。どれだけ寝ていたのだろう。
隣に立つは、五十代くらいの男性警察官。
「こんなところで制服のまま寝てちゃダメだよ。親御さんが心配するだろう?」
店内の時計は九時をさす。一時間も寝てしまっていた。
「も、もう帰りますっ」
携帯電話をポケットにしまい、席を立とうとすると、彼は「ダメダメ」と首を横に振った。
「交番に来なさい。この時間じゃ、親御さんに引き渡さないと帰してあげられないよ」
私は黙って彼の後に続いた。
交番に着いてすぐ。ゆっくりと外した受話器を耳にあて、ボタンを指で押していく。あれだけ喧嘩をしても頼らなければならぬ親という存在。未成年である歯痒さをひしひしと感じていた。
長いこと呼び出して、ようやく出た父の周りは大層賑やかだった。自分の居場所と迎えが必要だという事実を伝えると、彼の返答はこうだった。
「父さんはもう、奈緒の店で呑んでて今すぐ迎えになんて行けないよ。明日の朝なら行ってやるから、今日は警察でもどこでも泊まりなさい」
一方的に終了した会話、鳴り響く不通音。
父の中で家族というものは、ただの紙切れの関係でしかなくて、彼はいつだって彼自身が最優先。そんなことは昔から知っていたはずなのに、どうして期待など寄せてしまったのだろう。迎えにくらい、来るだろうと。
「お父さん、なんだって?」
受話器を握りしめたままの私の前、警察官は指で通話を切った。
「ちょっと遠いとこにいて、今日中には迎えに来られないそうです……」
「他にあてはあるかい?親戚でも、二十歳を過ぎた兄姉でも」
「……いないです」
「そうかあ。うーん、どうするかなあ……」
キィーッと背もたれを倒し考える彼。ぽんっとすぐに、手を叩く。
「友達の親でもいいよ。誰か迎えに来てくれそうな人はいるかな?」
私の頭には、陸の母しか思い浮かばなかった。
「どうもすみません。遅くまでお世話になりました。さ、乃亜ちゃん行こっか」
警察官に頭を下げた陸の母は、私の手を引いた。
商店街の路地にある交番から一歩出れば、静閑が耳を突く。夜十時に近いこの時刻では、ほとんどの店のシャッターが降りていた。
「乃亜ちゃん、夕ご飯食べた?」
交番で保護された理由を問うよりも先に、私の空腹を心配した彼女に少し驚く。
「もし食べてないなら家に来ない?茹ですぎたお蕎麦が余ってるの。陸も楓も、もうお腹いっぱいって言って、あと少しなのに食べてくれないのよ」
いつもの優しい笑顔。
「そういえば、カステラもあったなぁっ」
私の沈んだ気持ちを察してくれて、ご飯を食べていないと気付いてくれて、父を頼らなかった私に何かのトラブルを感じてくれた。
そしてそれ等全てを私の口から言わせまいと、気丈に振る舞ってくれる彼女に涙が出た。
「乃亜ちゃんっ」
陸の自宅。真っ先に出迎えてくれたのは、パジャマ姿の楓だった。
「楓ごめんね。こんな時間に」
「全然!十時なんてうち誰も寝てないしっ」
「ありがとう」
手を洗い、食卓に腰を掛けさせてもらうと、自室から出てきた陸が目に入る。
「ど、ども。お邪魔してます、です」
どこかぎこちない挨拶をすると、彼は言った。
「歴史日本漫ガタリの最新刊読んだ?」
陸もまた、彼の母と同じ。私に一切理由を聞かない。
「よ、読んでない……発売されたの?」
「今日ゲットした。もう読んだから、貸してやろっか?優しいだろ」
にししと得意げな陸の顔。この家族といると、心の氷が溶けていく。
「乃亜ちゃんって、今日泊まるの?」
蕎麦を啜る私に楓が聞いた。
「お蕎麦食べたら帰るよ。明日も学校だし」
「えー、もうこんな時間なんだから泊まっていけばいいのに」
「着替えもないし、悪いよ」
「私のパジャマ貸すから!」
彼女は私を気にかけてくれているのだろうか。それともただ単に、お泊まり会気分で誘っているのか。どちらにせよ、私が嬉しく思ったことに変わりはない。
楓のしつこい懇願に、陸の母は私の宿泊を許可した。ただし、父に一報入れることを条件に。
夕飯時はわあきゃあと女だけで盛り上がり、陸とは大した会話もしなかった。
「陸、おやすみ」
「じゃあなあー」
楓の部屋の前、陸に手を振ると、彼も自室へ戻って行った。
楓に借りた充電器に携帯電話を繋げながら、私は父へとメッセージを作成する。
『今夜は陸の家に泊まります。明日の朝に帰ります』
画面を覗いた楓は言った。
「なんかこれ、お兄ちゃんとお泊まりして、朝帰りするみたいだね」
「え、そうかな?じゃあ、こう?」
『陸と楓とおばさんと寝てから帰ります』
再び画面を覗く彼女。
