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序章
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午前零時——田舎という事もあり夜の町は人がほとんどおらず、誰にも見つからずに出歩けるのは湊にとって好都合であった。喫茶店から歩いて十五分程の人がいない路地裏に入り、道の途中に目立たないように貼った一枚の札を確認する。怪禍に対して反応するように作られたその札には、湊の期待に反して、一切の変化が見られなかった。
「やっぱり、何も起きるわけなんて無いか……」
その後、同様の仕掛けを施した場所を幾つか廻ってみるも反応は見られず、湊は落胆した。
(……今日も、収穫無しか。まぁ、平和に越した事はないけどさ)
理由も無くこうしてパトロールの真似事をしていても、無駄な事は湊にも分かっていた。しかし、何もしないで普通に暮らしていく事にも納得出来ず、結果として御霊使でも普通の高校生でもない、中途半端な立場で日々を過ごしているが、それが果たして正しいのかは分からない。ただ、漠然とではあるが御霊使と怪禍という世界から逃げてはならない、そんな思いだけが湊の心には残っていた。そして、自分が大切な事を忘れていることにも気付かないまま……。
「さて、次で最後だ」
小さな町ではあるが、大部分をカバーするように仕掛けた札を全て確認するのには少し時間が掛かり、最後の場所に着いた頃には午前一時半になろうとしていた。そして、いつものように札を確認すると、
「……! これって……!」
微かにではあるが、その札は確かに怪禍の反応を示していた。この町に来て一年、初めての出来事である。その瞬間、緊張か、はたまた高揚か湊の鼓動が高鳴る。
「よし……!」
この札にしか反応が無かったという事は、恐らくまだ近くにいるはずである。湊は気合いを入れる為に自分の両の頬を叩き、神経を研ぎ澄まして走り出すと、すぐにその気配が感じ取れ始めた。そして、徐々に大きくなる気配の主の姿を目で捉えた。
(あれは……蜘蛛か?)
その怪禍の正体は、体長一メートル程の大きな蜘蛛であった。何かを探すようにして辺りをふらついており、幸いまだこちらに気付いている様子は無かった。湊は一つ深呼吸をして、腰に付けたホルダーから戦闘用に使う札を取り出し、攻める機会を伺いながらゆっくりと近づく。
(くそっ! このままじゃ、まずいな……)
だが、その機会が訪れる前に問題が起きた。暗がりで視界が悪い中、蜘蛛の進もうとしているその先に、人らしき影が見えたのだ。本来であるならば、怪禍と交戦する前は一般人を巻き込まないようにする為に、結界を用意しておくべきであったが、まさかこんな夜遅くに出歩く人が居ると湊は思っていなかった。人にバレないように仕留めようにも、相手がどんな力を持っているか分からない現状では、安易に動くわけにはいかない。だが、ここでこの怪禍を倒すチャンスを逃してもいいのだろうかと、湊は悩んだ。
「まずは、安全確保が優先だ!」
湊は悩んだ末、一先ずはその人を安全な場所へ避難させる為に駆け出した。
「あの! ちょっとここは危な——」
「……これが、目的の奴? 思ったより、小さいわね」
湊の声を気にする事なく、その人影は独り言のように呟くと、
「散りなさい! 壱式『焔』」
手にした刀が火を纏いながら蜘蛛を切り裂き、次の瞬間には目も眩むほどの炎が舞い上がり、そのまま蜘蛛を燃やし尽くした。今この場で起きた、一瞬の出来事に湊は言葉を失っていた。
「ちょっと、アンタ。こんな時間に出歩くなんて……死にたいの?」
