君と私の恋の箱

華子

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居場所

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「この問題は、Aの気持ちがわかる一文が文章の中に隠れているんだよ。それをまず、見つけ出そう」

 とある放課後。「勉強しよう」と勇太君に誘われて、彼の自宅へと招かれた。

 リアルな人間の気持ちにも疎い私が、物語に登場する人物の気持ちなどわかるわけがない、などと思いつつも、私は大人しくその一文を探すことに勤しんだ。

 彼の部屋は、整頓が行き届いたシンプルな部屋だった。本棚に並ぶ参考書には、付箋が幾つも貼ってある。
 固定だと言われた私のシフトは、塾の都合で変動制になった。彼のオフ日がデートの日。曜日は特に決まっていない。

「乃亜、わかった?」

 隠された一文をなかなか見つけられずにいると、彼に顔を覗かれた。

「わ、わかんない」
「じゃあ一緒に探そっ。隣きて」

 自身の横にクッションを置く彼。私がそれにしずしず座ると、すぐに間は埋められた。

「よし、途中から読んでいくよ」

 こんな私にも丁寧に勉強を教えてくれる勇太君は、優しい人だ。


「おしまーい!今日はもう無理っ!」

 クッションを枕代わりに、床へごろんと寝そべった。そんな私を見て、彼もペンを置いた。

「俺も、おーしまいっ」

 天井を見つめたまま、私は聞いた。

「勇太君って、勉強が好きなの?」

 テーブルの上を片しながら、彼は答える。

「好きだよ。勉強はすればするほど身になるから、ある意味自分の思い通りになる。それよりむしろ、努力したって手に入らないことの方が、よっぽど辛いし嫌いかな」

 なるほどと、どこか納得してしまう。けれど。

「私は勉強苦手……」

 両手で顔を覆えば視界は闇に。脳内ではぐるぐると、未だにAが彷徨っている。

「乃亜」

 指の隙間から光が差し込んできたかと思ったら、それは彼が、私の指を一本ずつ剥がしているせいだった。闇から一転、彼が広がる。

「乃亜、好きだよ」

 愛の呟きと同時に重なる唇。彼の香りが鼻尖をつく。抵抗せず、そのキスに応えていると、彼はぺろりと舌を見せた。

「なんか甘いね、乃亜の口」
「そう?あ、リップかも。パッケージにぶどうのマークついてたから」
「んー。ぶどうもあるけど……」
「他の味もする?」

 目と目を合わせ、静寂が存分に流れていく。にこっと微笑み彼は言う。

「わかった、乃亜が甘いんだ」

 再び落とされる、キス。

 彼の舌を伝って、私の中にも侵入してくるぶどう味。騒ぎ出した心臓がバレぬよう、私はふたりの胸の間に手を添えた。

✴︎

「凛花って、塾行ってるの?」

 昼休み、校庭の隅。鉄棒に跨った私は聞く。凛花はブッと数滴の唾を空に吐いていた。

「乃亜の口から塾とか笑える!なんだかんだで学級委員に影響されてるじゃん!」
「影響、されてるのかなあ」

 足を軸にぐるっと半転すれば、逆さになった校舎と思考。

「勇太君が言ってたんだけどね、勉強は思い通りになるらしいよ」
「何そのクレバー発言」
「凛花は塾、行ってる?」
「行ってるよ。バスケ部引退した途端、お母さんが行けって」
「ふうん。みんな、勉強してるんだねえ」

 ぶらんぶらんと体を揺らせて、景色も揺らす。凛花も「よっ」と逆さになった。

「乃亜、志望校決めた?」
「決めるも何も、私のレベル的にこの辺じゃ無理。一番近くて桜橋さくらばし高校かな。凛花は?」
「私は妙海みょうかい高校かな。あそこバスケ強いし」
「高校行ってもやるんだ」
「うんっ。もちろん!」

 未来に希望を持ち進学を決めた彼女の横顔は、キラキラとしていた。

「私も塾くらいは、行こうかなあ」


「あれ。お父さん」

 帰宅すると、平日にしては珍しく、早い時間から父がビールを片手に寛いでいた。
 普段留守がちな父と話せるこのチャンスを逃してはいけない。

「ねえねえ、私が塾行きたいって言ったら、オッケーしてくれる?」

 ほんのり赤らんだ父の顔。その眉間に皺が寄る。

「塾ぅ?どうしてまた?」
「だ、だってみんな行ってるし、中三の二学期だし。そろそろ受験に本気出さなきゃ、どこも受からないよ」
「うーん……」

 彼はグビッとグラスのビールを飲み干すと、台所で追加を注ぐ。半笑いで小首を傾げているのが目に入り、奥歯を噛む。
「おっとっと」と泡を啜りながら居間に戻って来た彼は言う。

