しつこい公爵が、わたしを逃がしてくれない

千堂みくま

文字の大きさ
上 下
34 / 38

34 ここにいたくない

しおりを挟む
 そのあとの講義はほとんど頭に入らなかった。ずっとダリオの言葉が脳裏に響いていて、他のことは考えられない。

 最初から―――最初から何もかも、ジオルドが仕組んだ事だったのだ。モルダー伯爵がわたしに惚れ薬を依頼することも、わたしが公爵家に忍び込むことも。

 今日は研究室に寄らずにまっすぐ屋敷へ戻った。頭の中が破裂しそうで苦しい。早くこの気持ちを吐き出してしまいたい。
 自分の部屋で机に突っ伏していると、背後でがちゃりとドアが開く音がした。大股で歩く誰かの気配。その誰かはわたしのすぐ横で動きを止めた。

「ノア? また具合でも悪いのか?」

 顔を上げると、惚れぼれするような美しい男がわたしの顔を覗きこんでいる。でも今はその顔を見たくない。
 わたしは気持ちを押し隠して椅子から立ち上がり、ジオルドを見つめた。

「今日、ダリオに会いました」

「ダリオ? 誰だそれは」

「わたしの元婚約者です」

 ジオルドは一瞬だけ顔を強張らせた。ほんの一瞬だけ、通りすぎるように。今はただ静かにわたしを見ている。

「……話を聞いたのか?」

「ええ、聞きました。あなたがダリオを脅したことも、モルダー伯爵がわたしに惚れ薬を依頼するように仕向けたことも……全部聞きました」

 ジオルドの顔は穏やかなままだった。それが余計に腹立たしい。

「面白かったですか? 何もかもあなたの思い通りになって。この部屋、服も下着も全部揃ってるからおかしいと思ってたんですよね。最初からわたしをこの部屋で飼うつもりだったんでしょう」

 抱きしめるつもりなのか、ジオルドが腕を伸ばしてくる。大きな手をばしっとはたき落とした。

「触らないで! わたしはあなたのペットじゃないわ。ひとを何だと思っているの? 愛しているような顔をして、わたしを振り回して、何が楽しいのよ!」 

「ノア、俺は」

「あなたなんか、大っ嫌い」

 ジオルドの顔がぐしゃりと歪んだ。何よ、どうして今さらそんな泣きそうな顔をするのよ。
 泣きたいのはわたしの方よ、この馬鹿公爵!

 逃げるように部屋を飛び出した。ジオルドの顔を見たくなかった。走って走って、気が付いたら屋敷を出て街道を歩いていた。

 これからどうしよう。もうあの屋敷には戻りたくない。大学へ行こうか? でも泊まる場所なんてあっただろうか。ダリオは―――もう大学にはいないだろうな。

 とぼとぼと歩く内に雨が降ってきた。どこかの店の軒先に入り、街が濡れていくのをじっと見つめる。せめて鞄を持ってくればよかった。お金があれば、安いホテルにでも泊まれたのに。

 ぼんやり立っていると、目の前に真っ黒な馬車が止まった。御者が扉を開け、主人らしき人が現れる。男性の顔を見た瞬間、顔が引きつりそうになった。

 この人、ノイドール伯爵だ。よりによってこんな時に出会うなんて。

「失礼。ノア・ブラキストン嬢ですかな?」

「……ええ」

「お時間をいただけませんか。是非、あなたと話したい事があるのです」

 わたしの両脇に彼の従者が立ち塞がった。丁寧な話し振りなのに、やっている事は脅しだ。貴族って脅すのが大好きなのね。
 わたしはヤケになった気分で「いいですよ」と答えた。もうジオルドの元へは戻れないのかもしれない。でも今はそんな事どうでもよかった。

 囲まれて逃げ場のない状態で馬車に乗り込む。ノイドール伯爵と従者が扉側に座ると馬車は動き出し、がたごとと振動が伝わってきた。
 首もとで宝石が揺れている。このチョーカーも取ってしまえればいいのに。いつまでもどこまでも、ジオルドからは逃げられないんだろうか。

 憂鬱なまま馬車に揺られ、窓の外が薄暗くなった頃にようやく動きが止まった。

 馬車から降りて周囲を見るとどこかの屋敷の裏門が見えた。二人の従者に挟まれた状態で門をくぐり、裏口から屋敷の中に入る。

 先頭を歩く伯爵は廊下の端にある階段を降りはじめた。この屋敷には地下室があるらしい。地下牢に閉じ込める気なのかと不安になってきた。

 階段を降りきった伯爵が一つの部屋に入り、わたしも促されて室内に足を踏み入れる。壁の上部に明かり取りのための窓があったが、部屋の中は薄暗かった。
 中央に置かれたソファに伯爵が座り、わたしは彼の向かい側に座らされる。テーブルの上ではランタンがぼんやりと光っていた。

 伯爵は一人掛けの椅子にどっかりと座り、観察するような視線をわたしに向けている。やがて彼は穏やかな口調で話し出した。世間話でもするかのようだった。

「ノア嬢はフォックス公爵と懇意にしておられるそうですな」

「……いえ、別に親しくは」

「親しくない? 先月の夜会では、あなたを巡って公爵はさる男と乱闘したそうではないですか。美しすぎるというのも大変ですなぁ。うちのマーガレットにも見習わせたいものだ」

