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Stay and Good [氷の風紀委員長X平凡一般生徒←生徒会長]
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「──淳の言いつけ通り、いい子に”待て"、してたでしょう?」
衆人環視の中交わされたキスは、俺と奴との関係を一瞬で粉々に打ち砕いた。
そして後に残ったもの、それはいつの間にか傍にいることが当たり前になっていたその存在だった。
key : 風紀委員長 x 平凡だけど腕っ節は強い男 ←生徒会長 / 飼い主と飼い犬 / 裏切り / 横恋慕
※ ※ ※
「──よし、」
浮気と本気の境目はどこにあるのだろう。
彼氏、だと思っていた男の、オマエだけが大切なんだと今朝俺の耳元囁いたその唇が、少し離れたところで今まさに季節はずれの転校生であり、そしてまた生徒会にかかわる全ての生徒の心をいとも簡単に掴み、翻弄する見た目はただの野暮ったいだけの男のそれと重なろうとしていた。
周りからは嫉妬にも嬌声にも聞こえる甲高い声が挙がっている。
まるで女子のそれに似た声に、無意識にも眉間に力がこもるのが分かる。
ここは確か男子校だったような気がするとふと周りを見回して、やはり男しかいないことを確認して、そのやりきれなさにため息が漏れた。
──抱きたいだの、抱かれたいだののランキングに本気で踊らされている生徒が大半のこの学園で、男らしいだの女々しいだの考えることすら馬鹿らしい。
好きだと言われて、俺もだと返した。それが──今この終わりの瞬間へ向かう一歩目だったのかもしれない。
抱かれたいランキング2位、生徒会会長 宇笠 司。
一度も染めたことのない烏の羽のような黒髪に、同じぐらい黒々とした眼をもつ、誰もが振り返るいい男。
俺様な手腕は確かに敵も多かったけれど、それでもそいつらを黙らせるだけの鮮やかな手腕は、見事だとしかいいようがないものだった。
一族全てが政界入りするという筋金入りの政界一家に生まれたサラブレッド。持って生まれたその統率力は、やつの進む未来を鮮明に思い描かせた。
そしてそんなサラブレッドの横に3ヶ月もの間のうのうと居座り続けた──どこの馬の骨とも知れぬ男、それが俺だった。
宇笠と特別な関係になった次の日には、なぜかその関係は全校生徒の知るところとなっていた。
俺様専制君主の横に立つ、何のとりえもない一般生徒。
その日の朝は、寮から校舎までをまるで針の上を歩いているような気分で歩き、一日中見世物パンダになったかのような気分でイスに座り、放課後には人気の無い校舎裏で殴られかけ、とどめに夜は君主様の部屋に引きずり込まれた。
唯一誰にも咎められずに息ができたのは、部活の時間だけ。あとはどこへ行くにも何をするにも人目がついてまわり、そして時には襲われかける。
まったくついてない一日だった。そう思ってため息を吐いたその悪夢のようなローテーションが、まさか3ヶ月間ほぼ毎日のように続くとは思ってもみなかった。
幸いケンカには自信があった。だからなんとか殺されずにいられるようなものだった。
逃げ出したいと毎日思っていたけれど──宇笠のことが好きだったから、それでも必死に学園に喰らいついていた。
だがしかし、その俺の苦労が、まさかこんな形で報われるとは。
カフェテラスのど真ん中でキスする二人。それを囲んではやし立てる生徒ども。何もかもが馬鹿馬鹿しく思えて、──瞬き一度した後には、もう全てを捨てる決心がついた。
最後に一度殴ってから学園を去ろう。
暴力事件は理由如何を問わず、退学処分をくだすこの学園で、誰かを殴るというのは、つまり退学覚悟の行動だということだ。
けれどそれぐらいしても、許されるはずだろう?