ようやく湊の姿に気付いたその人物は、蜘蛛を裂いた刀を鞘に納めながら冷たい口調で告げた。その聞き覚えのある声と態度をする人の正体は、雲の切れ間から差し込んだ月の光によって明らかになった。
「さっきの……」
それは、夕方頃に喫茶店を訪れていた少女であった。湊は、まさかの人物に驚きを隠しきれなかったが、少女の方はなおも冷たい口調で言葉を続ける。
「聞こえなかったの? まぁ、何も分からないとは思うけど、とにかくこの辺は危ないから。さっさと家に帰りなさい」
どうやら、湊を一般人だと思っているようであった。口調は荒いが、もしかして心配をしてくれているのでは感じ、湊は少し安心して落ち着きを取り戻した。
「いや……オレも、今の蜘蛛を追ってたんだ。だから、まぁ助かったよ」
そして、同じように怪禍と戦う者である事に親近感を覚え、一応のお礼を述べた。
「……え?」
そんな湊の言葉に対して、少女は同じように親近感を覚える事は無く、反対に警戒心を強めて先程納めた刀の柄に再び手を付けた。
「アンタ、どう見ても学生よね……? 所属は? それに、誰の許可でそんな事をしてるの?」
「え? いや、所属って……普通の高校生ですけれど。それに、許可? って何の——」
少女からの矢継ぎ早の質問に答え終わる前に、湊の首筋には刀が突き付けられていた。
「この町に私以外の御霊使がいるなんて情報、聞いてない。もう一度だけ聞くわ。アンタは何者?」
何が起きているかも分からず、一方的に責められている状況に対して、
(流石に、怪我させない程度の符術にしておかないとな……)
湊も危機感を覚え、バレないようにゆっくりと腰の札に手を付けて臨戦態勢に入った。
「はいはい、お二人さん。そこまでだよー」
一触即発の状況を打破したのは、にやけた顔と気の抜けた声であった。その声がしたかと思えば、二人が対応する隙も無く、一瞬にして少女の刀を持つ手と、札に手を掛けようとしていた湊の手は抑えられていた。
(龍二さん……?)
声の主は、喫茶店にいたはずの龍二であった。当然、湊はこの場を治めようとしてくれているのを分かっていたが、少女の方はさらに怪しい人物、しかもそれが自分よりも圧倒的に格上の存在が現れた事に焦り、すぐさま掴まれた腕を振りほどいて龍二の方に向け刀を構え直した。
「いやー、人同士で争うのは良くないと思うんだよ。ね、綾瀬のお嬢ちゃん」
殺気すら感じる少女の敵意を前にしても、龍二は依然として態度を崩すことなく妙に軽い口調で語り掛ける。途中、名前らしき言葉が聞き取れた事から、その少女が何者なのかは知っているようであった。
「……私を、知っているんですか? まさか!」
「そうそう、そゆこと。まぁ、こんな所で立ち話も何だしね。一緒にお茶でもしようか、灰奈ちゃん。あぁ、もちろん湊も来るんだよ」
「え、いや……オレにもちゃんと説明してくださいよ龍二さん! ちょっと!」
一向に状況を飲み込めていない湊は龍二に引きずられながら、三人は喫茶店へと戻っていった。
「……それで、今度こそちゃんと説明してもらっていいですか?」
喫茶店に戻る道中でも、龍二は大した説明をしてくれなかった。湊が得た情報といえば、この少女——綾瀬灰奈の名前ただ一つであった。
「えー、めんどくさいな……じゃあ、灰奈ちゃん。もっかい説明してもらっていい?」
「はい。承知致しました!」
先程までの不愛想な態度とは異なり、龍二に対しては畏敬の念で接している事に、湊は釈然としない様子ながらも、カウンター席の隣に座った灰奈から現状についての説明に耳を傾ける。