「まあ、ダメとは言わないけど」
「じゃあいいの?」
「乃亜が塾なんか行って、意味あるか?」

 その瞬間、ピキンと血管が浮き出るのがわかった。彼はまだ、馬鹿にしたように笑っている。

「今まで勉強なんか放ったらかしだった乃亜が、今更塾に行ったところで何か変わるか?馬鹿は馬鹿のままだろう。それに、乃亜が高校に行くなんて、父さんは何も聞いてないぞ。わざわざ金かけて無理に進学するくらいだったら、結婚でもすればいい。どうせ女なんだ。将来は夫に食わせてもらうんだろう」

 その刹那、理解が追いつかなかった脳は懸命に、父の言葉を咀嚼する。
 馬鹿は馬鹿のまま。無理に進学。結婚でもすればいい。
 今更、わざわざ、どうせ。
 
 気付けば食卓の新聞紙を掴んでいた。

「な、何をするんだ!」

 バサンッと投げたのは父の方面。ビールが彼の服にかかる。

「何その言い方!私だって私なりに、受験のこと考えてるんだけど!」

 父は卓を一撃、音を立てる。

「塾なんか行ったって、乃亜はすぐ辞めるだろう!」
「はあ!?」
「じゃあ今まで一体何が続いたんだ、言ってみろ!ピアノだって水泳だって、一年も続いてないじゃないか!母さんも困ってたぞ!」
「そ、それはっ」
「父さん、間違っていないだろう!?」

 大きな咳払いをした父は、台所に行くと煙草に火をつけた。換気扇に向かってぐちぐちと吐く、私への不満。

 父の意見は全くもってその通りだ。親の金であれをして、これをして、全部投げ出してきた。けれど私は子供だから、今この状況で感謝など口にできない。血走った目で私を怒鳴りつける父に、反抗したくなるんだ。

「自分だって、何も続かないくせに……」

 私のその言葉で、父は口から煙草を外す。

「禁煙も女遊びも、ずっとやめてないじゃん!お母さん苦しんでたのに!お父さんの浮気が判明してからずっと泣いてたのに!なのにお父さん、お母さんが癌になってもずっと浮気してたじゃん!お母さんが死ぬまで!」

 何も返さず戸惑うだけの父に、私はまた新聞紙を投げつけた。

「お父さんなんか大っ嫌い!」

 今度の父は手を翳すだけで、どこを殴ることもしなかった。その代わりに、目も合わせようとしない。

「……何も言わないの?」

 情けないよ、お父さん。

「それともねえ、何も言えないの!?」

 煙草がぷるぷると震えているのは、娘の豹変に怯えているのではなくて、後悔からくるものだって思いたい。

 父をひとり家に残し、私は財布と携帯電話を持って家を飛び出した。


 コンビニのイートインコーナーには、何時間滞在していいのだろう。ここへ着いたのが夕方五時前だったから、もう三時間もここにいる。

 携帯電話の電池が残り僅かになり、充電器を持ってこなかった自分を悔いた。そして、窓際の席に座ってしまった自分にも後悔しているところだ。

 目の前の大きな窓ガラスは、陽が落ちると同時に鏡へ化けた。モノクロの自分とちらちら目が合って、反吐が出そうになる。

『乃亜ちゃんは、お母さんそっくりね』
 親戚や保育園の先生に、そうやってよく言われていた。『大きくなったら、お母さんみたいになるのが想像つくわ』って。
 母は美人だったし頭も良かったから、私は彼女のようになりたいとずっと思っていた。

「それなのに、何この醜い自分……」

 ガラスの中。自分の顔。

「超ブッサイク」

 マジックで塗りつぶしてしまおうか。

 母に似て生まれたところで、お前は母にはなれないんだよ。勉強を頑張る、塾に行きたい。何を言っているんだ、どうせすぐ投げ出すくせに。高校なんか行かなくたっていいじゃないか。勉強なんか、大嫌いなんでしょう?