「なんか変だけど。ま、いいんじゃない?」
あははと笑って、電気を消した。
ひとつの布団の中で触れ合う肌の温もりに、ふと母と添い寝していた頃を思い出す。
「乃亜ちゃん、お兄ちゃんと付き合っちゃえばいいのに」
しんみりしていた気分を抹消したのは、唐突すぎる、楓のひとこと。
「はいっ?」
「だって絶対好きじゃん、お兄ちゃんって乃亜ちゃんのこと」
「わ、私、彼氏いるからっ」
「え!そうなの!?」
「う、うん」
「なんだあ、お兄ちゃん撃沈ー」
妹にすっかり読まれていた陸の恋心。笑いが溢れる。
「ラブラブなの?その彼氏と」
そして一転、ぎくりとさせてくる。しどろもどろに答えてしまう。
「ラ、ラブラブの定義がわからないからなんとも言えないけど……別れるまではそうなんじゃない?」
「え、どういう意味」
「恋愛なんかすぐ終わるじゃん、別れるじゃん。だからそれまでの期間はラブラブって言っていいんじゃない?」
「うーん」とひとつ唸った楓はこう言った。
「確かにうちのママも離婚してるしなあっ。愛が続かなかった証拠だよね」
私が陸と楓と出逢う数年前に、母親に引き取られた彼等。「うん」とは頷けなかった。
時計の針の音だけが、しばらく聞こえた。
「乃亜ちゃん、寝た?」
「うっすら起きてる……」
体勢を変えた楓は、私に背を向ける。
「あのね乃亜ちゃん。私はお兄ちゃんが乃亜ちゃんのことが好きだって気付いた時、すごく嬉しかったの」
「え?」
「もしかしたら乃亜ちゃんが、私のお姉ちゃんになるかもって一瞬でも思ったら、嬉しかった」
「楓……」
「なんてね。おやすみっ」
そう言って寝息を立て始めた彼女の背中に額をつけて、瞼を閉じる。
楓がとても愛おしかった。
✴︎
「おはよう。よく眠れたかしら?」
翌朝。炊事の音で目覚めた私は、台所で忙しそうな陸の母をぼーっと眺めていた。
「まだふたり共起きないから、乃亜ちゃんは座ってゆっくりしてて。はい、コーヒー」
そう言って彼女が食卓に置いてくれたブラックコーヒー。温かい。
「そういえば、お父さんなんだって?急に外泊になって、心配していないかしら」
その言葉で、私はすっかり頭の外だった父を思い出し、携帯電話の画面をつける。
メッセージゼロ。着信ゼロ。落ち込みたくなどないのに、溜め息は漏れる。
「ないです。返答」
「まあ、ダメなお父さんねえ。娘が帰ってこないっていうのに」
カチャカチャと皿を洗う手を止めた彼女は、その手をエプロンの裾で拭って、話し出す。
「乃亜ちゃん、うちにはいつでも来ていいんだからね。陸も楓も、乃亜ちゃんの家族みたいなものなんだから」
食卓傍。棚の写真立てに目を移す彼女。
「私、乃亜ちゃんのお母さんと約束したのよ。乃亜ちゃんのこと、絶対守るねって」
その写真立ての中には母の笑顔があった。何度もここへ遊びに来ているというのに、私は今の今まで、この笑顔に気付いていなかった。
「乃亜ちゃんのお母さんね、もう命が短いって知った時こう言ったの。『お父さんは遊び惚けていて、乃亜を大切にしてくれるかわからない。だから何かあった時はよろしくね』って」
「え……」
「亡くなる前、彼女がずーっと気にしてたのは乃亜ちゃんのこと。『こんなことになるなら、妹や弟産んであげればよかった』って。『乃亜をひとりにしちゃう自分は最低だ』って。ずっと泣いてたわ」
その瞬間、カップの中にぽたんと垂れた雫。それはなんだろうと目で追えば、またぽたんとひと粒落ちた。
「だから乃亜ちゃん、たくさん頼って!」
ティッシュを私に差し出した彼女は、そのまま自身の目元も拭った。
「ありがとう、おばさん……」
彼女の愛が、心にじんわり浸透していく。生前残してくれた母の愛は、今こうして私に届く。
大きな欠伸をしながらも、陸は私の家までついて来てくれた。
「親父さんいるよな。俺、マンションの外で待ってるわ。さすがに朝イチ一緒のとこ見られるのは気まずい」
「あははっ。じゃあ、急ぐから待ってて」
そおっと玄関の扉を開ける。父の豪快な鼾が聞こえてくる。自室で今日の授業に必要なものを鞄に詰めて、また玄関へと向かう。
誰も気にしない、心配されない。わかっていた。
マンションの下。陸は柱を背もたれにして待っていた。携帯電話を弄るでもなく、雑誌を読むでもなく、ただただ遠くの青空を眺めていた。何もしていない陸。そんな彼を見るのは初めてかもしれない。
「お待たせっ」
空と陸との間、私は笑顔で入り込む。
「おう。行くか」
「今日は六限まであるね」
「ああ、だるすぎる」
