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17 暴露の夜2
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書斎に入った彼は上着を椅子の背もたれに掛け、ネクタイを緩めた。そして本棚の端から一冊のアルバムを取り出す。どこかの学校の、卒業アルバムのようだ。
北条さんはアルバムをぱらぱらと捲り、あるページで手を止めた。
「これを見てほしい」
見開きになったページには、学生の顔写真がずらりと並んでいる。やはり卒業アルバムだ。年齢からして中学生ぐらいだろう。
私は視線を動かし、北条さんの指先にいる少年を見た。白くひょろっとした顔で、無造作に伸びた髪が肩にかかっている。痩せすぎだしあまり健康そうには見えない――と思った瞬間、急に記憶の扉が開いた。
「あっ。この男の子、知ってます。名前はなんだっけ……。確かに知ってるはずなんだけど」
「――アヤ、だろ?」
「そうそう! アヤちゃんです。懐かしいなぁ。学校が終わったあと、いつもこの子と神社でお喋りしてたんですよ。すごく本の好きな子で…………え?」
北条さんの指先の部分に少年の名前が印刷されており、四つの漢字を見た私の目は極限まで見開かれた。『北条 綾太』――確かにそう書かれてある。
私は写真から視線を外して北条さんを見つめた。
「……アヤちゃん?」
「うん」
「北条さんが、アヤちゃん?」
「そうだよ、まりかちゃん。やっと気が付いた?」
しばらく何も言えず、ただ写真の少年と北条さんを見比べる。とても同一人物とは思えない。
「うそ……。だって見た目も全然違うし、名前だって」
私の声は無様なぐらい掠れていた。北条さんはどこか遠くを見るような眼差しでアルバムを眺めている。
「僕は子供のころ、少し体が弱くてさ。東京じゃ環境が悪いというので、京都の祖父母の家に15歳まで預けられた。自分に自信がなかったからきみにはアヤと名乗ったんだ。男に見えない自覚はあったし、母方の祖父母はなぜか僕をアヤタと呼んでいたから」
確かに綾という漢字は、リョウとアヤの二つの音を持つけど……。いや、今はそれを考えてる場合じゃない。私は震える唇をやっとの思いで動かした。きっと顔は真っ青になっているだろう。
「ご……ごめん、なさい。私……あなたにひどいこと言って……」
出会ってから数ヶ月たった時アヤちゃんは私に告白してくれたが、当時の私は彼を女の子だと勘違いしていた。髪が少し長かったし、白い肌と暗灰色の瞳が綺麗で女の子みたいに見えたから。
――『アヤちゃんて男の子だったの? 悪いけど全然タイプじゃないなぁ。私はもっと男っぽい人が好きなの』
そんなひどい言葉で彼を突き放してしまった。
もっと言葉を選べたはずなのに。
「僕は別に、きみを恨んでるわけじゃない。あの言葉のお陰で強くなろうと思えたし、努力を続けて今の自分になれたんだから」
北条さんはアルバムを閉じて机の上に置き、私に一歩近づいた。口元は柔らかく微笑んでいるけど、目は炎が燃えてるみたいに揺らいでいて、怖くなった私は近づいた距離の分だけ後ずさる。
足を動かしているうちに膝の裏がソファにぶつかり、体がぐらりと傾いた。肩をトンと押されてソファの上に倒れる。天井の明かりが眩しくて目を細めると、私の上に男性の影が落ちてきた。逆光になった北条さんの顔はよく見えない。
私は今、北条さんに押し倒されたんだ――その事実が頭に入らず、呆然と彼を見上げる。こんなイケメンに押し倒されたんだから、女性としては喜ぶべきシーンのはずだ。
でも。でも私は……。
「僕はきみのタイプに近づいただろう? どれだけ男らしくなったのか、試してみないか?」
彼はそう囁いて、親指の腹で私の唇をなぞった。
逆光になった男のシルエット。私の手首を掴む、大きな手の感触。
――『おまえと結婚なんかするわけないだろ。でも顔は気に入ってるから、セフレだったらなってもいいぜ』
記憶の底に封じていた声が頭のなかに響き、私は口元を押さえた。駄目だ。気持ち悪い。異変を察した北条さんが眉をしかめている。
「どうしたんだ? 顔色が……」
「も、無理っ……!」
