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40 重役フロアにて
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翌日の24日、雑念を払うようにして仕事に没頭した。本当はいつ常務から呼び出しがかかるのかと怖かったから、何も考えないように必死で仕事をしていた。明日から長期休暇が始まるから、今日さえ乗り切れば何とかなるはずだ。
午前中は何事もなく、昼休憩のときもその後も静かなものだった。私は心配しすぎていたんだろうか。常務は雪華さんの話を聞き流してくれたんだろうか。
安堵しかけたとき、青木課長が私を呼んだ。終業時刻の二時間前だった。
「恩田、ちょっと」
私を小声で手招きした課長の顔は少し青ざめていて、尋常ではないことが起こったのだと知る。私は自分のデスクを離れて課長へ近づいた。
「いま内線があってな……常務が恩田を呼んでるそうだ。何があった? 大丈夫なのか」
「……大丈夫です。行って来ます」
甘かった。大丈夫かと思っていたけど、とうとうその時がやって来たのだ。広報部のフロアを出てエレベーターに乗り、上層階にある役員フロアのボタンを押す。箱が上に移動する感覚と緊張で吐きそうだった。
私の気分とは裏腹にチンと軽い音がなり、扉が開いた。静まり返った役員フロアはまるで高級ホテルのような重厚さがあったが、私にとっては静かで長い廊下も地獄に続いているような感じがした。
常務の秘書に取次ぎを願い、しばらく待つと入るように指示がある。緊張による吐き気をこらえながら入室した。
「失礼いたします」
長い毛足の絨毯に、床から天井まで一面になった窓。見晴らしのいい部屋に巨大なデスクが置かれ、革張りのチェアに常務が座っている。太い眉毛と堀の深い目元から頑固そうな印象を受けた。あまり話を聞いてもらえそうにない。
私がデスクの前まで移動すると、常務は座ったまま口を開いた。
「どうして呼ばれたのか、分かっているかな?」
「……本部長との事に関してでしょうか」
自分でも驚くほど声が震えている。私のような平社員にとって、役員に呼び出される事は懲戒解雇を言い渡される事とほとんど同じなのだ。だから課長も青ざめていたのだろう。
「分かっているなら話が早い。今日にでも荷物をまとめて、綾太君のマンションから出て行きなさい。彼には雪華がいる。きみのような家業の潰れた不吉な家の娘が、北条に近づくものじゃないよ」
「私のことを、調べたんですか……」
「当たり前だろう。どこの馬の骨とも知れない女が綾太君のそばにいるのは困るんだよ。しかもきみの場合、早くに父親を亡くして経済的に苦しかったそうだな。綾太君に近づいたのは金銭目的か?」
決め付けるような言い方は腹が立つけど、確かに最初はお金が目的だった。副業をしに行ったのだから。でも他の人に迷惑がかかるからそれは絶対に明かせない。
「私と本部長は、子供の頃の知り合いなんです。たまたま社内で本部長と再会して、事情を話したら私を援助するために同居をしようと言ってくださいました」
「母親はすでに東京を離れてるんだろう。経済的な負担はなくなったんだから、同棲する必要もないはずだ。きみを京都に異動させてやっても構わんがね」
「……私と本部長は、結婚を前提とした真剣なお付き合いをしています。だから京都には……」
「本気で彼と結婚するつもりなのか? 冗談も大概にしたまえ。北条家の妻になれば社交上の付き合いもある。その時きみは綾太君に恥をかかせることになるだろう。社内で男と噂になるような身持ちの悪い女が、綾太君に釣り合うわけがない。恥を知りなさい」
ああ、やっぱり異動することになりそうだ。うな垂れる私に常務は更なる絶望を与えた。
「もしきみ達がこのまま付き合いを続けるというのなら、私にも考えがある。社長に綾太君は役員に相応しくないと相談させてもらう事になるだろう」
「……え? どういう事でしょうか?」
「広報部なら当然知っていると思うが、取締役は株式総会で正式決定になる。でも北条建設は創業家一族が続けてきたオーナー企業だからね。誰が役員になるのか指名するのは兄と私なんだよ。今までも兄と相談しながら役員を決めてきたが、きみが綾太君と結ばれるというのなら私は彼を役員には推さない。断固反対させてもらう」
「そんな……」
「分不相応な付き合いなんだよ。社員寮に空きをひとつ用意したから、今日にでもそちらに移りなさい。分かったら退室したまえ」
常務が電話のボタンを押すとドアが開き、秘書が入ってきた。細身の青年だったが、彼は私の背中を押して退室するように促す。ほとんど追い出されるようにして廊下に出た。ふらふらとエレベーターまで歩いていく。
どうしてこんな事になったんだろう。私たちの結婚にはなんの問題もなかったはずなのに。すっかり安心していたから、一歩先に地獄が待っているなんて全然気づかなかった。
呆然としたまま広報部に戻ると、また課長が手招きしている。まだ何かあるんだろうか。
「お、恩田……。さっき人事部から連絡があって、恩田の住所を変更したみたいなんだが」
「……え?」
「本人に無断で住所を変更するなんてただ事じゃない。常務のところで何かあったんだな?」
課長のディスプレイには私の社員情報が映し出され、確かに住所が社員寮に変わっていた。常務が人事部に変えるように言ったのだろう。これは今すぐ引っ越せという警告だ。従わなければ本部長にまで影響が出るぞと私を脅しているのだ。
「課長……すみません。今日中に引っ越さないといけないので、早退させてください。今日の分の業務は終えています」