ゆっくりと歩み始めた私達。しかしすぐさま立ち止まったのは陸だった。
「歴史日本漫ガタリ、貸すの忘れた」
「あ、本当だっ。借りる気満々だったのに~」
「まあまあ、また今度な」
再びゆっくり歩む陸。朝陽と彼の背中。私はこの光景を、懐かしく感じていた。
「陸と一緒に登校するの、小学生以来?」
「かもなあ。って、なんで笑ってんの?」
どうしてだか、嬉しくなる。
「なんでもなーいっ。うふふふふ」
「きも。こわ。やば」
「ひどい!」と言って、陸の尻を鞄で叩く。尻をさすった陸は言う。
「はいはい、早く学校行きまっせ」
理不尽な私の暴力に、陸は怒ったことがない。それは、幼い頃からずっとそうだ。
「あれ?陸もちょっと、口元笑ってるよ」
「わ、笑ってねえし!」
赤くなる陸の耳。可愛いと思った。
「わっ。そのふたりで登校とか珍しっ」
人目憚らず、自転車で通学路を進む凛花。陸と私の横で速度を落とした彼女に言った。
「凛花ってばまた自転車通学っ。そろそろ見つかるよー」
「平気だって。ピャーって行けばバレないバレないっ。じゃねっ」
途端に風を切る彼女。その背中に目を奪われていると、背後から肩を叩かれた。
「乃亜っ、陸っ」
振り返ると、そこには息を切らせた勇太君がいた。
「おはよう勇太君。どうして急いでるの?まだチャイムまで余裕あるよ」
淡い色のハンカチを取り出して、額の汗を拭う彼。
「乃亜が見えたから、ついっ。今日は陸と一緒に来たんだね。俺もいい?」
そう言うと、彼は私の手を握る。陸は不快な呆れ顔。
「んだよ、朝から見せつけんなよ。俺先行くわあ」
「ちょ、陸っ」
私の声など完全無視で、陸はスタスタ行ってしまった。
「気なんて使わなくていいのにね」
そう呟いた勇太君に、私も「ね」と苦笑で返した。
「昨日の俺のメッセージ、見てくれた?」
遠くで友達と合流した陸の姿を目にしていると、横からぬっと勇太君の顔が視界に入り込む。
「き、昨日?」
「うん。夜十時頃だったかな」
昨晩十時の私は交番か陸の家か。どちらにせよ、恋人に伝えるような場所ではない。
「ご、ごめん。昨日は早くに寝ちゃってて」
「そうだったんだ。ならいいんだ」
「ごめん……」
「いいっていいって。急用じゃないし」
ごめんともう一度言いかけた私は、一体何に対して謝りたいのだろうか。
「乃亜、寝過ぎっ」
机にうつ伏せる私の頭頂部を、凛花はうちわの柄で小突く。
「もう放課後だよ。授業中ほとんど寝てたでしょっ。夜更かしでもしたの?」
「うんー……ちょっと女子会」
こんな一日中やる気のない受験生を、同じクラスの勇太君はどう見ただろう。
まだ眠い。帰ることすら面倒くさい。
机からなかなか剥がれぬ己の頭に困っていると、ふいに呼ばれた名前。
「乃亜──」
「おい乃亜!」
一瞬、勇太君の声がした気もしたが、ズズズと角度だけを変えた顔と共に目に映るは、扉付近にいた陸だった。
「なんなのよお。寝かせてよお」
私はまた、瞳を閉じる。陸は私の目の前までやって来る。
「おい何してんだよ、学校終わったぞ」
「今日一日中こんな感じだよ~」
凛花はまた、うちわで私を突つく。
「どうしようもねえなあ。おい乃亜、歴史日本漫ガタリ、今日うちにとりくるか?」
そのタイトルは、私を覚醒させる魔法の呪文だ。ガタンと勢いよく椅子から立てた。
「行く!」
陸の家の玄関前。その漫画を受け取れば、気分は高揚。
「ありがとう陸!読むの楽しみ!」
ほんのり両耳を赤く染めた陸は言う。
「うちで読んでいけば?乃亜が家に帰りづらい日は、少しでも帰宅遅くしていけばいいじゃん。帰りは俺が送るし」
何も聞かないくせして、私のことをちゃんと気にかけてくれている。心がぽっと温められる。
「じゃあそうしようかなっ。でも、読書の邪魔しない?」
「しねーよ、お前は素直じゃねえなあっ」
「もー」と嘆きながらも揃えたスリッパを差し出してくるから、本で顔を隠して笑った。
漫画を読んでいるその間、陸は無言を貫いた。数十分後、私の方から話しかける。
「やばい。早く続きが読みたいんですけど」
ゲーム中だった陸は、ポーズボタンを押す。
「まだ半年は新刊出ないぞ。続きが読めるのは、中学卒業してからかもなあ」
「遠い~」
「意外とすぐだよ、そんなの。乃亜は高校どこ行くか決めた?」
「迷ってる」
「どことどこで?」
「違くてっ。行くか行かないかでっ」
私のその言葉に、陸は思い切り顔を顰めた。
「は?まじかよ、行かないつもり?」
「う~ん……どうしよっかなあ」
再度開いた本へ目を落とし始めると、陸の声が歪んだ気がした。