知らぬ間に握り締めていたらしい手のひらに、爪が食い込んでじくじくと痛む。
そこから滴り落ちた雫が、まるで涙みたいだなんてセンチメンタルにもほどがある。
一歩踏み出した足。そのまま突き進むために前のめりになる体を押しとどめるかのように、尻ポケットに入れていたケータイが震える。けれどそんなものに気をとられている暇はない。
ざわりと揺れる空気に、ひどく凶暴な気分になる。
その気分に引きずられて口元が歪むのがわかる。宇笠が眼を見開いてこちらを見ている。
キスの余韻で湿った唇は、間抜けにもほんのわずかに開いていた。その横に宇笠にすがりつくようにして立ち、こちらを睨み付ける宇笠の次の相手。──なんという茶番。
「 」
宇笠が俺を呼んだ──気がした。
けれどその声は俺がやってきたときよりも、二人がキスを見せ付けていたときよりもでかい喚声にあっけなく飲み込まれた。
潮が音を立てて引くさまを見るように、人だかりが二つに割れて真ん中に道を作る。
その道を悠々と歩いてやってきたのは、この学園で不動の抱かれたいランキング1位を誇る風紀委員長、檜垣 黎だった。
鬣にも似た金の髪を風に遊ばせて、まるで王のごとき足取りでこちらへ近づいてくる檜垣。
その檜垣に右手を掴みあげられ、ぐいと後ろに引かれる。
硬質な雰囲気のする宇笠とは正反対の甘ったるい顔が、俺を覗き込む。そこに浮かぶ内心を読ませない表情に、俺は静かに唾を飲み込む。
視線は俺を捕らえたまま、檜垣は掴んでいた俺の右手を強引に開かせる。
そこには未だ血の止まらないままの傷がある。それを見て一瞬眉を顰めた檜垣は、けれどその後には見るもの全てを虜にする甘ったるい笑みを浮かべて、──その傷に、舌を這わせた。
ぐり、と先を尖らせた舌で傷口を抉られて、それほど大きくなかった傷が、ありがたいことにその深さを増したようだ。その証拠に流れる血が、確実に量を増している。
痛みにもがく俺を片腕でいとも簡単に押さえつける檜垣。背後から体ごと抱きこまれ、まわされた腕が、まるで檻のように俺の体を囲う。
「淳、おれもう結構我慢の限界なんだよね」
そう言って覗き込む色素の薄い眼はまるで、目の前にご馳走をちらつかされながらも、待てをコマンドされた犬のようだ。
「淳の言いつけ通り、いい子に”待て"、してたでしょう?」
今にも餌に頭から突っ込んでいきそうな、──もう一秒たりとも待てないと言わんばかりのその顔を見て、これが周りから修羅のごとく恐れられる天下の風紀委員様のする面かと、腹を抱えて笑い転げそうになった俺は、周りの状況も忘れてついうっかりそのコマンドを解除してしまった。
「そうだな。じゃあ、もう良いだろう」
"よし"
声が零れたのが早いか、はたまた檜垣が動いたのが早いか。
背後から俺を抱きこんだその姿勢のまま、──上から覆いかぶさるように口付けてくる檜垣。
ミルクを舐める犬のように、伸ばした舌を俺の口の中に突っ込み掻き回すその行動に、すっかり忘れていた辺りのギャラリーが一斉に悲鳴を上げた。
檜垣から思いを告げられたのは、俺と宇笠が関係をもってすぐのことだったから、かれこれ3ヶ月も前のことになる。
出会いはなんてことないことがきっかけだった。
家庭科部栄養研究会なんていう名前だけはたいそうな、それでいて部員はたった俺一人の廃部寸前の部活の、定例の栄養研究と題したただの夜飯作りのせいで、旧校舎の2階の廊下に充満していたしょうが焼きの匂い。それにつられた見回り途中の檜垣が、のこのこ部室へ乗り込んできたのが全ての始まりだった。
それまでの俺が持っていた檜垣のイメージは、誰にも懐かない血統書つきの犬。そんな感じだった。
