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3 地味女の事情
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「恩田ってば、御曹子と知り合いだったの? もしかして元カレ?」
退社後、会社から少し離れたいつもの居酒屋で千穂先輩が私に訊いた。予想していた質問とはいえ、直球過ぎて飲んでいた梅味のチューハイを噴いてしまうところだった。
「まさか! 全然知り合いなんかじゃありません。お付き合いどころか今日が初対面ですよ。私だってびっくりしてるんです。初対面から名前で呼んだり、じろじろと遠慮なく見てきたり……。ああやって女性を落として来たんですかね。真面目そうな人だと思ったのにがっかりです」
「知り合いじゃないのかー。じゃあ何だろね、あの意味ありげな態度。まるで以前付き合ってたみたいな感じだったじゃん? 私、無駄にワクワクしちゃったわ」
「あんなイケメン記憶にないし、そもそも接点がないはずですもん。完全に向こうの勘違いでしょう。あ、おねーさん、ゲソ天ひとつください」
「恩田……。あんた眼鏡外したら美人なのに、相変わらず食うもんはオッサン臭いね」
千穂先輩はテーブルに並べられた枝豆やイカの塩辛、鳥のから揚げ、モツ煮とゲソ天を見て悲しげな顔をした。全体的に茶色っぽい。
「いいじゃないですか。幼い頃から上品なものばっか食べてたせいか、こってりした食べ物に飢えてるんです。週に一度はこういうものを食べて英気を養わないと」
「そーかそーか。たくさん食べな」
私の家庭事情を知っている千穂先輩は、生ぬるい微笑みで料理の入った鉢を私のほうへ押した。遠慮なくそれらを食べる。味付けの濃い鳥からはお酒によく合って美味しい。
私の母は育ちが良かったせいか、作る料理はすべて上品な味付けの日本料理ばかりだった。それらも勿論おいしかったが、母が体を壊して入院した途端に一人娘の私は味の濃い物やジャンクな物を好んで口にしている。
コンビニで売られているから揚げやフライドポテトも大好物だ。母がこれを知ったら悲しむかもしれない。やめられないけど。
「お母さんの具合どう? 退院できそう?」
「体調は戻ってきてますよ。来週には退院できそうですけど、元のように働くのは無理だろうって話で……。京都に住んでる叔母は、母が退院したら実家に連れ帰りたいと話してました」
「そっかぁ。まぁそれがいいのかもね、あんたも安心して働けるだろうし……。恩田ってさ、結婚を約束した彼氏とかいないの? お母さんだってあんたを東京にひとり残すのは心配しそうだけど」
「いません」
「そ、即答……。そういや社の飲み会でも、恩田に声を掛けた男性をそっけなく追い払ってたよね。眼鏡ありの恩田が美人って気づくなんて貴重な人材なのに……。もしかして男嫌いなの?」
先輩は手にしたビールをぐびりと飲み、私に問いかける。当時のことを思い出し、苦い笑みが私の口元に広がった。
「嫌いなわけじゃないです。ただ、私は一人娘で父を亡くしていて、しかも母が入退院を繰り返してると話すと大抵の男性は逃げちゃうんですよね……。家庭事情が重すぎて、背負いたくないんだと思います」
父を亡くして以来、母は私を育てるために必死で働いて体を壊した。すぐに死に繋がるほど弱った訳ではないが、何度も入退院を繰り返しており、退院後は元のように元気には動けないだろう。
そういった家庭の事情を話すとほとんどの男性は私から逃げていった。私の方も深い関係になってから打ち明けるのは卑怯だと思っているから、恋愛が始まる前にうちの事情を話すことにしている。その方がお互いに傷つかずにすむから。正直な気持ちを吐露すれば、恋愛はもうこりごりだと思う気持ちもあった。
千穂先輩と店の前で別れ、電車に乗って帰宅した。父を失って高い家賃が払えなくなった私と母は、都心から離れた場所で暮らしている。通勤には一時間以上かかるが、目玉が飛び出るような家賃を払って生活するのは無理だった。
「はぁ、疲れた……。ただいま……」