「おい、ちゃんと答えろよ。どうすんの?」
進学とか、未来とか、将来とか。そういった類の話は鳥肌が立つ。
「まだ決めなくていいじゃんそんなの。今二ターン目読んでるから、静かにしててよ」
はあっと息をついて、壁にもたれて体育座り。膝の上でページを捲っていると、コントローラーを荒く放った陸が、その本を奪って言った。
「乃亜が高校に行くって言うまで、もう読ませない」
私の目線でぶらぶらと、本を揺らす。
「か、返してよっ」
咄嗟に伸ばした手はひょいと彼に容易く避けられ、空を切るだけ。
「だって何すんの。高校行かねーで働くの?お前の今後を言え」
真剣な瞳を寄越されて、思わずたじろぐ。
「……それは考えてない、けど」
「じゃあ高校行けよ、心配かけんな」
後ろは壁。ぐいと陸に距離を詰められれば逃げ場はなくなる。
「でも、べつにやりたいこととかないしっ」
「そんなのこれから見つければいいだろっ。高校在学中に将来の夢とか見つかるかもしれねえ。高校行っとけばよかったって、俺は乃亜に後から思って欲しくねえ」
言い返す言葉を探す。陸を黙らせる、反撃のひとことを。
「高校、行く?」
これ見よがしに、私の頭上で本を行き交わせる陸。私の性格を熟知した上での行動だ。
「い、行くよ、高校行く!だから返して!」
がしっと陸の腕を掴んで動きを止めた。途端に不敵な笑みを浮かべた彼は言う。
「返せっていうか、俺のだから」
二ターン目は、ちっとも頭に入らなかった。
とある放課後。「勉強しよう」と勇太君に誘われて、彼の自宅へと招かれた。
リアルな人間の気持ちにも疎い私が、物語に登場する人物の気持ちなどわかるわけがない、などと思いつつも、私は大人しくその一文を探すことに勤しんだ。
彼の部屋は、整頓が行き届いたシンプルな部屋だった。本棚に並ぶ参考書には、付箋が幾つも貼ってある。
固定だと言われた私のシフトは、塾の都合で変動制になった。彼のオフ日がデートの日。曜日は特に決まっていない。
「乃亜、わかった?」
隠された一文をなかなか見つけられずにいると、彼に顔を覗かれた。
「わ、わかんない」
「じゃあ一緒に探そっ。隣きて」
自身の横にクッションを置く彼。私がそれにしずしず座ると、すぐに間は埋められた。
「よし、途中から読んでいくよ」
こんな私にも丁寧に勉強を教えてくれる勇太君は、優しい人だ。
「おしまーい!今日はもう無理っ!」
クッションを枕代わりに、床へごろんと寝そべった。そんな私を見て、彼もペンを置いた。
「俺も、おーしまいっ」
天井を見つめたまま、私は聞いた。
「勇太君って、勉強が好きなの?」
テーブルの上を片しながら、彼は答える。
「好きだよ。勉強はすればするほど身になるから、ある意味自分の思い通りになる。それよりむしろ、努力したって手に入らないことの方が、よっぽど辛いし嫌いかな」
なるほどと、どこか納得してしまう。けれど。
「私は勉強苦手……」
両手で顔を覆えば視界は闇に。脳内ではぐるぐると、未だにAが彷徨っている。
「乃亜」
指の隙間から光が差し込んできたかと思ったら、それは彼が、私の指を一本ずつ剥がしているせいだった。闇から一転、彼が広がる。
「乃亜、好きだよ」
愛の呟きと同時に重なる唇。彼の香りが鼻尖をつく。抵抗せず、そのキスに応えていると、彼はぺろりと舌を見せた。
「なんか甘いね、乃亜の口」
「そう?あ、リップかも。パッケージにぶどうのマークついてたから」
「んー。ぶどうもあるけど……」
「他の味もする?」
目と目を合わせ、静寂が存分に流れていく。にこっと微笑み彼は言う。
「わかった、乃亜が甘いんだ」
再び落とされる、キス。
彼の舌を伝って、私の中にも侵入してくるぶどう味。騒ぎ出した心臓がバレぬよう、私はふたりの胸の間に手を添えた。
✴︎
「凛花って、塾行ってるの?」
昼休み、校庭の隅。鉄棒に跨った私は聞く。凛花はブッと数滴の唾を空に吐いていた。
「乃亜の口から塾とか笑える!なんだかんだで学級委員に影響されてるじゃん!」
「影響、されてるのかなあ」
足を軸にぐるっと半転すれば、逆さになった校舎と思考。
「勇太君が言ってたんだけどね、勉強は思い通りになるらしいよ」
「何そのクレバー発言」
「凛花は塾、行ってる?」
「行ってるよ。バスケ部引退した途端、お母さんが行けって」
「ふうん。みんな、勉強してるんだねえ」
ぶらんぶらんと体を揺らせて、景色も揺らす。凛花も「よっ」と逆さになった。
「乃亜、志望校決めた?」
「決めるも何も、私のレベル的にこの辺じゃ無理。一番近くて桜橋高校かな。凛花は?」