「先日、この町よりそう遠くない場所にて怪禍が出現。大した規模では無く、現場近くの御霊使方が祓にあたったのですが、原因不明の事故によって怪禍を取り逃がしてしまったそうです。そして、その逃走経路を幾つか算出した結果、僅かながらもこの地に逃げ込んだ可能性があるという結論に達しました。ですが、より可能性が高い場所に多くの人員を確保した結果、人員不足となり、私のような見習いの学生にも、研修任務として派遣が命じられました。その際、先生も同行する予定だったのですが、都合が悪く出られないという事なので、松田龍二さん、貴方に代わりの監督役を引き継いでおくと先生に聞かされ、私はこの町に来ました」
湊は、聞きなれない単語や状況を聞き取るのに精一杯であった。だが、その情報を整理していく中で一つの疑問が生まれた。
「あれ? でも、龍二さん。来客の予定は無いって……」
「……まぁ、うっかり。ってやつかな。いやでもね、今時そんな大事な話を手紙で寄越すあの子もどうかと思うんだよね。もう立派な先生なのにさぁ、アナログ趣味な所は変わってないみたいで悲しいよ」
やれやれといった様子で、さらっと他人のせいにする龍二の口ぶりから、どうやら灰奈の先生とは面識があるようで、湊はようやく灰奈が探していた人物が本当に龍二である事を察した。と、同時に普段の少しいい加減な振る舞いのこの人で大丈夫なのだろうかと、懐疑的でもあったがそれを口にはしなかった。
「それにしても、驚きました。まさか、あの松田龍二さんにご子息がいらっしゃったなんて。でも、そういう事なら、少し納得出来ました」
報告が一通り終わった頃、灰奈がふと口にした。
「ん? いや、湊は——」
「違う! ……龍二さんは、父さんなんかじゃないです」
龍二が言い終えるよりも前に、湊がその言葉を強く否定した。
「湊……そうか、そうだよな。どちらかと言えば、お兄さんだもんな!」
それを都合よく解釈した龍二は、カウンターから身を乗り出しながら湊を抱きしめた。その光景に驚く灰奈を一切気にする事も無く。
「ちょっ……龍二さん! 酒臭いですってば! もう、オレ帰りますよ。綾瀬さんも、あんまり遅くならないように帰してあげて下さいね」
湊は、照れ隠しの為に溜息と悪態をつき、これ以上自分がこの場にいる必要は無いと判断をして、逃げるように店を後にする事にした。
「……少し、意外です。あの松田龍二さんがこのような人でしたなんて」
湊が帰った後の店内で僅かの沈黙の破り、残された灰奈が口を開いた。
「そんなに、かしこまらなくていいよ。気軽に龍二さんって呼んでくれて構わないから。でも、そんなに意外かな、俺って」
「はい……話に聞いてた方とは、その、あまりにもかけ離れていたので」
「そっか。まぁ、確かにあんまり良くは思われてないかな……色んな所からさ」
自虐的な言葉とは裏腹に、龍二は軽い口調と笑顔を崩す事は無かった。
「……いえ。悪い話ではなく、もっと厳しい人だと伺っていたので」
「湊の事かい?」
心の中で思っていた事を言い当てられ、少し恐れ多くも灰奈は頷いた。
「……もし、アイツが俺の息子だったら、とっくに一人前の御霊使になってるか、こっちの世界とはかけ離れた場所で生きてたさ」
「それは……どういう意味ですか?」
「俺は、湊に一切の指導も助言もしてない。アイツ自身もそれを望んで無いからね」
「それじゃあ、どうしてあんな事を?」
灰奈の言う『あんな事』とは、夜に湊が一人でパトロールをしているのを示していた。これは、彼女にとっては当然の疑問である。本来、安全面と治安維持の観点から、御霊使がその活動を行うには正式な免許が必要であり、それが無い場合は必ず監督の御霊使が付かなくてはならない決まりになっていたからだ。そして、もう一つ。龍二が指導をしていないのなら、湊という少年は一体何処で怪禍と戦う術を学んだのか、灰奈にはそれが不思議でならなかった。