 そう訴えかけてくるモノクロの自分から逃げたくて、私はテーブルにうつ伏せた。


「ちょっと君。おーい」

 夢か現実か。誰かに肩を揺さぶられて顔を上げる。腕には赤い痕。どれだけ寝ていたのだろう。
 隣に立つは、五十代くらいの男性警察官。

「こんなところで制服のまま寝てちゃダメだよ。親御さんが心配するだろう?」

 店内の時計は九時をさす。一時間も寝てしまっていた。

「も、もう帰りますっ」

 携帯電話をポケットにしまい、席を立とうとすると、彼は「ダメダメ」と首を横に振った。

「交番に来なさい。この時間じゃ、親御さんに引き渡さないと帰してあげられないよ」

 私は黙って彼の後に続いた。


 交番に着いてすぐ。ゆっくりと外した受話器を耳にあて、ボタンを指で押していく。あれだけ喧嘩をしても頼らなければならぬ親という存在。未成年である歯痒さをひしひしと感じていた。

 長いこと呼び出して、ようやく出た父の周りは大層賑やかだった。自分の居場所と迎えが必要だという事実を伝えると、彼の返答はこうだった。

「父さんはもう、奈緒の店で呑んでて今すぐ迎えになんて行けないよ。明日の朝なら行ってやるから、今日は警察でもどこでも泊まりなさい」

 一方的に終了した会話、鳴り響く不通音。
 父の中で家族というものは、ただの紙切れの関係でしかなくて、彼はいつだって彼自身が最優先。そんなことは昔から知っていたはずなのに、どうして期待など寄せてしまったのだろう。迎えにくらい、来るだろうと。

「お父さん、なんだって?」

 受話器を握りしめたままの私の前、警察官は指で通話を切った。

「ちょっと遠いとこにいて、今日中には迎えに来られないそうです……」
「他にあてはあるかい?親戚でも、二十歳を過ぎた兄姉でも」
「……いないです」
「そうかあ。うーん、どうするかなあ……」

 キィーッと背もたれを倒し考える彼。ぽんっとすぐに、手を叩く。

「友達の親でもいいよ。誰か迎えに来てくれそうな人はいるかな?」

 私の頭には、陸の母しか思い浮かばなかった。


「どうもすみません。遅くまでお世話になりました。さ、乃亜ちゃん行こっか」

 警察官に頭を下げた陸の母は、私の手を引いた。

 商店街の路地にある交番から一歩出れば、静閑が耳を突く。夜十時に近いこの時刻では、ほとんどの店のシャッターが降りていた。

「乃亜ちゃん、夕ご飯食べた?」

 交番で保護された理由を問うよりも先に、私の空腹を心配した彼女に少し驚く。

「もし食べてないなら家に来ない?茹ですぎたお蕎麦が余ってるの。陸も楓も、もうお腹いっぱいって言って、あと少しなのに食べてくれないのよ」

 いつもの優しい笑顔。

「そういえば、カステラもあったなぁっ」

 私の沈んだ気持ちを察してくれて、ご飯を食べていないと気付いてくれて、父を頼らなかった私に何かのトラブルを感じてくれた。
 そしてそれ等全てを私の口から言わせまいと、気丈に振る舞ってくれる彼女に涙が出た。


