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11 王子の過去
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気が付くとセイラはどこかの部屋の中に立っていた。
マホガニー材のカウチソファに、上等な調度品の数々。貴人の部屋のようだけれど、誰の部屋だろう?
〈ここはコルバルの後宮内にある部屋の一つです。この部屋はアグニータ妃―――クロノスの母が使っていました〉
「えっ? 旦那さまのお母さんですか?」
というか旦那さまにお母さんがいたんだ。
当たり前のことなのになぜか衝撃を感じてしまう。
窓の傍に置かれた椅子に綺麗な人が座っている。銀の髪に、濃い藍色の瞳……きっとこの人がアグニータ妃なのだ。
そしてその膝に、彼女にそっくりな4~5歳ほどの子供が甘えている。
「ひゃあ、かわいい~」
〈この子がクロノスです。五つになったばかりの頃ですね〉
思った通り、まるで女の子のようにかわいい。さらさらの銀の髪に白い肌のぷくぷくしたほっぺ。瞬きするたびに長い銀の睫毛が揺れている。
旦那さまがかわいい……。
小さなクロノスは高い声で「ははうえ、ははうえ」とアグニータ妃に呼びかけている。
光に溢れた瞳は今のクロノスとあまりに違っていて、一体彼に何があったのかと思ってしまう。
〈この頃はまだ何の問題もありませんでした。アグニータ妃も落ち着いていたので……〉
「女神さまの言い方だと、お母さんに何か問題が起きたってことなんですか?」
〈はい。最初の事件はクロノスが七つの時に起きました〉
また空間がぐにゃっと歪み、場所が変わる。
広い部屋の中央に置かれた長方形のテーブル。その上に並べられたたくさんの料理。
倒れた椅子の横に、少年がうずくまって苦しそうにしているのが見えた。先ほどよりも少し成長したクロノスだ。
「旦那さま!? 旦那さま、しっかりしてください!」
床に倒れたクロノスは嘔吐していて、苦しそうに喉を押さえている。時おり「ごほっ」とむせるので、セイラは慌ててクロノスに駆け寄って背中をさすろうとしたのだが、手は彼の体を突き抜けてしまった。
〈セイラ、これは過去の出来事です。わたくしたちは見ているだけですからどうにも出来ません〉
「あっ……そうでした……」
あんなに苦しそうにしているのに、見ていることしか出来ないなんて……。
クロノスの周りに人が集まってきて、誰かが「王宮医を呼べ!」と叫んでいる。ぐったりしたクロノスはどこかへ運ばれて行ってしまった。
急に辺りが静かになり、セイラは不安でたまらなくなった。
「どうして旦那さまは倒れたのですか? 病気ですか?」
〈いいえ、毒を盛られたからです。当時、三人の王子たちはそれぞれの派閥によって対立を深めていました。だからこの事件も派閥による争いが原因だと……最初は思われていたのです〉
「……本当は違ったんですね?」
〈ええ。本当は実の母であるアグニータ妃による毒でした〉
「どっ、どうしてですか!? あんなに旦那さまを可愛がっていたのに……!!」
五つのクロノスを可愛がるアグニータ妃の眼差しが嘘だったとは思えない。
本当に息子を愛しているように見えたのに。
〈クロノスが七つになった頃、国王の寵愛はべつの妃に移りました。アグニータ妃はそれを、自分に息子がいるせいだと思いこんでしまったのです。クロノスが自分そっくりだったから余計にそのように感じたのでしょう〉
「そんな……」
〈この毒の事件以降、クロノスの食事は厳しい管理の下で作られるようになり、彼も毒に苦しむことはなくなりました。だから実の母親に殺されかけたとは彼も気付いていません。クロノスが母親の殺意に気付いたのは一年後です〉
白い空間に、ぽつんと古びた井戸が現れた。
石造りのどこにでもあるような井戸。ぼろぼろの切れそうな縄に、古い釣瓶が引っかかっている。
「この井戸は何ですか?」
〈クロノスが突き落とされた井戸です。―――彼の母親の手によって〉
「……!!」
セイラは井戸を覗き込んだ。
円形の入り口から遠ざかるほど黒い闇が深くなり、水面は全く見えない。
この深い穴は見覚えがある……クロノスの瞳と同じだ。
「……こんな深い井戸に、自分の子を落とすなんて……」
〈井戸には水が残っていたので怪我はしませんでしたが、使用人が気が付かなければ恐らく凍え死んでいたでしょう。井戸から助けだされたあと、クロノスは高熱を出して三日ほど生死の境を彷徨いました〉
「アグニータ妃はどうなったんですか?」
