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10 令嬢パトリシア

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 少しの休憩をはさみ、次の講師がやって来た。バロウズ侯爵令嬢パトリシアだ。艶やかな黒髪とばら色の唇が彼女のきりっとした顔立ちに良く合っている。

 パトリシアの動きも洗練されていて、アイリスは束の間見とれてしまった。なるほど、そのように動けばいいのかと何回かお辞儀の練習をしていると、パトリシアが怪訝けげんな顔をする。

「殿下、時間が勿体ないですからご着席ください」

 動きも話し方もテキパキと無駄のない人で、アイリスは流されるまま大人しく椅子に座った。
 パトリシアはアイリスの左側に座り、自分のテキストを見ながら解説していく。彼女の教え方は独特で、歴史を古い方からではなく現在からさかのぼるように説明するのだった。

「わが国とマルシアノ公国は現在でもあまり友好的とは言えません。殿下もご存知ですね?」

「はい」

「仲たがいの原因となった戦争は、今から約二百年前に起こったのですが―――」

 まず現状を理解し、なぜそうなったかを考える。歴史なんて退屈そうと思っていたアイリスだったが、講義が終わる頃には歴史の大まかな流れを理解していた。パトリシアの教え方はアイリスのような初心者にぴったりであった。

 彼女はレッスンの最後に、今日学んだことを教えてくださいとアイリスに言う。閉じられたテキストの表紙を睨みながら何とか説明したが、少しでも間違うと「違います。そんな事では王妃は務まりませんよ」と厳しい叱咤が飛んできた。

 王様と同じぐらいスパルタな人だと思いつつ、アイリスはこの令嬢に対して好意を持った。少なくともメリンダよりはずっといい。真面目に教えてくれるし、間違えばちゃんと指摘してくれるのだから。



 夕食のとき、アイリスはこれまでになく真剣にヨシュアの動きを観察した。王様はほとんど物音を立てずに食事している。どの動作も優雅でずっと見ていたくなるほど美しい。

 どうしてこんなに綺麗に見えるんだろう。顔とスタイルがいいから?

 生まれた瞬間から王子として生きてきた人と偽物の王女では、天と地ほども差が開いている。同じように、妃となるべく努力してきたあの二人の令嬢とも。
 メリンダのことを思い出し暗い気分になっていると、真向かいに座ったヨシュアが今日は何をしたのかと聞いてくる。嘘を話す必要もないので、アイリスはあった事をそのまま話した。

「ふうん。メリンダとパトリシアで態度にずい分差があるのだな。貴女はどちらの令嬢が気に入ったのだ?」

「パトリシア嬢です」

「なぜ? かなり叱られたのだろう。怖い人は嫌なんじゃないのか?」

 口元をにやりと歪めながら王様が言う。分かっているくせに、わざと意地悪な言い方をしているのだ。アイリスはふん、と顔を背けながら答える。

「怖くても間違いを教えてくれる人の方が好きです。パトリシア嬢はわたしに『そんな事では王妃は務まらない』と言いました。でもそれはつまり、王妃になりたいのならもっと頑張れという意味だと思うので」

 視界の端で、ヨシュアが満足そうに頷いた。何となく面白くない。

 別に、あなたのために王妃を目指してるわけじゃありませんからね。わたしは自分の目標のために、頑張ろうと思ってるだけですからね!―――と力説したい気持ちになる。しないけど。

「それで、どうする? このままではメリンダは貴女に何も教えようとしないだろう。何か手を打つべきじゃないか?」

 他人事だからって、楽しそうに言わないでほしい。
 アイリスはムカムカしながら言葉を返す。

「次のレッスンでは部屋の中に見学者を入れようと思います。ひとの目があれば、メリンダ様も変なマナーを教えたりしないのではないかと……」

「ああ、なるほど。―――ティオ!」

 ヨシュアが隣室へ向かって呼びかけると、すぐさまドアが開き少年が「何ですか」と顔を出した。

「お前は明日からアイリスに同行してくれ。ちゃんと貴族に見える格好をして行けよ」

「ええ~……。分かりました……」

 何だかすごく嫌そう。アイリスはおどおどしながら「お願いします」と声を掛けた。ティオは憮然とした顔のまま、低い声で「はい」と返事をする。

 もうそろそろ退室する時間だ。アイリスは椅子から立ち、今日習った礼をヨシュアに見せた。彼は「なかなかいい」と呟きながら近寄ってくる。

 またアレをするつもりなのかしら。でもわたしだって、いつもやられてばかりじゃないわ。

 銀の睫毛がよく見えるほど近付いた瞬間、彼女は端正な顔をがしっと掴んでその白い頬にキスをしてあげた。王様は目を見張りながら頬を撫でている。

 ―――やった。今日はわたしの勝ち。

 よく分からない勝負の結果に満足して微笑むと、ヨシュアもにこりと笑う。だけどそれで終わりではなかった。彼はアイリスの顎に手をかけ、なんと唇にキスをしたのだ。

 勝利の余韻に浸っていたアイリスは何の抵抗もできずにそれを受け入れてしまった。温かく柔らかなものが唇に当たっている。金と銀の髪が混じり合うのまでしっかり見えた。

 唇を離した彼は、熱のこもった瞳でアイリスを見つめている。

「……おやすみ」

「お、おやしゅみ、なひゃい」

 うまく動かない口で挨拶したあと、カクカクしながら部屋を出た。でもその後はよく覚えていない。気が付いたら浴槽の中でぼけっとしていて、手が勝手に唇をいじっている。マーサに「痛いのですか、お薬でも塗ります?」と聞かれた。

 ハッと正気に返ったアイリスは、ばしゃばしゃと派手に顔を洗ってごまかした。さっさと寝てしまおう。明日になればさっきのことも忘れてるかもしれないし。

 だけど寝台へ横になってからも、無意識に手が唇を触ってしまう。
 ああもう嫌。早く寝なきゃならないのに。明日だってやる事は山積みなのに。

 目を閉じるとヨシュアの吐息や触れたときの感触がよみがえって来て、アイリスは身悶えしながら何度も寝返りを打ち、よく眠れないまま朝を迎えてしまった。
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