甘い見た目と、それにつりあった甘い声。すらりと伸びた四肢に、明晰な頭脳。1年の2学期にはもう既に次期風紀委員長と噂されるほどの統率力と実力。
誰にでも薄い紅茶色した眼をゆるく眇め、尻尾を振って愛想を振りまいているようで、その実瞳の奥深くを凍てつかせたまま、緊張をはらんだまま日を暮らすその姿が、俺にはただひたすら飼い主の命令だけを忠実に守るよく訓練された犬のそれように見えた。
けれどもそんな風に感じていたのはどうやら俺だけだったらしく、まわりの檜垣の評価といえば、委員長の地位に驕ることなく誰も彼も平等に扱い、いつも甘い笑みを絶やさず、そしてまたいつ何時話しかけてもその笑みと同じだけの甘い声でやわらかく対応してくれる、公明正大なよく出来た男。生徒会長に並ぶ文句のつけようのない男、そんなところだった。
そして今回宇笠と全校生徒の前で堂々とキスをぶちかます転校生が学園にやってきたのもまた、俺と宇笠が関係を持ったのと丁度同時期だった。
今思い返せば、その頃は全くもって忙しい時期だった。
俺は宇笠との関係にあくせくし、学園は転校生が生徒会の役員を次々に惚れさせていくのに震撼し、檜垣はその生徒会が起こす不祥事に近い事態を解決するために風紀の仲間と共にあちこち奔走していた。
休む暇もなければ、ゆっくりと食事を取ることもままならないほど仕事に忙殺される日々を送っていた檜垣。
その日もランチを取り損ねたらしい檜垣が、廊下に充満する夜飯の匂いにつられてのこのこ部室に侵入してきたのは、まぁ仕方がなかったといえばそうなのかもしれない。
白飯とわかめサラダ、それにしょうが焼きとみそ汁。
俺が作ったなんてことない料理を、死ぬほどうまいといってほおばった檜垣は、まるでおあずけの解除された犬のようだった。
そしてその日を境に、檜垣は毎週水曜日と決めていた栄養研究の日──つまり俺が夜飯を作る日には必ず顔を出すようになり、そして水曜以外の日にもいつの間にか食材を持ち込み食べたいものをリクエストするようになり、気づけば宇笠と過ごす時間以外のほとんどの時間を、俺は檜垣と共にするようになっていた。
男を落とすには胃袋を掴むのが一番。
昔誰かが言ったその言葉通り、檜垣は出会って1ヶ月後に俺に好きだと告げた。
けれど俺はそのとき宇笠と付き合っていたし、宇笠に思いを寄せていた。だから檜垣の気持ちは、もちろん受け取れるはずもなかった。
悪い、とすぐさま断った俺に、あきらめるつもりはないと言って、その後も変わらず部室に息抜きがてらやってくる檜垣。
ウィットに富んだ檜垣との会話は俺を満足させ、初めは思いを断ったことに罪悪感を感じていた俺が、その気持ちをすっかり振り切りいつしか奴が部室を訪れる日を楽しみに待つようになったのは、ごくごく自然のなりゆきだった。
犬みたいだな、おまえ。
毛並みのいい、よく躾された犬が、行儀よく食事する。見えるはずのない尻尾がその後ろに見えた気がして、気づけばそう檜垣に向かって告げた俺に、じゃあ淳が俺の飼い主だね、と笑って答えた檜垣。
餌付けしたのは淳なんだから、最後までちゃんと面倒みてよね。
茶碗に山盛りよそった白飯をきれいに平らげて、にこにこ笑ったまま俺のコメカミに口付けた檜垣。くすぐったさに身をすくめた俺に気をよくした奴が、そのまま唇にも同じことをしようとしているのに気づいて、まてをコマンドしたのはいったいどれぐらい前のことだっただろうか。