これだけのことをしてしまったのだから、当然のごとく罰を受けたのだろう。
〈毒の件もアグニータ妃が自ら認めたため、彼女は処刑されることになりました〉
「……そうでしょうね……」
クロノスはどんな気持ちでいたことだろう。
愛してくれていると信じていた母が、本当は自分を殺したいほど憎んでいたなんて。
〈アグニータ妃は処刑の日までずっとクロノスを恨んでいました。彼女は地下牢に幽閉されていましたが、処刑の前日にクロノスを呼び出しています〉
「旦那さまはそれに応じたんですか?」
〈ええ。最後に会いたいと言われて、彼は母親の元へ行きました〉
クロノスの愛されたいと思う心は、最後まで利用されてしまったのだ。
空間がまた切り替わり、石で囲まれた狭い通路になった。
明かりは壁に付けられたロウソクしかないので薄暗く、空気もジメジメしている。
「……ここは?」
〈王宮の下にある地下牢です。アグニータ妃は捕らえられてから死ぬまでの一週間をここで過ごしました〉
セイラが石の廊下を歩いていくと、途中から急に広くなり、両脇に鉄格子の嵌まった牢屋が現れた。
突き当たりの右側の牢屋だけがぼんやりと光っていて、そこに囚人がいるのだと分かる。
「―――!?」
セイラはその牢をのぞき込んで絶句した。
牢の中で、血だらけのナイフを手に持ったクロノスが呆然と立っている。
彼の前にはアグニータ妃が倒れていて、彼女の腹部から流れ出した血が池のように溜まっていた。
「どうして!? 一体なにがあったんですか!?」
〈アグニータ妃は短剣を隠し持っていました。それでクロノスを刺し殺すつもりだったのでしょうが、揉み合っている内に彼は誤って母親を刺してしまったのです〉
「そんな……!」
セイラはクロノスの方へ近づいた。まだ八歳の彼の小さな顔は、セイラの肩までしかない。
はあ、はあと肩で息をしながら、手に持った血まみれの短剣を凝視しているクロノス。
彼の衣装は肘のあたりまでべっとりと血に濡れて、手が震えているのに短剣を放そうとしない。それとも放せないのか。
「旦那さま……」
セイラは屈みこんでクロノスの顔を見た。頬や唇に飛び散った血がだらりと垂れて、見開かれた目は充血している。
ガラスのような感情のない瞳には、短剣と倒れた母親が映っているだけだ。
クロノスは突然、糸が切れたように床へ倒れこんだ。ようやく彼の手から離れた短剣がカラカラと音を立てて床の上を滑っていく。
マホガニー材のカウチソファに、上等な調度品の数々。貴人の部屋のようだけれど、誰の部屋だろう?
〈ここはコルバルの後宮内にある部屋の一つです。この部屋はアグニータ妃―――クロノスの母が使っていました〉
「えっ? 旦那さまのお母さんですか?」
というか旦那さまにお母さんがいたんだ。
当たり前のことなのになぜか衝撃を感じてしまう。
窓の傍に置かれた椅子に綺麗な人が座っている。銀の髪に、濃い藍色の瞳……きっとこの人がアグニータ妃なのだ。
そしてその膝に、彼女にそっくりな4~5歳ほどの子供が甘えている。
「ひゃあ、かわいい~」
〈この子がクロノスです。五つになったばかりの頃ですね〉
思った通り、まるで女の子のようにかわいい。さらさらの銀の髪に白い肌のぷくぷくしたほっぺ。瞬きするたびに長い銀の睫毛が揺れている。
旦那さまがかわいい……。
小さなクロノスは高い声で「ははうえ、ははうえ」とアグニータ妃に呼びかけている。
光に溢れた瞳は今のクロノスとあまりに違っていて、一体彼に何があったのかと思ってしまう。
〈この頃はまだ何の問題もありませんでした。アグニータ妃も落ち着いていたので……〉
「女神さまの言い方だと、お母さんに何か問題が起きたってことなんですか?」
〈はい。最初の事件はクロノスが七つの時に起きました〉
また空間がぐにゃっと歪み、場所が変わる。
広い部屋の中央に置かれた長方形のテーブル。その上に並べられたたくさんの料理。
倒れた椅子の横に、少年がうずくまって苦しそうにしているのが見えた。先ほどよりも少し成長したクロノスだ。
「旦那さま!? 旦那さま、しっかりしてください!」
床に倒れたクロノスは嘔吐していて、苦しそうに喉を押さえている。時おり「ごほっ」とむせるので、セイラは慌ててクロノスに駆け寄って背中をさすろうとしたのだが、手は彼の体を突き抜けてしまった。
〈セイラ、これは過去の出来事です。わたくしたちは見ているだけですからどうにも出来ません〉
「あっ……そうでした……」
あんなに苦しそうにしているのに、見ていることしか出来ないなんて……。
クロノスの周りに人が集まってきて、誰かが「王宮医を呼べ!」と叫んでいる。ぐったりしたクロノスはどこかへ運ばれて行ってしまった。