「…………」

「しかし公爵と親しくないと言うのであれば話は早い。どうですか、バレンティン様の妃となられませんか? 私が力になりましょう」

「じっ、冗談ですよね? マーガレット嬢がすでに婚約しておられるのに」

「あの子にはあまり利用価値がありませんのでね。それに比べ、あなたは素晴らしい。ノア嬢の功績は今や誰もが知るところだ。バレンティン様とあなたが婚約すれば、彼が王太子になるのも夢ではありません」

「……わたしに何をさせるつもりなんですか?」

 伯爵の顔に張り付いていた笑みが消え、無表情になった。濁った瞳にはぎらぎらした光が宿っている。

「私はね。魔術薬という胡散臭いものが大嫌いなんですよ。あんなものは世の中から消えてしまった方がいい―――そう思っているんです。私は妻を、魔術薬の副作用で亡くしたものでね」

「…………」

「王太子妃となったあなたが主導で魔術薬を根絶やしにしてくだされば、私は満足です。それだけで良いのです。
どうですか、協力しては頂けませんか?」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。
 この人は狂っているのか? 魔術薬を失ったらほとんどの治療が満足に出来なくなるのに、堂々とこんな事を言うなんて……。

 妻を亡くした悲しみから魔術薬を憎むようになったのは分からなくもない。薬というものは常に副作用と隣り合わせで、今もわたし達はどうにかして副作用を減らせないかともがいている。
 でも伯爵の言うように魔術薬自体を全て無くしたりしたら、助かる人まで見殺しにしてしまうだろう。

「協力できません」

 伯爵は無表情のままだった。わたしがこう答えることは予期していたのか、彼はただ静かな声で「残念ですな」と漏らした。

「お話はそれだけですか。わたしはこれで……んんっ!」

 立ち上がった途端、後ろに立っていた従者がわたしの口元に湿った布を押し当てた。甘い香りが体の中に忍び込んでくる。
 この香り―――吸入麻酔薬?

「あなたはこの先、私の障害となるでしょう。悪い芽は早めに摘み取っておかねば」

 遠くで伯爵の声がしている。
 眠い。今にも眠ってしまいそう。

 意識が暗転する直前、尊大な男の顔が頭に浮かんだ。悔しい、こんな時にあの男の顔を思い出してしまうなんて。

 わたしがこんな目に会うのもあなたのせいですからね。
 責任とって、ちゃんと助けに来てくださいよ!

 どさりと何かが落ちる音がして、わたしの意識は闇に沈んだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

心を病んだ魔術師さまに執着されてしまった

あーもんど
恋愛
“稀代の天才”と持て囃される魔術師さまの窮地を救ったことで、気に入られてしまった主人公グレイス。 本人は大して気にしていないものの、魔術師さまの言動は常軌を逸していて……? 例えば、子供のようにベッタリ後を付いてきたり…… 異性との距離感やボディタッチについて、制限してきたり…… 名前で呼んでほしい、と懇願してきたり…… とにかく、グレイスを独り占めしたくて堪らない様子。 さすがのグレイスも、仕事や生活に支障をきたすような要求は断ろうとするが…… 「僕のこと、嫌い……?」 「そいつらの方がいいの……?」 「僕は君が居ないと、もう生きていけないのに……」 と、泣き縋られて結局承諾してしまう。 まだ魔術師さまを窮地に追いやったあの事件から日も浅く、かなり情緒不安定だったため。 「────私が魔術師さまをお支えしなければ」 と、グレイスはかなり気負っていた。 ────これはメンタルよわよわなエリート魔術師さまを、主人公がひたすらヨシヨシするお話である。 *小説家になろう様にて、先行公開中*

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。

石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。 すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。 なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。

【完結】お見合いに現れたのは、昨日一緒に食事をした上司でした

楠結衣
恋愛
王立医務局の調剤師として働くローズ。自分の仕事にやりがいを持っているが、行き遅れになることを家族から心配されて休日はお見合いする日々を過ごしている。 仕事量が多い連休明けは、なぜか上司のレオナルド様と二人きりで仕事をすることを不思議に思ったローズはレオナルドに質問しようとするとはぐらかされてしまう。さらに夕食を一緒にしようと誘われて……。 ◇表紙のイラストは、ありま氷炎さまに描いていただきました♪ ◇全三話予約投稿済みです

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

城内別居中の国王夫妻の話

小野
恋愛
タイトル通りです。

【完】皇太子殿下の夜の指南役になったら、見初められました。

112
恋愛
 皇太子に閨房術を授けよとの陛下の依頼により、マリア・ライトは王宮入りした。  齢18になるという皇太子。将来、妃を迎えるにあたって、床での作法を学びたいと、わざわざマリアを召し上げた。  マリアは30歳。関係の冷え切った旦那もいる。なぜ呼ばれたのか。それは自分が子を孕めない石女だからだと思っていたのだが───

処理中です...