母が入院してしまい、誰もいなくなった部屋に向かって呟いた。父が亡くなる前はもう少し広い部屋を借りていたが、今は2DKの古くて小さなアパートだ。でもその小さな部屋ですら一人になった私には広すぎる。
母が実家に戻るのなら、もう少し狭い部屋を借りるのもありだろう。お風呂に入ったあと、スマホを使って賃貸情報を調べることにした。が、メールチェックをした私の目に、懐かしい名前が飛び込んでくる。
「あ、星野のおじ様からメールが来てたんだ。なんだろ」
星野のおじ様というのは父の古くからの知り合いで、星野タクシーという会社の会長職を務めており、私たちの生活が困窮してから色々と助けてくれた人物でもあった。今ではあまり会う機会もないが、年賀状は毎年送るようにしている。人生の恩人とも言える大切な人なのだ。
『真梨花ちゃん、元気にしていますか。私たちは変わりなく過ごしています。実はかなり急なお願いなんだけどね――』
メールの内容を読むと、都内に家事代行を必要とする男性がいるとのことらしい。一人暮らしの男性か……。私はしばし悩んだ。
私は経済的な理由から大学進学を諦めて高校卒業後に就職しようとしたが、不景気だったためかなかなか職に就けなかった。母の勧めで家事代行の会社に一時的に入った際、私を定期的に指名してくれたのも星野のおじ様だった。
一人暮らしの男性宅に若い女性が家事代行に行くのは危険が伴うため、夫婦ふたりで暮らす星野のおじ様の家で働けるのは有難いことだったのだ。
家事代行の仕事はあまり忙しいわけではなく、空き時間も多かったから資格の勉強をした。その時に取った調理師免許や日商簿記二級、各種の資格が役立って今の会社に入社できたから、あの三年間は決して無駄ではなかったと思える貴重な時間だ。
(おじ様の頼みなら聞かないわけにはいかないな……。それにおじ様経由なら、きっと変な男性じゃないだろうし)
私はメールに書かれた住所を確認し、了承のメールを送ってから布団に潜り込んだ。依頼主は多忙な人物らしく、自宅にいるのは明日の午前中だけとのことだ。無理やり時間を作ったから急な日程になったようで、何度も詫びる丁寧な文章がおじ様らしい。
退社後、会社から少し離れたいつもの居酒屋で千穂先輩が私に訊いた。予想していた質問とはいえ、直球過ぎて飲んでいた梅味のチューハイを噴いてしまうところだった。
「まさか! 全然知り合いなんかじゃありません。お付き合いどころか今日が初対面ですよ。私だってびっくりしてるんです。初対面から名前で呼んだり、じろじろと遠慮なく見てきたり……。ああやって女性を落として来たんですかね。真面目そうな人だと思ったのにがっかりです」
「知り合いじゃないのかー。じゃあ何だろね、あの意味ありげな態度。まるで以前付き合ってたみたいな感じだったじゃん? 私、無駄にワクワクしちゃったわ」
「あんなイケメン記憶にないし、そもそも接点がないはずですもん。完全に向こうの勘違いでしょう。あ、おねーさん、ゲソ天ひとつください」
「恩田……。あんた眼鏡外したら美人なのに、相変わらず食うもんはオッサン臭いね」
千穂先輩はテーブルに並べられた枝豆やイカの塩辛、鳥のから揚げ、モツ煮とゲソ天を見て悲しげな顔をした。全体的に茶色っぽい。
「いいじゃないですか。幼い頃から上品なものばっか食べてたせいか、こってりした食べ物に飢えてるんです。週に一度はこういうものを食べて英気を養わないと」
「そーかそーか。たくさん食べな」
私の家庭事情を知っている千穂先輩は、生ぬるい微笑みで料理の入った鉢を私のほうへ押した。遠慮なくそれらを食べる。味付けの濃い鳥からはお酒によく合って美味しい。
私の母は育ちが良かったせいか、作る料理はすべて上品な味付けの日本料理ばかりだった。それらも勿論おいしかったが、母が体を壊して入院した途端に一人娘の私は味の濃い物やジャンクな物を好んで口にしている。
コンビニで売られているから揚げやフライドポテトも大好物だ。母がこれを知ったら悲しむかもしれない。やめられないけど。
「お母さんの具合どう? 退院できそう?」