「乃亜ちゃんっ」

 陸の自宅。真っ先に出迎えてくれたのは、パジャマ姿の楓だった。

「楓ごめんね。こんな時間に」
「全然!十時なんてうち誰も寝てないしっ」
「ありがとう」

 手を洗い、食卓に腰を掛けさせてもらうと、自室から出てきた陸が目に入る。

「ど、ども。お邪魔してます、です」

 どこかぎこちない挨拶をすると、彼は言った。

「歴史日本漫ガタリの最新刊読んだ?」

 陸もまた、彼の母と同じ。私に一切理由わけを聞かない。

「よ、読んでない……発売されたの?」
「今日ゲットした。もう読んだから、貸してやろっか?優しいだろ」

 にししと得意げな陸の顔。この家族といると、心の氷が溶けていく。


「乃亜ちゃんって、今日泊まるの?」

 蕎麦を啜る私に楓が聞いた。

「お蕎麦食べたら帰るよ。明日も学校だし」
「えー、もうこんな時間なんだから泊まっていけばいいのに」
「着替えもないし、悪いよ」
「私のパジャマ貸すから!」

 彼女は私を気にかけてくれているのだろうか。それともただ単に、お泊まり会気分で誘っているのか。どちらにせよ、私が嬉しく思ったことに変わりはない。

 楓のしつこい懇願に、陸の母は私の宿泊を許可した。ただし、父に一報入れることを条件に。

 夕飯時はわあきゃあと女だけで盛り上がり、陸とは大した会話もしなかった。

「陸、おやすみ」
「じゃあなあー」

 楓の部屋の前、陸に手を振ると、彼も自室へ戻って行った。

 楓に借りた充電器に携帯電話を繋げながら、私は父へとメッセージを作成する。

『今夜は陸の家に泊まります。明日の朝に帰ります』

 画面を覗いた楓は言った。

「なんかこれ、お兄ちゃんとお泊まりして、朝帰りするみたいだね」
「え、そうかな?じゃあ、こう?」

『陸と楓とおばさんと寝てから帰ります』

 再び画面を覗く彼女。

「なんか変だけど。ま、いいんじゃない?」

 あははと笑って、電気を消した。

 ひとつの布団の中で触れ合う肌の温もりに、ふと母と添い寝していた頃を思い出す。

「乃亜ちゃん、お兄ちゃんと付き合っちゃえばいいのに」

 しんみりしていた気分を抹消したのは、唐突すぎる、楓のひとこと。

「はいっ?」
「だって絶対好きじゃん、お兄ちゃんって乃亜ちゃんのこと」
「わ、私、彼氏いるからっ」
「え!そうなの!?」
「う、うん」
「なんだあ、お兄ちゃん撃沈ー」

 妹にすっかり読まれていた陸の恋心。笑いが溢れる。

「ラブラブなの?その彼氏と」

 そして一転、ぎくりとさせてくる。しどろもどろに答えてしまう。

「ラ、ラブラブの定義がわからないからなんとも言えないけど……別れるまではそうなんじゃない?」
「え、どういう意味」
「恋愛なんかすぐ終わるじゃん、別れるじゃん。だからそれまでの期間はラブラブって言っていいんじゃない?」

「うーん」とひとつ唸った楓はこう言った。

「確かにうちのママも離婚してるしなあっ。愛が続かなかった証拠だよね」

 私が陸と楓と出逢う数年前に、母親に引き取られた彼等。「うん」とは頷けなかった。

 時計の針の音だけが、しばらく聞こえた。

「乃亜ちゃん、寝た?」
「うっすら起きてる……」

 体勢を変えた楓は、私に背を向ける。

「あのね乃亜ちゃん。私はお兄ちゃんが乃亜ちゃんのことが好きだって気付いた時、すごく嬉しかったの」
「え?」
「もしかしたら乃亜ちゃんが、私のお姉ちゃんになるかもって一瞬でも思ったら、嬉しかった」
「楓……」
「なんてね。おやすみっ」

 そう言って寝息を立て始めた彼女の背中に額をつけて、瞼を閉じる。
 楓がとても愛おしかった。

✴︎

「おはよう。よく眠れたかしら?」

 翌朝。炊事の音で目覚めた私は、台所で忙しそうな陸の母をぼーっと眺めていた。

「まだふたり共起きないから、乃亜ちゃんは座ってゆっくりしてて。はい、コーヒー」

 そう言って彼女が食卓に置いてくれたブラックコーヒー。温かい。

「そういえば、お父さんなんだって?急に外泊になって、心配していないかしら」

 その言葉で、私はすっかり頭の外だった父を思い出し、携帯電話の画面をつける。
 メッセージゼロ。着信ゼロ。落ち込みたくなどないのに、溜め息は漏れる。

「ないです。返答」
「まあ、ダメなお父さんねえ。娘が帰ってこないっていうのに」

 カチャカチャと皿を洗う手を止めた彼女は、その手をエプロンの裾で拭って、話し出す。

「乃亜ちゃん、うちにはいつでも来ていいんだからね。陸も楓も、乃亜ちゃんの家族みたいなものなんだから」

 食卓傍。棚の写真立てに目を移す彼女。

「私、乃亜ちゃんのお母さんと約束したのよ。乃亜ちゃんのこと、絶対守るねって」

 その写真立ての中には母の笑顔があった。何度もここへ遊びに来ているというのに、私は今の今まで、この笑顔に気付いていなかった。

「乃亜ちゃんのお母さんね、もう命が短いって知った時こう言ったの。『お父さんは遊び惚けていて、乃亜を大切にしてくれるかわからない。だから何かあった時はよろしくね』って」
「え……」
「亡くなる前、彼女がずーっと気にしてたのは乃亜ちゃんのこと。『こんなことになるなら、妹や弟産んであげればよかった』って。『乃亜をひとりにしちゃう自分は最低だ』って。ずっと泣いてたわ」