「私は妙海高校かな。あそこバスケ強いし」
「高校行ってもやるんだ」
「うんっ。もちろん!」
未来に希望を持ち進学を決めた彼女の横顔は、キラキラとしていた。
「私も塾くらいは、行こうかなあ」
「あれ。お父さん」
帰宅すると、平日にしては珍しく、早い時間から父がビールを片手に寛いでいた。
普段留守がちな父と話せるこのチャンスを逃してはいけない。
「ねえねえ、私が塾行きたいって言ったら、オッケーしてくれる?」
ほんのり赤らんだ父の顔。その眉間に皺が寄る。
「塾ぅ?どうしてまた?」
「だ、だってみんな行ってるし、中三の二学期だし。そろそろ受験に本気出さなきゃ、どこも受からないよ」
「うーん……」
彼はグビッとグラスのビールを飲み干すと、台所で追加を注ぐ。半笑いで小首を傾げているのが目に入り、奥歯を噛む。
「おっとっと」と泡を啜りながら居間に戻って来た彼は言う。
「まあ、ダメとは言わないけど」
「じゃあいいの?」
「乃亜が塾なんか行って、意味あるか?」
その瞬間、ピキンと血管が浮き出るのがわかった。彼はまだ、馬鹿にしたように笑っている。
「今まで勉強なんか放ったらかしだった乃亜が、今更塾に行ったところで何か変わるか?馬鹿は馬鹿のままだろう。それに、乃亜が高校に行くなんて、父さんは何も聞いてないぞ。わざわざ金かけて無理に進学するくらいだったら、結婚でもすればいい。どうせ女なんだ。将来は夫に食わせてもらうんだろう」
その刹那、理解が追いつかなかった脳は懸命に、父の言葉を咀嚼する。
馬鹿は馬鹿のまま。無理に進学。結婚でもすればいい。
今更、わざわざ、どうせ。
気付けば食卓の新聞紙を掴んでいた。
「な、何をするんだ!」
バサンッと投げたのは父の方面。ビールが彼の服にかかる。
「何その言い方!私だって私なりに、受験のこと考えてるんだけど!」
父は卓を一撃、音を立てる。
「塾なんか行ったって、乃亜はすぐ辞めるだろう!」
「はあ!?」
「じゃあ今まで一体何が続いたんだ、言ってみろ!ピアノだって水泳だって、一年も続いてないじゃないか!母さんも困ってたぞ!」
「そ、それはっ」
「父さん、間違っていないだろう!?」
大きな咳払いをした父は、台所に行くと煙草に火をつけた。換気扇に向かってぐちぐちと吐く、私への不満。
父の意見は全くもってその通りだ。親の金であれをして、これをして、全部投げ出してきた。けれど私は子供だから、今この状況で感謝など口にできない。血走った目で私を怒鳴りつける父に、反抗したくなるんだ。
「自分だって、何も続かないくせに……」
私のその言葉で、父は口から煙草を外す。
「禁煙も女遊びも、ずっとやめてないじゃん!お母さん苦しんでたのに!お父さんの浮気が判明してからずっと泣いてたのに!なのにお父さん、お母さんが癌になってもずっと浮気してたじゃん!お母さんが死ぬまで!」
何も返さず戸惑うだけの父に、私はまた新聞紙を投げつけた。
「お父さんなんか大っ嫌い!」
今度の父は手を翳すだけで、どこを殴ることもしなかった。その代わりに、目も合わせようとしない。
「……何も言わないの?」
情けないよ、お父さん。
「それともねえ、何も言えないの!?」
煙草がぷるぷると震えているのは、娘の豹変に怯えているのではなくて、後悔からくるものだって思いたい。
父をひとり家に残し、私は財布と携帯電話を持って家を飛び出した。
コンビニのイートインコーナーには、何時間滞在していいのだろう。ここへ着いたのが夕方五時前だったから、もう三時間もここにいる。
携帯電話の電池が残り僅かになり、充電器を持ってこなかった自分を悔いた。そして、窓際の席に座ってしまった自分にも後悔しているところだ。
目の前の大きな窓ガラスは、陽が落ちると同時に鏡へ化けた。モノクロの自分とちらちら目が合って、反吐が出そうになる。
『乃亜ちゃんは、お母さんそっくりね』
親戚や保育園の先生に、そうやってよく言われていた。『大きくなったら、お母さんみたいになるのが想像つくわ』って。
母は美人だったし頭も良かったから、私は彼女のようになりたいとずっと思っていた。
「それなのに、何この醜い自分……」
ガラスの中。自分の顔。
「超ブッサイク」
マジックで塗りつぶしてしまおうか。
母に似て生まれたところで、お前は母にはなれないんだよ。勉強を頑張る、塾に行きたい。何を言っているんだ、どうせすぐ投げ出すくせに。高校なんか行かなくたっていいじゃないか。勉強なんか、大嫌いなんでしょう?