それからも戯れにキスしようとする檜垣に、唇以外ならと許して、それでもそこだけは宇笠が大切だからとまてのコマンドを続けた俺。飼い犬はつらいよね、としょんぼり尻尾を力なく振る檜垣に、嫌なら他の家の子になってもいいんだぞと、悪戯のように笑って告げれば、奴はやだやだ捨てないでと、天下の風紀委員長形無しの、今にも泣きそうな顔で体に抱きついてきた。
あの時泣きそうにゆがんでいた眼が、今は満面の笑みを象っている。
「淳」
溺れそうなぐらい執拗なキス。その合間に縋るように俺の名を呼ぶ檜垣。後ろから抱き込まれた無理な体勢のまま、檜垣の髪をくしゃくしゃかき混ぜてやると、それに気をよくしたのか、檜垣がさらに強く唇を押し付けてくる。
「「──淳」」
雨のようなキス。その中で再び呼ばれた俺の名。
呼んだ一人は檜垣。
そしてもう一人は、
「おれの淳の名前、気安く呼ばないでくれる?宇笠」
少し前に過去になった、男。
「どういう、つもりだ、淳」
宇笠が何か言っている気がするが、檜垣のキスに気を取られてきちんと聞き取りきれない。
いい加減にやめろと、かき混ぜていた手を止め、そのまま髪を引っ張って引き剥がす俺に、いやいやをするように鼻先を俺の首筋にこすりつける檜垣。
「答えろ、淳。一体どういうつもりなんだ」
いつの間にか目の前まで来ていたらしい宇笠。その右腕には、相変わらずの転校生がぶら下がっている。
「それはこっちのセリフだ」
背後に檜垣をくっつけたまま、宇笠に視線をやる。先ほど感じた燃えるような怒りは、檜垣のおかげでだいぶおさまっている。
今感じるのは、目の前に立つこの男は最早赤の他人でしかないという、ただそれだけのシンプルな気持ち。
「お前が好きだったよ、宇笠。今までどうもありがとな」
さよなら。
好きだったと告げたときに、びくりと体を震わせた檜垣。それをなだめるようにまた頭を撫でてやると、こらえ切れないというように、俺の首を吸い上げ跡を残す。
「俺は別れるつもりなんてない。それにお前は俺のものだろう、淳」
パンと乾いた音を立てて、檜垣の頭を撫でていた俺の手を掴みあげる宇笠。
掴んだ俺の指先にゆっくり唇を寄せるその姿が、スローモーションのように視界に映る。
「寝言は寝てから言いなよ、宇笠」
ぐいと体ごと引っ張って強引に宇笠の手から俺の指を引っこ抜く檜垣のその声は、氷のようにつめたい。
「お前は淳を裏切った。宇笠がいるからおれの気持ちには答えられないって言って、ずっとずっとお前を信じ続けた淳を、お前はいとも簡単に切り捨てただろう?」
そのときからもう淳はお前のものじゃなくて、俺の大切な人になったんだよ。
「分かる?お前は淳を切って、信じがたいくらい愚かな道を選んだんだ」
「お前はせいぜいそいつとよろしくやってな」
俺はこれから淳にめいっぱい甘やかしてもらうからさ。
ぎゅうぎゅう力いっぱいに抱きしめてくる檜垣。
そんな檜垣がどうしようもないほどかわいく思えてくる俺は、もはや末期だろう。
「ね、淳?」
目の前で唇をきつく噛み締める宇笠。その横で俺を燃えるような瞳で睨み付ける転校生。
「そうだな」
それを全て振り切って、俺は俺を抱きしめる檜垣の鼻の頭にゆっくりと唇を寄せた。
俺たちを遠巻きに囲む生徒たちが、あの檜垣委員長がたった一人を特別にするなんて、だとか、宇笠会長を捨てるなんて、だとか、いろいろ好き勝手にはやし立てている。
けれどそんな周りを露とも気にせず、檜垣は保健室行って手当てしよう、と俺の手を引き、その輪から抜け出そうとする。
ねぇ。
檜垣が甘い声で一声呼ぶと、いつの間にか傍に来ていたらしい風紀の連中が、はい、とすばやい返事を返す。
「あとはよろしくね」
そういい残し場を後にする檜垣に頭を下げて応えたメンバーは、集まっていた生徒たちを見事な手腕で片付けていく。