「それは、俺の口から話すべき事じゃないな。でも灰奈ちゃんが、どうしても気になるなら一つ提案があるんだけど——」
この時、にやけた顔で話をする龍二に対して、灰奈は疑念を抱かなかった。その結果、上手く言いくるめられてしまい、ある仕事を引き受ける事になった。そして彼女は、松田龍二という人間の厄介さを後に知る事となる。
「……ただいま」
午前四時——いつもより遅い帰宅となった湊は、小さな声で呟きながら玄関の扉を開けた。
「おかえりなさい、お兄様!」
「こんな時間まで起きてたのか、海穏」
「はい! お兄様が心配で待っておりました。アルバイトとはいえ、あまり頑張りすぎないで下さいね」
喫茶店のアルバイトで帰りが遅くなっている、そんな無茶な言い訳を疑う事も無く出迎えた少女——海穏は湊の妹である。というのは、実家を出て龍二に引き取られる際に共に来る事になった、この少女が自称した嘘である。さすがに湊も本当の妹でない事には気付いていた。
「いかがされました、お兄様?」
海穏は、自分をじっと見つめる湊の顔を不思議そうに覗き込んだ。
「……いや、何でもないよ」
淡い水色がかった少し長めの髪に、深い蒼の眼。傍から見れば小学生としか思えぬ体格、現代の子供に似つかわしくない小袖を纏った姿を見て、一体誰が妹と信じるだろうか。そう思った湊は、妹の存在こそ教えても、なるべく他人に会わせる事をしていなかった。
(ほんとに、よくできた式神だよな……)
だが、その正体に心当たりがあった。式神——神様の霊を使役するという御霊使の用いる術の一つであり、恐らくは父親が残してくれたものだろうと、湊は考えていた。
「大方、座敷童衆ってとこかな……」
「……?」
「何でも無いよ、明日も学校だからもう寝るよ。じゃ、おやすみ」
湊はそう言うと、海穏の頭を撫でてやってから自分の寝室へと向かった。この歪な暮らしに思うところはあるが、一人きりで居るよりはずっと気持ちが楽であり、それが少なからず心の支えになっている事は間違い。だからこそ、自分を慕ってくれる『妹』の偽りの兄を演じるのも嫌ではなかった。そして、激動の五日間が既に始まろうとしている事を知る由も無く、湊は眠りに就いた。
「やっぱり、何も起きるわけなんて無いか……」
その後、同様の仕掛けを施した場所を幾つか廻ってみるも反応は見られず、湊は落胆した。
(……今日も、収穫無しか。まぁ、平和に越した事はないけどさ)
理由も無くこうしてパトロールの真似事をしていても、無駄な事は湊にも分かっていた。しかし、何もしないで普通に暮らしていく事にも納得出来ず、結果として御霊使でも普通の高校生でもない、中途半端な立場で日々を過ごしているが、それが果たして正しいのかは分からない。ただ、漠然とではあるが御霊使と怪禍という世界から逃げてはならない、そんな思いだけが湊の心には残っていた。そして、自分が大切な事を忘れていることにも気付かないまま……。
「さて、次で最後だ」
小さな町ではあるが、大部分をカバーするように仕掛けた札を全て確認するのには少し時間が掛かり、最後の場所に着いた頃には午前一時半になろうとしていた。そして、いつものように札を確認すると、
「……! これって……!」
微かにではあるが、その札は確かに怪禍の反応を示していた。この町に来て一年、初めての出来事である。その瞬間、緊張か、はたまた高揚か湊の鼓動が高鳴る。
「よし……!」
この札にしか反応が無かったという事は、恐らくまだ近くにいるはずである。湊は気合いを入れる為に自分の両の頬を叩き、神経を研ぎ澄まして走り出すと、すぐにその気配が感じ取れ始めた。そして、徐々に大きくなる気配の主の姿を目で捉えた。
(あれは……蜘蛛か?)