「体調は戻ってきてますよ。来週には退院できそうですけど、元のように働くのは無理だろうって話で……。京都に住んでる叔母は、母が退院したら実家に連れ帰りたいと話してました」
「そっかぁ。まぁそれがいいのかもね、あんたも安心して働けるだろうし……。恩田ってさ、結婚を約束した彼氏とかいないの? お母さんだってあんたを東京にひとり残すのは心配しそうだけど」
「いません」
「そ、即答……。そういや社の飲み会でも、恩田に声を掛けた男性をそっけなく追い払ってたよね。眼鏡ありの恩田が美人って気づくなんて貴重な人材なのに……。もしかして男嫌いなの?」
先輩は手にしたビールをぐびりと飲み、私に問いかける。当時のことを思い出し、苦い笑みが私の口元に広がった。
「嫌いなわけじゃないです。ただ、私は一人娘で父を亡くしていて、しかも母が入退院を繰り返してると話すと大抵の男性は逃げちゃうんですよね……。家庭事情が重すぎて、背負いたくないんだと思います」
父を亡くして以来、母は私を育てるために必死で働いて体を壊した。すぐに死に繋がるほど弱った訳ではないが、何度も入退院を繰り返しており、退院後は元のように元気には動けないだろう。
そういった家庭の事情を話すとほとんどの男性は私から逃げていった。私の方も深い関係になってから打ち明けるのは卑怯だと思っているから、恋愛が始まる前にうちの事情を話すことにしている。その方がお互いに傷つかずにすむから。正直な気持ちを吐露すれば、恋愛はもうこりごりだと思う気持ちもあった。
千穂先輩と店の前で別れ、電車に乗って帰宅した。父を失って高い家賃が払えなくなった私と母は、都心から離れた場所で暮らしている。通勤には一時間以上かかるが、目玉が飛び出るような家賃を払って生活するのは無理だった。
「はぁ、疲れた……。ただいま……」
母が入院してしまい、誰もいなくなった部屋に向かって呟いた。父が亡くなる前はもう少し広い部屋を借りていたが、今は2DKの古くて小さなアパートだ。でもその小さな部屋ですら一人になった私には広すぎる。
母が実家に戻るのなら、もう少し狭い部屋を借りるのもありだろう。お風呂に入ったあと、スマホを使って賃貸情報を調べることにした。が、メールチェックをした私の目に、懐かしい名前が飛び込んでくる。
「あ、星野のおじ様からメールが来てたんだ。なんだろ」
星野のおじ様というのは父の古くからの知り合いで、星野タクシーという会社の会長職を務めており、私たちの生活が困窮してから色々と助けてくれた人物でもあった。今ではあまり会う機会もないが、年賀状は毎年送るようにしている。人生の恩人とも言える大切な人なのだ。
『真梨花ちゃん、元気にしていますか。私たちは変わりなく過ごしています。実はかなり急なお願いなんだけどね――』
メールの内容を読むと、都内に家事代行を必要とする男性がいるとのことらしい。一人暮らしの男性か……。私はしばし悩んだ。
私は経済的な理由から大学進学を諦めて高校卒業後に就職しようとしたが、不景気だったためかなかなか職に就けなかった。母の勧めで家事代行の会社に一時的に入った際、私を定期的に指名してくれたのも星野のおじ様だった。
一人暮らしの男性宅に若い女性が家事代行に行くのは危険が伴うため、夫婦ふたりで暮らす星野のおじ様の家で働けるのは有難いことだったのだ。
家事代行の仕事はあまり忙しいわけではなく、空き時間も多かったから資格の勉強をした。その時に取った調理師免許や日商簿記二級、各種の資格が役立って今の会社に入社できたから、あの三年間は決して無駄ではなかったと思える貴重な時間だ。
(おじ様の頼みなら聞かないわけにはいかないな……。それにおじ様経由なら、きっと変な男性じゃないだろうし)
私はメールに書かれた住所を確認し、了承のメールを送ってから布団に潜り込んだ。依頼主は多忙な人物らしく、自宅にいるのは明日の午前中だけとのことだ。無理やり時間を作ったから急な日程になったようで、何度も詫びる丁寧な文章がおじ様らしい。
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