「じゃ、いこ、淳」
俺をまっすぐに見つめて甘い紅茶色の瞳に笑みを浮かす檜垣。そこに凍りついた色は、ない。
あるのはひたむきに飼い主を慕う、熱だけだ。
衆人環視の中交わされたキスは、俺と奴との関係を一瞬で粉々に打ち砕いた。
そして後に残ったもの、それはいつの間にか傍にいることが当たり前になっていたその存在だった。
key : 風紀委員長 x 平凡だけど腕っ節は強い男 ←生徒会長 / 飼い主と飼い犬 / 裏切り / 横恋慕
※ ※ ※
「──よし、」
浮気と本気の境目はどこにあるのだろう。
彼氏、だと思っていた男の、オマエだけが大切なんだと今朝俺の耳元囁いたその唇が、少し離れたところで今まさに季節はずれの転校生であり、そしてまた生徒会にかかわる全ての生徒の心をいとも簡単に掴み、翻弄する見た目はただの野暮ったいだけの男のそれと重なろうとしていた。
周りからは嫉妬にも嬌声にも聞こえる甲高い声が挙がっている。
まるで女子のそれに似た声に、無意識にも眉間に力がこもるのが分かる。
ここは確か男子校だったような気がするとふと周りを見回して、やはり男しかいないことを確認して、そのやりきれなさにため息が漏れた。
──抱きたいだの、抱かれたいだののランキングに本気で踊らされている生徒が大半のこの学園で、男らしいだの女々しいだの考えることすら馬鹿らしい。
好きだと言われて、俺もだと返した。それが──今この終わりの瞬間へ向かう一歩目だったのかもしれない。
抱かれたいランキング2位、生徒会会長 宇笠 司。
一度も染めたことのない烏の羽のような黒髪に、同じぐらい黒々とした眼をもつ、誰もが振り返るいい男。
俺様な手腕は確かに敵も多かったけれど、それでもそいつらを黙らせるだけの鮮やかな手腕は、見事だとしかいいようがないものだった。
一族全てが政界入りするという筋金入りの政界一家に生まれたサラブレッド。持って生まれたその統率力は、やつの進む未来を鮮明に思い描かせた。
そしてそんなサラブレッドの横に3ヶ月もの間のうのうと居座り続けた──どこの馬の骨とも知れぬ男、それが俺だった。
宇笠と特別な関係になった次の日には、なぜかその関係は全校生徒の知るところとなっていた。
俺様専制君主の横に立つ、何のとりえもない一般生徒。
その日の朝は、寮から校舎までをまるで針の上を歩いているような気分で歩き、一日中見世物パンダになったかのような気分でイスに座り、放課後には人気の無い校舎裏で殴られかけ、とどめに夜は君主様の部屋に引きずり込まれた。
唯一誰にも咎められずに息ができたのは、部活の時間だけ。あとはどこへ行くにも何をするにも人目がついてまわり、そして時には襲われかける。
まったくついてない一日だった。そう思ってため息を吐いたその悪夢のようなローテーションが、まさか3ヶ月間ほぼ毎日のように続くとは思ってもみなかった。
幸いケンカには自信があった。だからなんとか殺されずにいられるようなものだった。
逃げ出したいと毎日思っていたけれど──宇笠のことが好きだったから、それでも必死に学園に喰らいついていた。
だがしかし、その俺の苦労が、まさかこんな形で報われるとは。
カフェテラスのど真ん中でキスする二人。それを囲んではやし立てる生徒ども。何もかもが馬鹿馬鹿しく思えて、──瞬き一度した後には、もう全てを捨てる決心がついた。
最後に一度殴ってから学園を去ろう。
暴力事件は理由如何を問わず、退学処分をくだすこの学園で、誰かを殴るというのは、つまり退学覚悟の行動だということだ。
けれどそれぐらいしても、許されるはずだろう?