急に辺りが静かになり、セイラは不安でたまらなくなった。
「どうして旦那さまは倒れたのですか? 病気ですか?」
〈いいえ、毒を盛られたからです。当時、三人の王子たちはそれぞれの派閥によって対立を深めていました。だからこの事件も派閥による争いが原因だと……最初は思われていたのです〉
「……本当は違ったんですね?」
〈ええ。本当は実の母であるアグニータ妃による毒でした〉
「どっ、どうしてですか!? あんなに旦那さまを可愛がっていたのに……!!」
五つのクロノスを可愛がるアグニータ妃の眼差しが嘘だったとは思えない。
本当に息子を愛しているように見えたのに。
〈クロノスが七つになった頃、国王の寵愛はべつの妃に移りました。アグニータ妃はそれを、自分に息子がいるせいだと思いこんでしまったのです。クロノスが自分そっくりだったから余計にそのように感じたのでしょう〉
「そんな……」
〈この毒の事件以降、クロノスの食事は厳しい管理の下で作られるようになり、彼も毒に苦しむことはなくなりました。だから実の母親に殺されかけたとは彼も気付いていません。クロノスが母親の殺意に気付いたのは一年後です〉
白い空間に、ぽつんと古びた井戸が現れた。
石造りのどこにでもあるような井戸。ぼろぼろの切れそうな縄に、古い釣瓶が引っかかっている。
「この井戸は何ですか?」
〈クロノスが突き落とされた井戸です。―――彼の母親の手によって〉
「……!!」
セイラは井戸を覗き込んだ。
円形の入り口から遠ざかるほど黒い闇が深くなり、水面は全く見えない。
この深い穴は見覚えがある……クロノスの瞳と同じだ。
「……こんな深い井戸に、自分の子を落とすなんて……」
〈井戸には水が残っていたので怪我はしませんでしたが、使用人が気が付かなければ恐らく凍え死んでいたでしょう。井戸から助けだされたあと、クロノスは高熱を出して三日ほど生死の境を彷徨いました〉
「アグニータ妃はどうなったんですか?」
これだけのことをしてしまったのだから、当然のごとく罰を受けたのだろう。
〈毒の件もアグニータ妃が自ら認めたため、彼女は処刑されることになりました〉
「……そうでしょうね……」
クロノスはどんな気持ちでいたことだろう。
愛してくれていると信じていた母が、本当は自分を殺したいほど憎んでいたなんて。
〈アグニータ妃は処刑の日までずっとクロノスを恨んでいました。彼女は地下牢に幽閉されていましたが、処刑の前日にクロノスを呼び出しています〉
「旦那さまはそれに応じたんですか?」
〈ええ。最後に会いたいと言われて、彼は母親の元へ行きました〉
クロノスの愛されたいと思う心は、最後まで利用されてしまったのだ。
空間がまた切り替わり、石で囲まれた狭い通路になった。
明かりは壁に付けられたロウソクしかないので薄暗く、空気もジメジメしている。
「……ここは?」
〈王宮の下にある地下牢です。アグニータ妃は捕らえられてから死ぬまでの一週間をここで過ごしました〉
セイラが石の廊下を歩いていくと、途中から急に広くなり、両脇に鉄格子の嵌まった牢屋が現れた。
突き当たりの右側の牢屋だけがぼんやりと光っていて、そこに囚人がいるのだと分かる。
「―――!?」
セイラはその牢をのぞき込んで絶句した。
牢の中で、血だらけのナイフを手に持ったクロノスが呆然と立っている。
彼の前にはアグニータ妃が倒れていて、彼女の腹部から流れ出した血が池のように溜まっていた。
「どうして!? 一体なにがあったんですか!?」
〈アグニータ妃は短剣を隠し持っていました。それでクロノスを刺し殺すつもりだったのでしょうが、揉み合っている内に彼は誤って母親を刺してしまったのです〉
「そんな……!」
セイラはクロノスの方へ近づいた。まだ八歳の彼の小さな顔は、セイラの肩までしかない。
はあ、はあと肩で息をしながら、手に持った血まみれの短剣を凝視しているクロノス。
彼の衣装は肘のあたりまでべっとりと血に濡れて、手が震えているのに短剣を放そうとしない。それとも放せないのか。
「旦那さま……」
セイラは屈みこんでクロノスの顔を見た。頬や唇に飛び散った血がだらりと垂れて、見開かれた目は充血している。
ガラスのような感情のない瞳には、短剣と倒れた母親が映っているだけだ。
クロノスは突然、糸が切れたように床へ倒れこんだ。ようやく彼の手から離れた短剣がカラカラと音を立てて床の上を滑っていく。
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