その怪禍の正体は、体長一メートル程の大きな蜘蛛であった。何かを探すようにして辺りをふらついており、幸いまだこちらに気付いている様子は無かった。湊は一つ深呼吸をして、腰に付けたホルダーから戦闘用に使う札を取り出し、攻める機会を伺いながらゆっくりと近づく。
(くそっ! このままじゃ、まずいな……)
だが、その機会が訪れる前に問題が起きた。暗がりで視界が悪い中、蜘蛛の進もうとしているその先に、人らしき影が見えたのだ。本来であるならば、怪禍と交戦する前は一般人を巻き込まないようにする為に、結界を用意しておくべきであったが、まさかこんな夜遅くに出歩く人が居ると湊は思っていなかった。人にバレないように仕留めようにも、相手がどんな力を持っているか分からない現状では、安易に動くわけにはいかない。だが、ここでこの怪禍を倒すチャンスを逃してもいいのだろうかと、湊は悩んだ。
「まずは、安全確保が優先だ!」
湊は悩んだ末、一先ずはその人を安全な場所へ避難させる為に駆け出した。
「あの! ちょっとここは危な——」
「……これが、目的の奴? 思ったより、小さいわね」
湊の声を気にする事なく、その人影は独り言のように呟くと、
「散りなさい! 壱式『焔』」
手にした刀が火を纏いながら蜘蛛を切り裂き、次の瞬間には目も眩むほどの炎が舞い上がり、そのまま蜘蛛を燃やし尽くした。今この場で起きた、一瞬の出来事に湊は言葉を失っていた。
「ちょっと、アンタ。こんな時間に出歩くなんて……死にたいの?」
ようやく湊の姿に気付いたその人物は、蜘蛛を裂いた刀を鞘に納めながら冷たい口調で告げた。その聞き覚えのある声と態度をする人の正体は、雲の切れ間から差し込んだ月の光によって明らかになった。
「さっきの……」
それは、夕方頃に喫茶店を訪れていた少女であった。湊は、まさかの人物に驚きを隠しきれなかったが、少女の方はなおも冷たい口調で言葉を続ける。
「聞こえなかったの? まぁ、何も分からないとは思うけど、とにかくこの辺は危ないから。さっさと家に帰りなさい」
どうやら、湊を一般人だと思っているようであった。口調は荒いが、もしかして心配をしてくれているのでは感じ、湊は少し安心して落ち着きを取り戻した。
「いや……オレも、今の蜘蛛を追ってたんだ。だから、まぁ助かったよ」
そして、同じように怪禍と戦う者である事に親近感を覚え、一応のお礼を述べた。
「……え?」
そんな湊の言葉に対して、少女は同じように親近感を覚える事は無く、反対に警戒心を強めて先程納めた刀の柄に再び手を付けた。
「アンタ、どう見ても学生よね……? 所属は? それに、誰の許可でそんな事をしてるの?」
「え? いや、所属って……普通の高校生ですけれど。それに、許可? って何の——」
少女からの矢継ぎ早の質問に答え終わる前に、湊の首筋には刀が突き付けられていた。
「この町に私以外の御霊使がいるなんて情報、聞いてない。もう一度だけ聞くわ。アンタは何者?」
何が起きているかも分からず、一方的に責められている状況に対して、
(流石に、怪我させない程度の符術にしておかないとな……)
湊も危機感を覚え、バレないようにゆっくりと腰の札に手を付けて臨戦態勢に入った。
「はいはい、お二人さん。そこまでだよー」
一触即発の状況を打破したのは、にやけた顔と気の抜けた声であった。その声がしたかと思えば、二人が対応する隙も無く、一瞬にして少女の刀を持つ手と、札に手を掛けようとしていた湊の手は抑えられていた。
(龍二さん……?)