そう訴えかけてくるモノクロの自分から逃げたくて、私はテーブルにうつ伏せた。
「ちょっと君。おーい」
夢か現実か。誰かに肩を揺さぶられて顔を上げる。腕には赤い痕。どれだけ寝ていたのだろう。
隣に立つは、五十代くらいの男性警察官。
「こんなところで制服のまま寝てちゃダメだよ。親御さんが心配するだろう?」
店内の時計は九時をさす。一時間も寝てしまっていた。
「も、もう帰りますっ」
携帯電話をポケットにしまい、席を立とうとすると、彼は「ダメダメ」と首を横に振った。
「交番に来なさい。この時間じゃ、親御さんに引き渡さないと帰してあげられないよ」
私は黙って彼の後に続いた。
交番に着いてすぐ。ゆっくりと外した受話器を耳にあて、ボタンを指で押していく。あれだけ喧嘩をしても頼らなければならぬ親という存在。未成年である歯痒さをひしひしと感じていた。
長いこと呼び出して、ようやく出た父の周りは大層賑やかだった。自分の居場所と迎えが必要だという事実を伝えると、彼の返答はこうだった。
「父さんはもう、奈緒の店で呑んでて今すぐ迎えになんて行けないよ。明日の朝なら行ってやるから、今日は警察でもどこでも泊まりなさい」
一方的に終了した会話、鳴り響く不通音。
父の中で家族というものは、ただの紙切れの関係でしかなくて、彼はいつだって彼自身が最優先。そんなことは昔から知っていたはずなのに、どうして期待など寄せてしまったのだろう。迎えにくらい、来るだろうと。
「お父さん、なんだって?」
受話器を握りしめたままの私の前、警察官は指で通話を切った。
「ちょっと遠いとこにいて、今日中には迎えに来られないそうです……」
「他にあてはあるかい?親戚でも、二十歳を過ぎた兄姉でも」
「……いないです」
「そうかあ。うーん、どうするかなあ……」
キィーッと背もたれを倒し考える彼。ぽんっとすぐに、手を叩く。
「友達の親でもいいよ。誰か迎えに来てくれそうな人はいるかな?」
私の頭には、陸の母しか思い浮かばなかった。
「どうもすみません。遅くまでお世話になりました。さ、乃亜ちゃん行こっか」
警察官に頭を下げた陸の母は、私の手を引いた。
商店街の路地にある交番から一歩出れば、静閑が耳を突く。夜十時に近いこの時刻では、ほとんどの店のシャッターが降りていた。
「乃亜ちゃん、夕ご飯食べた?」
交番で保護された理由を問うよりも先に、私の空腹を心配した彼女に少し驚く。
「もし食べてないなら家に来ない?茹ですぎたお蕎麦が余ってるの。陸も楓も、もうお腹いっぱいって言って、あと少しなのに食べてくれないのよ」
いつもの優しい笑顔。
「そういえば、カステラもあったなぁっ」
私の沈んだ気持ちを察してくれて、ご飯を食べていないと気付いてくれて、父を頼らなかった私に何かのトラブルを感じてくれた。
そしてそれ等全てを私の口から言わせまいと、気丈に振る舞ってくれる彼女に涙が出た。
「乃亜ちゃんっ」
陸の自宅。真っ先に出迎えてくれたのは、パジャマ姿の楓だった。
「楓ごめんね。こんな時間に」
「全然!十時なんてうち誰も寝てないしっ」
「ありがとう」
手を洗い、食卓に腰を掛けさせてもらうと、自室から出てきた陸が目に入る。
「ど、ども。お邪魔してます、です」
どこかぎこちない挨拶をすると、彼は言った。
「歴史日本漫ガタリの最新刊読んだ?」
陸もまた、彼の母と同じ。私に一切理由を聞かない。
「よ、読んでない……発売されたの?」
「今日ゲットした。もう読んだから、貸してやろっか?優しいだろ」
にししと得意げな陸の顔。この家族といると、心の氷が溶けていく。
「乃亜ちゃんって、今日泊まるの?」
蕎麦を啜る私に楓が聞いた。
「お蕎麦食べたら帰るよ。明日も学校だし」
「えー、もうこんな時間なんだから泊まっていけばいいのに」
「着替えもないし、悪いよ」
「私のパジャマ貸すから!」
彼女は私を気にかけてくれているのだろうか。それともただ単に、お泊まり会気分で誘っているのか。どちらにせよ、私が嬉しく思ったことに変わりはない。
楓のしつこい懇願に、陸の母は私の宿泊を許可した。ただし、父に一報入れることを条件に。
夕飯時はわあきゃあと女だけで盛り上がり、陸とは大した会話もしなかった。
「陸、おやすみ」
「じゃあなあー」
楓の部屋の前、陸に手を振ると、彼も自室へ戻って行った。
楓に借りた充電器に携帯電話を繋げながら、私は父へとメッセージを作成する。
『今夜は陸の家に泊まります。明日の朝に帰ります』
画面を覗いた楓は言った。
「なんかこれ、お兄ちゃんとお泊まりして、朝帰りするみたいだね」
「え、そうかな?じゃあ、こう?」
『陸と楓とおばさんと寝てから帰ります』
再び画面を覗く彼女。
「なんか変だけど。ま、いいんじゃない?」
あははと笑って、電気を消した。
ひとつの布団の中で触れ合う肌の温もりに、ふと母と添い寝していた頃を思い出す。
「乃亜ちゃん、お兄ちゃんと付き合っちゃえばいいのに」
しんみりしていた気分を抹消したのは、唐突すぎる、楓のひとこと。
「はいっ?」
「だって絶対好きじゃん、お兄ちゃんって乃亜ちゃんのこと」
「わ、私、彼氏いるからっ」