 その瞬間、カップの中にぽたんと垂れた雫。それはなんだろうと目で追えば、またぽたんとひと粒落ちた。

「だから乃亜ちゃん、たくさん頼って!」

 ティッシュを私に差し出した彼女は、そのまま自身の目元も拭った。

「ありがとう、おばさん……」

 彼女の愛が、心にじんわり浸透していく。生前残してくれた母の愛は、今こうして私に届く。


 大きな欠伸をしながらも、陸は私の家までついて来てくれた。

「親父さんいるよな。俺、マンションの外で待ってるわ。さすがに朝イチ一緒のとこ見られるのは気まずい」
「あははっ。じゃあ、急ぐから待ってて」

 そおっと玄関の扉を開ける。父の豪快な鼾が聞こえてくる。自室で今日の授業に必要なものを鞄に詰めて、また玄関へと向かう。
 誰も気にしない、心配されない。わかっていた。

 マンションの下。陸は柱を背もたれにして待っていた。携帯電話を弄るでもなく、雑誌を読むでもなく、ただただ遠くの青空を眺めていた。何もしていない陸。そんな彼を見るのは初めてかもしれない。

「お待たせっ」

 空と陸との間、私は笑顔で入り込む。

「おう。行くか」
「今日は六限まであるね」
「ああ、だるすぎる」

 ゆっくりと歩み始めた私達。しかしすぐさま立ち止まったのは陸だった。

「歴史日本漫ガタリ、貸すの忘れた」
「あ、本当だっ。借りる気満々だったのに~」
「まあまあ、また今度な」

 再びゆっくり歩む陸。朝陽と彼の背中。私はこの光景を、懐かしく感じていた。

「陸と一緒に登校するの、小学生以来?」
「かもなあ。って、なんで笑ってんの?」

 どうしてだか、嬉しくなる。

「なんでもなーいっ。うふふふふ」
「きも。こわ。やば」

「ひどい!」と言って、陸の尻を鞄で叩く。尻をさすった陸は言う。

「はいはい、早く学校行きまっせ」

 理不尽な私の暴力に、陸は怒ったことがない。それは、幼い頃からずっとそうだ。

「あれ?陸もちょっと、口元笑ってるよ」
「わ、笑ってねえし!」

 赤くなる陸の耳。可愛いと思った。


「わっ。そのふたりで登校とか珍しっ」

 人目憚らず、自転車で通学路を進む凛花。陸と私の横で速度を落とした彼女に言った。

「凛花ってばまた自転車通学っ。そろそろ見つかるよー」
「平気だって。ピャーって行けばバレないバレないっ。じゃねっ」

 途端に風を切る彼女。その背中に目を奪われていると、背後から肩を叩かれた。

「乃亜っ、陸っ」

 振り返ると、そこには息を切らせた勇太君がいた。

「おはよう勇太君。どうして急いでるの?まだチャイムまで余裕あるよ」

 淡い色のハンカチを取り出して、額の汗を拭う彼。

「乃亜が見えたから、ついっ。今日は陸と一緒に来たんだね。俺もいい?」

 そう言うと、彼は私の手を握る。陸は不快な呆れ顔。

「んだよ、朝から見せつけんなよ。俺先行くわあ」
「ちょ、陸っ」

 私の声など完全無視で、陸はスタスタ行ってしまった。

「気なんて使わなくていいのにね」

 そう呟いた勇太君に、私も「ね」と苦笑で返した。

「昨日の俺のメッセージ、見てくれた?」

 遠くで友達と合流した陸の姿を目にしていると、横からぬっと勇太君の顔が視界に入り込む。

「き、昨日?」
「うん。夜十時頃だったかな」

 昨晩十時の私は交番か陸の家か。どちらにせよ、恋人に伝えるような場所ではない。

「ご、ごめん。昨日は早くに寝ちゃってて」
「そうだったんだ。ならいいんだ」
「ごめん……」
「いいっていいって。急用じゃないし」

 ごめんともう一度言いかけた私は、一体何に対して謝りたいのだろうか。


「乃亜、寝過ぎっ」

 机にうつ伏せる私の頭頂部を、凛花はうちわの柄で小突く。

「もう放課後だよ。授業中ほとんど寝てたでしょっ。夜更かしでもしたの?」