声の主は、喫茶店にいたはずの龍二であった。当然、湊はこの場を治めようとしてくれているのを分かっていたが、少女の方はさらに怪しい人物、しかもそれが自分よりも圧倒的に格上の存在が現れた事に焦り、すぐさま掴まれた腕を振りほどいて龍二の方に向け刀を構え直した。
「いやー、人同士で争うのは良くないと思うんだよ。ね、綾瀬のお嬢ちゃん」
殺気すら感じる少女の敵意を前にしても、龍二は依然として態度を崩すことなく妙に軽い口調で語り掛ける。途中、名前らしき言葉が聞き取れた事から、その少女が何者なのかは知っているようであった。
「……私を、知っているんですか? まさか!」
「そうそう、そゆこと。まぁ、こんな所で立ち話も何だしね。一緒にお茶でもしようか、灰奈ちゃん。あぁ、もちろん湊も来るんだよ」
「え、いや……オレにもちゃんと説明してくださいよ龍二さん! ちょっと!」
一向に状況を飲み込めていない湊は龍二に引きずられながら、三人は喫茶店へと戻っていった。
「……それで、今度こそちゃんと説明してもらっていいですか?」
喫茶店に戻る道中でも、龍二は大した説明をしてくれなかった。湊が得た情報といえば、この少女——綾瀬灰奈の名前ただ一つであった。
「えー、めんどくさいな……じゃあ、灰奈ちゃん。もっかい説明してもらっていい?」
「はい。承知致しました!」
先程までの不愛想な態度とは異なり、龍二に対しては畏敬の念で接している事に、湊は釈然としない様子ながらも、カウンター席の隣に座った灰奈から現状についての説明に耳を傾ける。
「先日、この町よりそう遠くない場所にて怪禍が出現。大した規模では無く、現場近くの御霊使方が祓にあたったのですが、原因不明の事故によって怪禍を取り逃がしてしまったそうです。そして、その逃走経路を幾つか算出した結果、僅かながらもこの地に逃げ込んだ可能性があるという結論に達しました。ですが、より可能性が高い場所に多くの人員を確保した結果、人員不足となり、私のような見習いの学生にも、研修任務として派遣が命じられました。その際、先生も同行する予定だったのですが、都合が悪く出られないという事なので、松田龍二さん、貴方に代わりの監督役を引き継いでおくと先生に聞かされ、私はこの町に来ました」
湊は、聞きなれない単語や状況を聞き取るのに精一杯であった。だが、その情報を整理していく中で一つの疑問が生まれた。
「あれ? でも、龍二さん。来客の予定は無いって……」
「……まぁ、うっかり。ってやつかな。いやでもね、今時そんな大事な話を手紙で寄越すあの子もどうかと思うんだよね。もう立派な先生なのにさぁ、アナログ趣味な所は変わってないみたいで悲しいよ」
やれやれといった様子で、さらっと他人のせいにする龍二の口ぶりから、どうやら灰奈の先生とは面識があるようで、湊はようやく灰奈が探していた人物が本当に龍二である事を察した。と、同時に普段の少しいい加減な振る舞いのこの人で大丈夫なのだろうかと、懐疑的でもあったがそれを口にはしなかった。
「それにしても、驚きました。まさか、あの松田龍二さんにご子息がいらっしゃったなんて。でも、そういう事なら、少し納得出来ました」
報告が一通り終わった頃、灰奈がふと口にした。
「ん? いや、湊は——」
「違う! ……龍二さんは、父さんなんかじゃないです」
龍二が言い終えるよりも前に、湊がその言葉を強く否定した。
「湊……そうか、そうだよな。どちらかと言えば、お兄さんだもんな!」
それを都合よく解釈した龍二は、カウンターから身を乗り出しながら湊を抱きしめた。その光景に驚く灰奈を一切気にする事も無く。
「ちょっ……龍二さん! 酒臭いですってば! もう、オレ帰りますよ。綾瀬さんも、あんまり遅くならないように帰してあげて下さいね」
湊は、照れ隠しの為に溜息と悪態をつき、これ以上自分がこの場にいる必要は無いと判断をして、逃げるように店を後にする事にした。
