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 翌朝かなり早めに起きた私は、ドレッシングルームの鏡の前で奮闘していた。いつもはきっちりシニヨンにしているが、今日はゆるめにしようと思ったのだ。
 前髪も少し切ったので、髪を整えた私はいつもより雰囲気が柔らかいように感じた。私は北条さんを拒絶したわけじゃない。それを態度で示そうと思って髪形を変えた。少しの変化だけど。

「……おはよう」

 朝食を作り終えた頃、北条さんがリビングにやってきた。足取りが重く、ためらいがちに椅子に座る。明らかに私に遠慮している様子で、これはやはり話をした方が良さそうだと決意する。食事が始まっても彼は無言のままだったが、やがて箸をテーブルに置いて端正な顔を上げた。

「昨夜のことなんだけど、本当に――」

「もう謝らないでください、綾太りょうたさん」

 初めて名前で呼んだせいか、綾太さんは目を丸くしている。私は暗灰色の瞳をまっすぐに見つめながら言った。

「昨夜のことであなたが責任を感じる必要はありません。私は部屋のドアに鍵をかけるつもりはないし、あなたと距離を置こうとも思ってません。私を信頼したからこそ、家政婦にしてくれたんでしょう? 私も綾太さんを信頼しています。あなたは誠実な人です」

 この瞬間、ようやく私は彼を『北条の御曹子』ではなく、『北条綾太』という一人の男性として認めたのだった。たとえ彼が次期社長じゃなくても、人柄を信じたからこそ同居を続けてきたのだ。昨晩のことぐらいで今まで築いた信用が失われるわけじゃない。
 綾太さんはしばらく黙っていたが、やがて安堵したように微笑んだ。

「ありがとう、真梨花さん。僕もきみを信頼している。改めてよろしくお願いします」

「はい。精一杯つとめさせて頂きます。……私の事情をお話ししてもいいですか?」

「いいよ。きみさえ良ければ」

 私は温かい緑茶を出し、話を切り出した。まだ時間が早いので出勤するまで余裕がある。

「私の家は呉服屋を営んでいたんですけど、私が十二歳のときに経営破綻しちゃって……。それが原因で東京に引越すことになり、中学も公立の学校に進みました。以前、中学でイジメにあったから眼鏡を掛けたと説明しましたが、高校卒業後はもう必要ないかと思って眼鏡を外してたんです。なのにまた掛けるようになったのは別の理由があって……」

 綾太さんは黙ったまま静かに頷いた。私は話を続ける。

「高校卒業後に家事代行を始めて、ひとりの男性と知り合いました。家事をしに行ったのがきっかけでいい感じになったんですけど、そう思ってたのは私だけだったみたいで……。うちは経済的に余裕がなかったし、父も亡くなっていたから、彼に家庭の事情を打ち明けたんです。もし結婚を考えてくれているのなら、早目に話すのがいいかなと焦っちゃって」

 いま思えば、ただの恋愛がすぐに結婚に繋がるわけがなかった。でも経験のない私は一人で勝手に舞い上がって、すべてを話してしまったのだ。

「私の話を聞いた彼は笑って、おまえと結婚するわけがないだろうと言いました。まぁ私が焦って勘違いしただけなんですけど。その時に押し倒されて、セフレならいいぞと言われたのがショックで……」

 綾太さんが息を飲む気配があり、私は慌てて言った。

「あ、でもその時は未遂で終わったんです。思いっきり頭突きしたら、すぐに手を放してくれました。冗談を本気にするなって怒られて、その彼とは別れて一度も会ってません。でも恋愛に失敗した事が恥ずかしくて、男性を見る目がない自分にも嫌気がさして……。もう誰ともお付き合いなんかするもんかと思って、眼鏡を掛けるようになりました。地味にしてると声を掛けられないので安心するんです」

「……それはつらかっただろう」

 綾太さんの声は暗かった。申し訳なさそうな表情で、彼が謝罪を我慢しているのだと分かる。私が謝らないでと言ったからこらえているのだ。本当に真面目な人だと思う。

「信頼の証として、綾太さんの前では眼鏡を掛けないことにします。あなたのそばにいれば安全でしょうし……あっ、すみません! 余計なことを言いました」

 こんな言い方をしたら、綾太さんを盾のように使うことになる。彼はすごいイケメンで他人の視線を集めるから、そばにいても私は空気になれるだろう――そんな思惑で口にしてしまったけど、堂々と言うなんて彼に失礼すぎだ。私は慌てて頭を下げたが、綾太さんは朗らかに笑っている。

「いいよ、僕を虫除けとして使っても。それで真梨花さんが安心できるなら、いくらでも使ってくれ」

「す、すみません……。でも助かります。ありがとうございます」

 虫除けなんて言われるほどモテるわけじゃないけど、彼の気遣いがとても嬉しかった。
 微笑む綾太さんの瞳は遠い昔に見た友達と同じ光を宿している。穏やかで全てを包み込むような優しい光。背は伸びて体も逞しくなったけれど、綺麗な瞳はそのままだ。

 ありがとう、アヤちゃん。私は心の中でつぶやいた。
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