「え!そうなの!?」
「う、うん」
「なんだあ、お兄ちゃん撃沈ー」
妹にすっかり読まれていた陸の恋心。笑いが溢れる。
「ラブラブなの?その彼氏と」
そして一転、ぎくりとさせてくる。しどろもどろに答えてしまう。
「ラ、ラブラブの定義がわからないからなんとも言えないけど……別れるまではそうなんじゃない?」
「え、どういう意味」
「恋愛なんかすぐ終わるじゃん、別れるじゃん。だからそれまでの期間はラブラブって言っていいんじゃない?」
「うーん」とひとつ唸った楓はこう言った。
「確かにうちのママも離婚してるしなあっ。愛が続かなかった証拠だよね」
私が陸と楓と出逢う数年前に、母親に引き取られた彼等。「うん」とは頷けなかった。
時計の針の音だけが、しばらく聞こえた。
「乃亜ちゃん、寝た?」
「うっすら起きてる……」
体勢を変えた楓は、私に背を向ける。
「あのね乃亜ちゃん。私はお兄ちゃんが乃亜ちゃんのことが好きだって気付いた時、すごく嬉しかったの」
「え?」
「もしかしたら乃亜ちゃんが、私のお姉ちゃんになるかもって一瞬でも思ったら、嬉しかった」
「楓……」
「なんてね。おやすみっ」
そう言って寝息を立て始めた彼女の背中に額をつけて、瞼を閉じる。
楓がとても愛おしかった。
✴︎
「おはよう。よく眠れたかしら?」
翌朝。炊事の音で目覚めた私は、台所で忙しそうな陸の母をぼーっと眺めていた。
「まだふたり共起きないから、乃亜ちゃんは座ってゆっくりしてて。はい、コーヒー」
そう言って彼女が食卓に置いてくれたブラックコーヒー。温かい。
「そういえば、お父さんなんだって?急に外泊になって、心配していないかしら」
その言葉で、私はすっかり頭の外だった父を思い出し、携帯電話の画面をつける。
メッセージゼロ。着信ゼロ。落ち込みたくなどないのに、溜め息は漏れる。
「ないです。返答」
「まあ、ダメなお父さんねえ。娘が帰ってこないっていうのに」
カチャカチャと皿を洗う手を止めた彼女は、その手をエプロンの裾で拭って、話し出す。
「乃亜ちゃん、うちにはいつでも来ていいんだからね。陸も楓も、乃亜ちゃんの家族みたいなものなんだから」
食卓傍。棚の写真立てに目を移す彼女。
「私、乃亜ちゃんのお母さんと約束したのよ。乃亜ちゃんのこと、絶対守るねって」
その写真立ての中には母の笑顔があった。何度もここへ遊びに来ているというのに、私は今の今まで、この笑顔に気付いていなかった。
「乃亜ちゃんのお母さんね、もう命が短いって知った時こう言ったの。『お父さんは遊び惚けていて、乃亜を大切にしてくれるかわからない。だから何かあった時はよろしくね』って」
「え……」
「亡くなる前、彼女がずーっと気にしてたのは乃亜ちゃんのこと。『こんなことになるなら、妹や弟産んであげればよかった』って。『乃亜をひとりにしちゃう自分は最低だ』って。ずっと泣いてたわ」
その瞬間、カップの中にぽたんと垂れた雫。それはなんだろうと目で追えば、またぽたんとひと粒落ちた。
「だから乃亜ちゃん、たくさん頼って!」
ティッシュを私に差し出した彼女は、そのまま自身の目元も拭った。
「ありがとう、おばさん……」
彼女の愛が、心にじんわり浸透していく。生前残してくれた母の愛は、今こうして私に届く。
大きな欠伸をしながらも、陸は私の家までついて来てくれた。
「親父さんいるよな。俺、マンションの外で待ってるわ。さすがに朝イチ一緒のとこ見られるのは気まずい」
「あははっ。じゃあ、急ぐから待ってて」
そおっと玄関の扉を開ける。父の豪快な鼾が聞こえてくる。自室で今日の授業に必要なものを鞄に詰めて、また玄関へと向かう。
誰も気にしない、心配されない。わかっていた。
マンションの下。陸は柱を背もたれにして待っていた。携帯電話を弄るでもなく、雑誌を読むでもなく、ただただ遠くの青空を眺めていた。何もしていない陸。そんな彼を見るのは初めてかもしれない。
「お待たせっ」
空と陸との間、私は笑顔で入り込む。
「おう。行くか」
「今日は六限まであるね」
「ああ、だるすぎる」
ゆっくりと歩み始めた私達。しかしすぐさま立ち止まったのは陸だった。
「歴史日本漫ガタリ、貸すの忘れた」
「あ、本当だっ。借りる気満々だったのに~」
「まあまあ、また今度な」
再びゆっくり歩む陸。朝陽と彼の背中。私はこの光景を、懐かしく感じていた。
「陸と一緒に登校するの、小学生以来?」
「かもなあ。って、なんで笑ってんの?」
どうしてだか、嬉しくなる。
「なんでもなーいっ。うふふふふ」
「きも。こわ。やば」
「ひどい!」と言って、陸の尻を鞄で叩く。尻をさすった陸は言う。
「はいはい、早く学校行きまっせ」
理不尽な私の暴力に、陸は怒ったことがない。それは、幼い頃からずっとそうだ。
「あれ?陸もちょっと、口元笑ってるよ」
「わ、笑ってねえし!」
赤くなる陸の耳。可愛いと思った。
「わっ。そのふたりで登校とか珍しっ」
人目憚らず、自転車で通学路を進む凛花。陸と私の横で速度を落とした彼女に言った。
「凛花ってばまた自転車通学っ。そろそろ見つかるよー」