「……少し、意外です。あの松田龍二さんがこのような人でしたなんて」
湊が帰った後の店内で僅かの沈黙の破り、残された灰奈が口を開いた。
「そんなに、かしこまらなくていいよ。気軽に龍二さんって呼んでくれて構わないから。でも、そんなに意外かな、俺って」
「はい……話に聞いてた方とは、その、あまりにもかけ離れていたので」
「そっか。まぁ、確かにあんまり良くは思われてないかな……色んな所からさ」
自虐的な言葉とは裏腹に、龍二は軽い口調と笑顔を崩す事は無かった。
「……いえ。悪い話ではなく、もっと厳しい人だと伺っていたので」
「湊の事かい?」
心の中で思っていた事を言い当てられ、少し恐れ多くも灰奈は頷いた。
「……もし、アイツが俺の息子だったら、とっくに一人前の御霊使になってるか、こっちの世界とはかけ離れた場所で生きてたさ」
「それは……どういう意味ですか?」
「俺は、湊に一切の指導も助言もしてない。アイツ自身もそれを望んで無いからね」
「それじゃあ、どうしてあんな事を?」
灰奈の言う『あんな事』とは、夜に湊が一人でパトロールをしているのを示していた。これは、彼女にとっては当然の疑問である。本来、安全面と治安維持の観点から、御霊使がその活動を行うには正式な免許が必要であり、それが無い場合は必ず監督の御霊使が付かなくてはならない決まりになっていたからだ。そして、もう一つ。龍二が指導をしていないのなら、湊という少年は一体何処で怪禍と戦う術を学んだのか、灰奈にはそれが不思議でならなかった。
「それは、俺の口から話すべき事じゃないな。でも灰奈ちゃんが、どうしても気になるなら一つ提案があるんだけど——」
この時、にやけた顔で話をする龍二に対して、灰奈は疑念を抱かなかった。その結果、上手く言いくるめられてしまい、ある仕事を引き受ける事になった。そして彼女は、松田龍二という人間の厄介さを後に知る事となる。
「……ただいま」
午前四時——いつもより遅い帰宅となった湊は、小さな声で呟きながら玄関の扉を開けた。
「おかえりなさい、お兄様!」
「こんな時間まで起きてたのか、海穏」
「はい! お兄様が心配で待っておりました。アルバイトとはいえ、あまり頑張りすぎないで下さいね」
喫茶店のアルバイトで帰りが遅くなっている、そんな無茶な言い訳を疑う事も無く出迎えた少女——海穏は湊の妹である。というのは、実家を出て龍二に引き取られる際に共に来る事になった、この少女が自称した嘘である。さすがに湊も本当の妹でない事には気付いていた。
「いかがされました、お兄様?」
海穏は、自分をじっと見つめる湊の顔を不思議そうに覗き込んだ。
「……いや、何でもないよ」
淡い水色がかった少し長めの髪に、深い蒼の眼。傍から見れば小学生としか思えぬ体格、現代の子供に似つかわしくない小袖を纏った姿を見て、一体誰が妹と信じるだろうか。そう思った湊は、妹の存在こそ教えても、なるべく他人に会わせる事をしていなかった。
(ほんとに、よくできた式神だよな……)
だが、その正体に心当たりがあった。式神——神様の霊を使役するという御霊使の用いる術の一つであり、恐らくは父親が残してくれたものだろうと、湊は考えていた。
「大方、座敷童衆ってとこかな……」
「……?」
「何でも無いよ、明日も学校だからもう寝るよ。じゃ、おやすみ」
湊はそう言うと、海穏の頭を撫でてやってから自分の寝室へと向かった。この歪な暮らしに思うところはあるが、一人きりで居るよりはずっと気持ちが楽であり、それが少なからず心の支えになっている事は間違い。だからこそ、自分を慕ってくれる『妹』の偽りの兄を演じるのも嫌ではなかった。そして、激動の五日間が既に始まろうとしている事を知る由も無く、湊は眠りに就いた。
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