北条さんの下から飛び出してトイレに駆け込んだ。胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。喉に激痛を感じ、私はひどく咳き込んだ。
「ゲホッ! ……うぅ……」
やってしまった。ボタンを押して吐しゃ物を流すと、自分が情けなくて涙が出た。あんな色っぽいシーンで吐きそうになる女なんて、きっと私ぐらいだ。世の大半の女性は喜んで彼を受け入れたことだろう。
(でも私にはそれが出来ない……。北条さんを傷つけちゃった)
彼は今の外見になってから、女性に拒絶された事なんて無いんじゃないだろうか。しかもこんな地味女に。私は過去にも北条さんを傷つけたのに。
謝罪しようと思って書斎に戻ると北条さんの姿はなかった。リビングから物音がしたのでそちらへ移動すると、彼は私がちらかしたゴミを片付けてくれているところだった。
「あの……」
「ごめん」
私の姿を認めた瞬間、北条さんは深々と頭を下げる。どうして彼が謝るんだろう。悪いのは私の方なのに。首をかしげる私に彼は言った。
「悪ふざけして本当にすまなかった。さっきの様子だと、過去につらい事があったんだろう? 知らなかったとは言え、古傷をえぐるような真似をして……本当にごめん」
「そんな……そんなの気にしないでください。北条さんは何も悪くないです。私がたまたま過去に嫌なことがあっただけですから」
「ここは片付けておくから、真梨花さんはもう休んでいいよ。ドアに鍵を掛けて寝たら、安心して眠れるだろう」
「…………はい。おやすみなさい」
北条さんの笑顔は寂しそうで、声には明らかにしょげている響きがあった。私がなにを言ったとしても彼は自分を責めるに違いない。そう悟ったので、歯磨きを終えた私は大人しく自分の部屋へ戻った。一人になった途端、目から涙が溢れてくる。
(初対面で私をまりかと呼んだのは、彼がアヤちゃんだったからなんだ……)
なのに私はちっとも気が付かず、思わせぶりな彼の態度に腹を立てたりしたのだ。私を家政婦にしてくれたのも、昔の友達だったからだろうに。この間、僕を見てどう思う、と訊いたのも過去の友達だと気が付いて欲しかったからだろうに。
自分がどれだけ残酷なことを繰り返してきたのか思い知り、私はしばらく涙を流した。でも本当に泣きたいのは北条さんの方だろう。このまま私たちの関係を終わらせたくない。ベッドに入った私は悶々と考え続けた。
北条さんはアルバムをぱらぱらと捲り、あるページで手を止めた。
「これを見てほしい」
見開きになったページには、学生の顔写真がずらりと並んでいる。やはり卒業アルバムだ。年齢からして中学生ぐらいだろう。
私は視線を動かし、北条さんの指先にいる少年を見た。白くひょろっとした顔で、無造作に伸びた髪が肩にかかっている。痩せすぎだしあまり健康そうには見えない――と思った瞬間、急に記憶の扉が開いた。
「あっ。この男の子、知ってます。名前はなんだっけ……。確かに知ってるはずなんだけど」
「――アヤ、だろ?」
「そうそう! アヤちゃんです。懐かしいなぁ。学校が終わったあと、いつもこの子と神社でお喋りしてたんですよ。すごく本の好きな子で…………え?」
北条さんの指先の部分に少年の名前が印刷されており、四つの漢字を見た私の目は極限まで見開かれた。『北条 綾太』――確かにそう書かれてある。
私は写真から視線を外して北条さんを見つめた。
「……アヤちゃん?」
「うん」
「北条さんが、アヤちゃん?」
「そうだよ、まりかちゃん。やっと気が付いた?」
しばらく何も言えず、ただ写真の少年と北条さんを見比べる。とても同一人物とは思えない。
「うそ……。だって見た目も全然違うし、名前だって」
私の声は無様なぐらい掠れていた。北条さんはどこか遠くを見るような眼差しでアルバムを眺めている。
「僕は子供のころ、少し体が弱くてさ。東京じゃ環境が悪いというので、京都の祖父母の家に15歳まで預けられた。自分に自信がなかったからきみにはアヤと名乗ったんだ。男に見えない自覚はあったし、母方の祖父母はなぜか僕をアヤタと呼んでいたから」
確かに綾という漢字は、リョウとアヤの二つの音を持つけど……。いや、今はそれを考えてる場合じゃない。私は震える唇をやっとの思いで動かした。きっと顔は真っ青になっているだろう。
「ご……ごめん、なさい。私……あなたにひどいこと言って……」