知らぬ間に握り締めていたらしい手のひらに、爪が食い込んでじくじくと痛む。
そこから滴り落ちた雫が、まるで涙みたいだなんてセンチメンタルにもほどがある。
一歩踏み出した足。そのまま突き進むために前のめりになる体を押しとどめるかのように、尻ポケットに入れていたケータイが震える。けれどそんなものに気をとられている暇はない。
ざわりと揺れる空気に、ひどく凶暴な気分になる。
その気分に引きずられて口元が歪むのがわかる。宇笠が眼を見開いてこちらを見ている。
キスの余韻で湿った唇は、間抜けにもほんのわずかに開いていた。その横に宇笠にすがりつくようにして立ち、こちらを睨み付ける宇笠の次の相手。──なんという茶番。
「 」
宇笠が俺を呼んだ──気がした。
けれどその声は俺がやってきたときよりも、二人がキスを見せ付けていたときよりもでかい喚声にあっけなく飲み込まれた。
潮が音を立てて引くさまを見るように、人だかりが二つに割れて真ん中に道を作る。
その道を悠々と歩いてやってきたのは、この学園で不動の抱かれたいランキング1位を誇る風紀委員長、檜垣 黎だった。
鬣にも似た金の髪を風に遊ばせて、まるで王のごとき足取りでこちらへ近づいてくる檜垣。
その檜垣に右手を掴みあげられ、ぐいと後ろに引かれる。
硬質な雰囲気のする宇笠とは正反対の甘ったるい顔が、俺を覗き込む。そこに浮かぶ内心を読ませない表情に、俺は静かに唾を飲み込む。
視線は俺を捕らえたまま、檜垣は掴んでいた俺の右手を強引に開かせる。
そこには未だ血の止まらないままの傷がある。それを見て一瞬眉を顰めた檜垣は、けれどその後には見るもの全てを虜にする甘ったるい笑みを浮かべて、──その傷に、舌を這わせた。
ぐり、と先を尖らせた舌で傷口を抉られて、それほど大きくなかった傷が、ありがたいことにその深さを増したようだ。その証拠に流れる血が、確実に量を増している。
痛みにもがく俺を片腕でいとも簡単に押さえつける檜垣。背後から体ごと抱きこまれ、まわされた腕が、まるで檻のように俺の体を囲う。
「淳、おれもう結構我慢の限界なんだよね」
そう言って覗き込む色素の薄い眼はまるで、目の前にご馳走をちらつかされながらも、待てをコマンドされた犬のようだ。
「淳の言いつけ通り、いい子に”待て"、してたでしょう?」
今にも餌に頭から突っ込んでいきそうな、──もう一秒たりとも待てないと言わんばかりのその顔を見て、これが周りから修羅のごとく恐れられる天下の風紀委員様のする面かと、腹を抱えて笑い転げそうになった俺は、周りの状況も忘れてついうっかりそのコマンドを解除してしまった。
「そうだな。じゃあ、もう良いだろう」
"よし"
声が零れたのが早いか、はたまた檜垣が動いたのが早いか。
背後から俺を抱きこんだその姿勢のまま、──上から覆いかぶさるように口付けてくる檜垣。
ミルクを舐める犬のように、伸ばした舌を俺の口の中に突っ込み掻き回すその行動に、すっかり忘れていた辺りのギャラリーが一斉に悲鳴を上げた。
檜垣から思いを告げられたのは、俺と宇笠が関係をもってすぐのことだったから、かれこれ3ヶ月も前のことになる。
出会いはなんてことないことがきっかけだった。
家庭科部栄養研究会なんていう名前だけはたいそうな、それでいて部員はたった俺一人の廃部寸前の部活の、定例の栄養研究と題したただの夜飯作りのせいで、旧校舎の2階の廊下に充満していたしょうが焼きの匂い。それにつられた見回り途中の檜垣が、のこのこ部室へ乗り込んできたのが全ての始まりだった。
それまでの俺が持っていた檜垣のイメージは、誰にも懐かない血統書つきの犬。そんな感じだった。
甘い見た目と、それにつりあった甘い声。すらりと伸びた四肢に、明晰な頭脳。1年の2学期にはもう既に次期風紀委員長と噂されるほどの統率力と実力。
誰にでも薄い紅茶色した眼をゆるく眇め、尻尾を振って愛想を振りまいているようで、その実瞳の奥深くを凍てつかせたまま、緊張をはらんだまま日を暮らすその姿が、俺にはただひたすら飼い主の命令だけを忠実に守るよく訓練された犬のそれように見えた。