「平気だって。ピャーって行けばバレないバレないっ。じゃねっ」
途端に風を切る彼女。その背中に目を奪われていると、背後から肩を叩かれた。
「乃亜っ、陸っ」
振り返ると、そこには息を切らせた勇太君がいた。
「おはよう勇太君。どうして急いでるの?まだチャイムまで余裕あるよ」
淡い色のハンカチを取り出して、額の汗を拭う彼。
「乃亜が見えたから、ついっ。今日は陸と一緒に来たんだね。俺もいい?」
そう言うと、彼は私の手を握る。陸は不快な呆れ顔。
「んだよ、朝から見せつけんなよ。俺先行くわあ」
「ちょ、陸っ」
私の声など完全無視で、陸はスタスタ行ってしまった。
「気なんて使わなくていいのにね」
そう呟いた勇太君に、私も「ね」と苦笑で返した。
「昨日の俺のメッセージ、見てくれた?」
遠くで友達と合流した陸の姿を目にしていると、横からぬっと勇太君の顔が視界に入り込む。
「き、昨日?」
「うん。夜十時頃だったかな」
昨晩十時の私は交番か陸の家か。どちらにせよ、恋人に伝えるような場所ではない。
「ご、ごめん。昨日は早くに寝ちゃってて」
「そうだったんだ。ならいいんだ」
「ごめん……」
「いいっていいって。急用じゃないし」
ごめんともう一度言いかけた私は、一体何に対して謝りたいのだろうか。
「乃亜、寝過ぎっ」
机にうつ伏せる私の頭頂部を、凛花はうちわの柄で小突く。
「もう放課後だよ。授業中ほとんど寝てたでしょっ。夜更かしでもしたの?」
「うんー……ちょっと女子会」
こんな一日中やる気のない受験生を、同じクラスの勇太君はどう見ただろう。
まだ眠い。帰ることすら面倒くさい。
机からなかなか剥がれぬ己の頭に困っていると、ふいに呼ばれた名前。
「乃亜──」
「おい乃亜!」
一瞬、勇太君の声がした気もしたが、ズズズと角度だけを変えた顔と共に目に映るは、扉付近にいた陸だった。
「なんなのよお。寝かせてよお」
私はまた、瞳を閉じる。陸は私の目の前までやって来る。
「おい何してんだよ、学校終わったぞ」
「今日一日中こんな感じだよ~」
凛花はまた、うちわで私を突つく。
「どうしようもねえなあ。おい乃亜、歴史日本漫ガタリ、今日うちにとりくるか?」
そのタイトルは、私を覚醒させる魔法の呪文だ。ガタンと勢いよく椅子から立てた。
「行く!」
陸の家の玄関前。その漫画を受け取れば、気分は高揚。
「ありがとう陸!読むの楽しみ!」
ほんのり両耳を赤く染めた陸は言う。
「うちで読んでいけば?乃亜が家に帰りづらい日は、少しでも帰宅遅くしていけばいいじゃん。帰りは俺が送るし」
何も聞かないくせして、私のことをちゃんと気にかけてくれている。心がぽっと温められる。
「じゃあそうしようかなっ。でも、読書の邪魔しない?」
「しねーよ、お前は素直じゃねえなあっ」
「もー」と嘆きながらも揃えたスリッパを差し出してくるから、本で顔を隠して笑った。
漫画を読んでいるその間、陸は無言を貫いた。数十分後、私の方から話しかける。
「やばい。早く続きが読みたいんですけど」
ゲーム中だった陸は、ポーズボタンを押す。
「まだ半年は新刊出ないぞ。続きが読めるのは、中学卒業してからかもなあ」
「遠い~」
「意外とすぐだよ、そんなの。乃亜は高校どこ行くか決めた?」
「迷ってる」
「どことどこで?」
「違くてっ。行くか行かないかでっ」
私のその言葉に、陸は思い切り顔を顰めた。
「は?まじかよ、行かないつもり?」
「う~ん……どうしよっかなあ」
再度開いた本へ目を落とし始めると、陸の声が歪んだ気がした。
「おい、ちゃんと答えろよ。どうすんの?」
進学とか、未来とか、将来とか。そういった類の話は鳥肌が立つ。
「まだ決めなくていいじゃんそんなの。今二ターン目読んでるから、静かにしててよ」
はあっと息をついて、壁にもたれて体育座り。膝の上でページを捲っていると、コントローラーを荒く放った陸が、その本を奪って言った。
「乃亜が高校に行くって言うまで、もう読ませない」
私の目線でぶらぶらと、本を揺らす。
「か、返してよっ」
咄嗟に伸ばした手はひょいと彼に容易く避けられ、空を切るだけ。
「だって何すんの。高校行かねーで働くの?お前の今後を言え」
真剣な瞳を寄越されて、思わずたじろぐ。
「……それは考えてない、けど」
「じゃあ高校行けよ、心配かけんな」
後ろは壁。ぐいと陸に距離を詰められれば逃げ場はなくなる。
「でも、べつにやりたいこととかないしっ」
「そんなのこれから見つければいいだろっ。高校在学中に将来の夢とか見つかるかもしれねえ。高校行っとけばよかったって、俺は乃亜に後から思って欲しくねえ」
言い返す言葉を探す。陸を黙らせる、反撃のひとことを。
「高校、行く?」
これ見よがしに、私の頭上で本を行き交わせる陸。私の性格を熟知した上での行動だ。
「い、行くよ、高校行く!だから返して!」
がしっと陸の腕を掴んで動きを止めた。途端に不敵な笑みを浮かべた彼は言う。
「返せっていうか、俺のだから」
二ターン目は、ちっとも頭に入らなかった。
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