出会ってから数ヶ月たった時アヤちゃんは私に告白してくれたが、当時の私は彼を女の子だと勘違いしていた。髪が少し長かったし、白い肌と暗灰色の瞳が綺麗で女の子みたいに見えたから。
――『アヤちゃんて男の子だったの? 悪いけど全然タイプじゃないなぁ。私はもっと男っぽい人が好きなの』
そんなひどい言葉で彼を突き放してしまった。
もっと言葉を選べたはずなのに。
「僕は別に、きみを恨んでるわけじゃない。あの言葉のお陰で強くなろうと思えたし、努力を続けて今の自分になれたんだから」
北条さんはアルバムを閉じて机の上に置き、私に一歩近づいた。口元は柔らかく微笑んでいるけど、目は炎が燃えてるみたいに揺らいでいて、怖くなった私は近づいた距離の分だけ後ずさる。
足を動かしているうちに膝の裏がソファにぶつかり、体がぐらりと傾いた。肩をトンと押されてソファの上に倒れる。天井の明かりが眩しくて目を細めると、私の上に男性の影が落ちてきた。逆光になった北条さんの顔はよく見えない。
私は今、北条さんに押し倒されたんだ――その事実が頭に入らず、呆然と彼を見上げる。こんなイケメンに押し倒されたんだから、女性としては喜ぶべきシーンのはずだ。
でも。でも私は……。
「僕はきみのタイプに近づいただろう? どれだけ男らしくなったのか、試してみないか?」
彼はそう囁いて、親指の腹で私の唇をなぞった。
逆光になった男のシルエット。私の手首を掴む、大きな手の感触。
――『おまえと結婚なんかするわけないだろ。でも顔は気に入ってるから、セフレだったらなってもいいぜ』
記憶の底に封じていた声が頭のなかに響き、私は口元を押さえた。駄目だ。気持ち悪い。異変を察した北条さんが眉をしかめている。
「どうしたんだ? 顔色が……」
「も、無理っ……!」
北条さんの下から飛び出してトイレに駆け込んだ。胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。喉に激痛を感じ、私はひどく咳き込んだ。
「ゲホッ! ……うぅ……」
やってしまった。ボタンを押して吐しゃ物を流すと、自分が情けなくて涙が出た。あんな色っぽいシーンで吐きそうになる女なんて、きっと私ぐらいだ。世の大半の女性は喜んで彼を受け入れたことだろう。
(でも私にはそれが出来ない……。北条さんを傷つけちゃった)
彼は今の外見になってから、女性に拒絶された事なんて無いんじゃないだろうか。しかもこんな地味女に。私は過去にも北条さんを傷つけたのに。
謝罪しようと思って書斎に戻ると北条さんの姿はなかった。リビングから物音がしたのでそちらへ移動すると、彼は私がちらかしたゴミを片付けてくれているところだった。
「あの……」
「ごめん」
私の姿を認めた瞬間、北条さんは深々と頭を下げる。どうして彼が謝るんだろう。悪いのは私の方なのに。首をかしげる私に彼は言った。
「悪ふざけして本当にすまなかった。さっきの様子だと、過去につらい事があったんだろう? 知らなかったとは言え、古傷をえぐるような真似をして……本当にごめん」
「そんな……そんなの気にしないでください。北条さんは何も悪くないです。私がたまたま過去に嫌なことがあっただけですから」
「ここは片付けておくから、真梨花さんはもう休んでいいよ。ドアに鍵を掛けて寝たら、安心して眠れるだろう」
「…………はい。おやすみなさい」
北条さんの笑顔は寂しそうで、声には明らかにしょげている響きがあった。私がなにを言ったとしても彼は自分を責めるに違いない。そう悟ったので、歯磨きを終えた私は大人しく自分の部屋へ戻った。一人になった途端、目から涙が溢れてくる。
(初対面で私をまりかと呼んだのは、彼がアヤちゃんだったからなんだ……)
なのに私はちっとも気が付かず、思わせぶりな彼の態度に腹を立てたりしたのだ。私を家政婦にしてくれたのも、昔の友達だったからだろうに。この間、僕を見てどう思う、と訊いたのも過去の友達だと気が付いて欲しかったからだろうに。
自分がどれだけ残酷なことを繰り返してきたのか思い知り、私はしばらく涙を流した。でも本当に泣きたいのは北条さんの方だろう。このまま私たちの関係を終わらせたくない。ベッドに入った私は悶々と考え続けた。
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