「うんー……ちょっと女子会」

 こんな一日中やる気のない受験生を、同じクラスの勇太君はどう見ただろう。

 まだ眠い。帰ることすら面倒くさい。
 机からなかなか剥がれぬ己の頭に困っていると、ふいに呼ばれた名前。

「乃亜──」
「おい乃亜!」

 一瞬、勇太君の声がした気もしたが、ズズズと角度だけを変えた顔と共に目に映るは、扉付近にいた陸だった。

「なんなのよお。寝かせてよお」

 私はまた、瞳を閉じる。陸は私の目の前までやって来る。

「おい何してんだよ、学校終わったぞ」
「今日一日中こんな感じだよ~」

 凛花はまた、うちわで私を突つく。

「どうしようもねえなあ。おい乃亜、歴史日本漫ガタリ、今日うちにとりくるか?」

 そのタイトルは、私を覚醒させる魔法の呪文だ。ガタンと勢いよく椅子から立てた。

「行く!」


 陸の家の玄関前。その漫画を受け取れば、気分は高揚。

「ありがとう陸!読むの楽しみ!」

 ほんのり両耳を赤く染めた陸は言う。

「うちで読んでいけば?乃亜が家に帰りづらい日は、少しでも帰宅遅くしていけばいいじゃん。帰りは俺が送るし」

 何も聞かないくせして、私のことをちゃんと気にかけてくれている。心がぽっと温められる。

「じゃあそうしようかなっ。でも、読書の邪魔しない?」
「しねーよ、お前は素直じゃねえなあっ」

「もー」と嘆きながらも揃えたスリッパを差し出してくるから、本で顔を隠して笑った。

 漫画を読んでいるその間、陸は無言を貫いた。数十分後、私の方から話しかける。

「やばい。早く続きが読みたいんですけど」

 ゲーム中だった陸は、ポーズボタンを押す。

「まだ半年は新刊出ないぞ。続きが読めるのは、中学卒業してからかもなあ」
「遠い~」
「意外とすぐだよ、そんなの。乃亜は高校どこ行くか決めた?」
「迷ってる」
「どことどこで?」
「違くてっ。行くか行かないかでっ」

 私のその言葉に、陸は思い切り顔を顰めた。

「は?まじかよ、行かないつもり?」
「う~ん……どうしよっかなあ」

 再度開いた本へ目を落とし始めると、陸の声が歪んだ気がした。

「おい、ちゃんと答えろよ。どうすんの?」

 進学とか、未来とか、将来とか。そういった類の話は鳥肌が立つ。

「まだ決めなくていいじゃんそんなの。今二ターン目読んでるから、静かにしててよ」

 はあっと息をついて、壁にもたれて体育座り。膝の上でページを捲っていると、コントローラーを荒く放った陸が、その本を奪って言った。

「乃亜が高校に行くって言うまで、もう読ませない」

 私の目線でぶらぶらと、本を揺らす。

「か、返してよっ」

 咄嗟に伸ばした手はひょいと彼に容易く避けられ、空を切るだけ。

「だって何すんの。高校行かねーで働くの?お前の今後を言え」

 真剣な瞳を寄越されて、思わずたじろぐ。

「……それは考えてない、けど」
「じゃあ高校行けよ、心配かけんな」

 後ろは壁。ぐいと陸に距離を詰められれば逃げ場はなくなる。

「でも、べつにやりたいこととかないしっ」
「そんなのこれから見つければいいだろっ。高校在学中に将来の夢とか見つかるかもしれねえ。高校行っとけばよかったって、俺は乃亜に後から思って欲しくねえ」

 言い返す言葉を探す。陸を黙らせる、反撃のひとことを。

「高校、行く?」

 これ見よがしに、私の頭上で本を行き交わせる陸。私の性格を熟知した上での行動だ。

「い、行くよ、高校行く!だから返して!」

 がしっと陸の腕を掴んで動きを止めた。途端に不敵な笑みを浮かべた彼は言う。

「返せっていうか、俺のだから」

 二ターン目は、ちっとも頭に入らなかった。
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