「いや、早退はいいけど……。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫です。すみません。お先に失礼します」
デスクに戻って鞄を手に取り、早足でフロアを出て行く。隣の千穂先輩まで青ざめた顔をしていて、きっと心配をかけるだろうと思った。でも今は説明しているような余裕はない。
午前中は何事もなく、昼休憩のときもその後も静かなものだった。私は心配しすぎていたんだろうか。常務は雪華さんの話を聞き流してくれたんだろうか。
安堵しかけたとき、青木課長が私を呼んだ。終業時刻の二時間前だった。
「恩田、ちょっと」
私を小声で手招きした課長の顔は少し青ざめていて、尋常ではないことが起こったのだと知る。私は自分のデスクを離れて課長へ近づいた。
「いま内線があってな……常務が恩田を呼んでるそうだ。何があった? 大丈夫なのか」
「……大丈夫です。行って来ます」
甘かった。大丈夫かと思っていたけど、とうとうその時がやって来たのだ。広報部のフロアを出てエレベーターに乗り、上層階にある役員フロアのボタンを押す。箱が上に移動する感覚と緊張で吐きそうだった。
私の気分とは裏腹にチンと軽い音がなり、扉が開いた。静まり返った役員フロアはまるで高級ホテルのような重厚さがあったが、私にとっては静かで長い廊下も地獄に続いているような感じがした。
常務の秘書に取次ぎを願い、しばらく待つと入るように指示がある。緊張による吐き気をこらえながら入室した。
「失礼いたします」
長い毛足の絨毯に、床から天井まで一面になった窓。見晴らしのいい部屋に巨大なデスクが置かれ、革張りのチェアに常務が座っている。太い眉毛と堀の深い目元から頑固そうな印象を受けた。あまり話を聞いてもらえそうにない。
私がデスクの前まで移動すると、常務は座ったまま口を開いた。
「どうして呼ばれたのか、分かっているかな?」
「……本部長との事に関してでしょうか」
自分でも驚くほど声が震えている。私のような平社員にとって、役員に呼び出される事は懲戒解雇を言い渡される事とほとんど同じなのだ。だから課長も青ざめていたのだろう。
「分かっているなら話が早い。今日にでも荷物をまとめて、綾太君のマンションから出て行きなさい。彼には雪華がいる。きみのような家業の潰れた不吉な家の娘が、北条に近づくものじゃないよ」
「私のことを、調べたんですか……」
「当たり前だろう。どこの馬の骨とも知れない女が綾太君のそばにいるのは困るんだよ。しかもきみの場合、早くに父親を亡くして経済的に苦しかったそうだな。綾太君に近づいたのは金銭目的か?」
決め付けるような言い方は腹が立つけど、確かに最初はお金が目的だった。副業をしに行ったのだから。でも他の人に迷惑がかかるからそれは絶対に明かせない。
「私と本部長は、子供の頃の知り合いなんです。たまたま社内で本部長と再会して、事情を話したら私を援助するために同居をしようと言ってくださいました」
「母親はすでに東京を離れてるんだろう。経済的な負担はなくなったんだから、同棲する必要もないはずだ。きみを京都に異動させてやっても構わんがね」
「……私と本部長は、結婚を前提とした真剣なお付き合いをしています。だから京都には……」
「本気で彼と結婚するつもりなのか? 冗談も大概にしたまえ。北条家の妻になれば社交上の付き合いもある。その時きみは綾太君に恥をかかせることになるだろう。社内で男と噂になるような身持ちの悪い女が、綾太君に釣り合うわけがない。恥を知りなさい」
ああ、やっぱり異動することになりそうだ。うな垂れる私に常務は更なる絶望を与えた。
「もしきみ達がこのまま付き合いを続けるというのなら、私にも考えがある。社長に綾太君は役員に相応しくないと相談させてもらう事になるだろう」
「……え? どういう事でしょうか?」
「広報部なら当然知っていると思うが、取締役は株式総会で正式決定になる。でも北条建設は創業家一族が続けてきたオーナー企業だからね。誰が役員になるのか指名するのは兄と私なんだよ。今までも兄と相談しながら役員を決めてきたが、きみが綾太君と結ばれるというのなら私は彼を役員には推さない。断固反対させてもらう」
「そんな……」
「分不相応な付き合いなんだよ。社員寮に空きをひとつ用意したから、今日にでもそちらに移りなさい。分かったら退室したまえ」
常務が電話のボタンを押すとドアが開き、秘書が入ってきた。細身の青年だったが、彼は私の背中を押して退室するように促す。ほとんど追い出されるようにして廊下に出た。ふらふらとエレベーターまで歩いていく。
どうしてこんな事になったんだろう。私たちの結婚にはなんの問題もなかったはずなのに。すっかり安心していたから、一歩先に地獄が待っているなんて全然気づかなかった。
呆然としたまま広報部に戻ると、また課長が手招きしている。まだ何かあるんだろうか。
「お、恩田……。さっき人事部から連絡があって、恩田の住所を変更したみたいなんだが」
「……え?」
「本人に無断で住所を変更するなんてただ事じゃない。常務のところで何かあったんだな?」
課長のディスプレイには私の社員情報が映し出され、確かに住所が社員寮に変わっていた。常務が人事部に変えるように言ったのだろう。これは今すぐ引っ越せという警告だ。従わなければ本部長にまで影響が出るぞと私を脅しているのだ。
「課長……すみません。今日中に引っ越さないといけないので、早退させてください。今日の分の業務は終えています」
「いや、早退はいいけど……。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫です。すみません。お先に失礼します」
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