けれどもそんな風に感じていたのはどうやら俺だけだったらしく、まわりの檜垣の評価といえば、委員長の地位に驕ることなく誰も彼も平等に扱い、いつも甘い笑みを絶やさず、そしてまたいつ何時話しかけてもその笑みと同じだけの甘い声でやわらかく対応してくれる、公明正大なよく出来た男。生徒会長に並ぶ文句のつけようのない男、そんなところだった。
そして今回宇笠と全校生徒の前で堂々とキスをぶちかます転校生が学園にやってきたのもまた、俺と宇笠が関係を持ったのと丁度同時期だった。
今思い返せば、その頃は全くもって忙しい時期だった。
俺は宇笠との関係にあくせくし、学園は転校生が生徒会の役員を次々に惚れさせていくのに震撼し、檜垣はその生徒会が起こす不祥事に近い事態を解決するために風紀の仲間と共にあちこち奔走していた。
休む暇もなければ、ゆっくりと食事を取ることもままならないほど仕事に忙殺される日々を送っていた檜垣。
その日もランチを取り損ねたらしい檜垣が、廊下に充満する夜飯の匂いにつられてのこのこ部室に侵入してきたのは、まぁ仕方がなかったといえばそうなのかもしれない。
白飯とわかめサラダ、それにしょうが焼きとみそ汁。
俺が作ったなんてことない料理を、死ぬほどうまいといってほおばった檜垣は、まるでおあずけの解除された犬のようだった。
そしてその日を境に、檜垣は毎週水曜日と決めていた栄養研究の日──つまり俺が夜飯を作る日には必ず顔を出すようになり、そして水曜以外の日にもいつの間にか食材を持ち込み食べたいものをリクエストするようになり、気づけば宇笠と過ごす時間以外のほとんどの時間を、俺は檜垣と共にするようになっていた。
男を落とすには胃袋を掴むのが一番。
昔誰かが言ったその言葉通り、檜垣は出会って1ヶ月後に俺に好きだと告げた。
けれど俺はそのとき宇笠と付き合っていたし、宇笠に思いを寄せていた。だから檜垣の気持ちは、もちろん受け取れるはずもなかった。
悪い、とすぐさま断った俺に、あきらめるつもりはないと言って、その後も変わらず部室に息抜きがてらやってくる檜垣。
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犬みたいだな、おまえ。
毛並みのいい、よく躾された犬が、行儀よく食事する。見えるはずのない尻尾がその後ろに見えた気がして、気づけばそう檜垣に向かって告げた俺に、じゃあ淳が俺の飼い主だね、と笑って答えた檜垣。
餌付けしたのは淳なんだから、最後までちゃんと面倒みてよね。
茶碗に山盛りよそった白飯をきれいに平らげて、にこにこ笑ったまま俺のコメカミに口付けた檜垣。くすぐったさに身をすくめた俺に気をよくした奴が、そのまま唇にも同じことをしようとしているのに気づいて、まてをコマンドしたのはいったいどれぐらい前のことだっただろうか。
それからも戯れにキスしようとする檜垣に、唇以外ならと許して、それでもそこだけは宇笠が大切だからとまてのコマンドを続けた俺。飼い犬はつらいよね、としょんぼり尻尾を力なく振る檜垣に、嫌なら他の家の子になってもいいんだぞと、悪戯のように笑って告げれば、奴はやだやだ捨てないでと、天下の風紀委員長形無しの、今にも泣きそうな顔で体に抱きついてきた。
あの時泣きそうにゆがんでいた眼が、今は満面の笑みを象っている。
「淳」
溺れそうなぐらい執拗なキス。その合間に縋るように俺の名を呼ぶ檜垣。後ろから抱き込まれた無理な体勢のまま、檜垣の髪をくしゃくしゃかき混ぜてやると、それに気をよくしたのか、檜垣がさらに強く唇を押し付けてくる。
「「──淳」」
雨のようなキス。その中で再び呼ばれた俺の名。
呼んだ一人は檜垣。
そしてもう一人は、
「おれの淳の名前、気安く呼ばないでくれる?宇笠」
少し前に過去になった、男。
「どういう、つもりだ、淳」
宇笠が何か言っている気がするが、檜垣のキスに気を取られてきちんと聞き取りきれない。
いい加減にやめろと、かき混ぜていた手を止め、そのまま髪を引っ張って引き剥がす俺に、いやいやをするように鼻先を俺の首筋にこすりつける檜垣。
「答えろ、淳。一体どういうつもりなんだ」
いつの間にか目の前まで来ていたらしい宇笠。その右腕には、相変わらずの転校生がぶら下がっている。
「それはこっちのセリフだ」
背後に檜垣をくっつけたまま、宇笠に視線をやる。先ほど感じた燃えるような怒りは、檜垣のおかげでだいぶおさまっている。
今感じるのは、目の前に立つこの男は最早赤の他人でしかないという、ただそれだけのシンプルな気持ち。
「お前が好きだったよ、宇笠。今までどうもありがとな」
さよなら。
好きだったと告げたときに、びくりと体を震わせた檜垣。それをなだめるようにまた頭を撫でてやると、こらえ切れないというように、俺の首を吸い上げ跡を残す。
「俺は別れるつもりなんてない。それにお前は俺のものだろう、淳」
パンと乾いた音を立てて、檜垣の頭を撫でていた俺の手を掴みあげる宇笠。
掴んだ俺の指先にゆっくり唇を寄せるその姿が、スローモーションのように視界に映る。
「寝言は寝てから言いなよ、宇笠」
ぐいと体ごと引っ張って強引に宇笠の手から俺の指を引っこ抜く檜垣のその声は、氷のようにつめたい。
「お前は淳を裏切った。宇笠がいるからおれの気持ちには答えられないって言って、ずっとずっとお前を信じ続けた淳を、お前はいとも簡単に切り捨てただろう?」
そのときからもう淳はお前のものじゃなくて、俺の大切な人になったんだよ。
「分かる?お前は淳を切って、信じがたいくらい愚かな道を選んだんだ」
「お前はせいぜいそいつとよろしくやってな」
俺はこれから淳にめいっぱい甘やかしてもらうからさ。
ぎゅうぎゅう力いっぱいに抱きしめてくる檜垣。
そんな檜垣がどうしようもないほどかわいく思えてくる俺は、もはや末期だろう。
「ね、淳?」
目の前で唇をきつく噛み締める宇笠。その横で俺を燃えるような瞳で睨み付ける転校生。
「そうだな」
それを全て振り切って、俺は俺を抱きしめる檜垣の鼻の頭にゆっくりと唇を寄せた。
俺たちを遠巻きに囲む生徒たちが、あの檜垣委員長がたった一人を特別にするなんて、だとか、宇笠会長を捨てるなんて、だとか、いろいろ好き勝手にはやし立てている。
けれどそんな周りを露とも気にせず、檜垣は保健室行って手当てしよう、と俺の手を引き、その輪から抜け出そうとする。
ねぇ。
檜垣が甘い声で一声呼ぶと、いつの間にか傍に来ていたらしい風紀の連中が、はい、とすばやい返事を返す。
「あとはよろしくね」
そういい残し場を後にする檜垣に頭を下げて応えたメンバーは、集まっていた生徒たちを見事な手腕で片付けていく。
「じゃ、いこ、淳」
俺をまっすぐに見つめて甘い紅茶色の瞳に笑みを浮かす檜垣。そこに凍りついた色は、ない。
あるのはひたむきに飼い主を慕う、熱だけだ。
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2×××年、同性の友人同士で結婚する『親友婚』が大ブームになった世界の話。 主人公(受け)の“瞬介”は家族の罠に嵌められ、幼馴染のハイスペイケメン“彗”と半ば強制的に結婚させられてしまう。
受けは攻めのことをずっとただの幼馴染だと思っていたが、結婚を機に少しずつ特別な感情を抱くようになっていく。
美形気だるげ系攻め×平凡真面目世話焼き受けのほのぼのBL。
漫画作品もございます。
【doll】僕らの記念日に本命と浮気なんてしないでよ
月夜の晩に
BL
平凡な主人公には、不釣り合いなカッコいい彼氏がいた。
しかしある時、彼氏が過去に付き合えなかった地元の本命の身代わりとして、自分は選ばれただけだったと知る。
それでも良いと言い聞かせていたのに、本命の子が浪人を経て上京・彼氏を頼る様になって…
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