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6 貴族たち
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ティオに続いて朝議の部屋に入る。壁をぶち抜いて二つの部屋を繋げたような広い場所に、巨大な長方形の机が置かれていた。
アイリスが入室した途端、部屋がシンと静まりかえり数十人の目が一斉に彼女に集まる。入り口から最も遠い席にヨシュアが座っているのが見え、アイリスはティオを追いかけるようにして新王のもとへ急いだ。
アイリスを送り届けたティオが下がり、ヨシュアが立ち上がって婚約者の手を取る。彼は貴族に向かって高らかに宣言した。
「朝議の前に皆へ報告したい。私と前王の息女アイリス姫は、婚約を結んだ」
静かだった貴族たちが一斉にざわめきだす。「なんと」だの「そんな」だの言う声がアイリスにも聞こえてきた。いく人かの男性は顔をしかめ、不服そうに声を上げる。
「陛下、ご冗談でしょう。アイリス様は、陛下の母君に横恋慕した卑しい男の娘ですぞ!」
「簒奪者の娘と婚約して何の得があるというのです。アイリス様には後ろ盾もないのに―――」
会議場に響く声をアイリスはただ黙って聞いていた。
陛下の母君に横恋慕した男の娘、簒奪者の娘――予想はしていたが、やはり父はとんでもない人でなしだったようだ。ほとんど会ったこともないけれど。
ヨシュアはしばらく貴族たちの言い分を聞いたあと、穏やかな口調で話し出した。
「後ろ盾のない彼女だからこそ選んだのだ。アイリスと私が婚約したところで誰の得にもならない。政権が交代し情勢が不安定な現状では、特定の貴族とだけ関係を深めるのは危険だ。他に言い分のある者は?」
急に静かになった。苦虫を噛み潰したような顔をしている者、無表情に王とアイリスを見つめる者。
とりあえず王女に対して好意をもつ人物がいないことだけは分かり、アイリスはそっと目を伏せた。体が震えそうになるのをこらえるだけで精一杯だ。早くこの部屋から出てしまいたい。
ヨシュアがアイリスの背中をぽんとたたいた。顔を上げると、彼はアイリスの耳元で「頑張ったな。もういいぞ」と囁く。アイリスは小さく頷き、逃げるように会場から出た。
長い廊下を抜けて王妃の私室を目指す。貴族には反対されたけれど、アイリスの居場所はそこしかなかった。侍女に下がるように伝え、部屋に入って寝台にうつ伏せになる。
離宮へ帰りたい―――絶対に口には出せないが、離宮が恋しくてたまらなかった。古い建物だったから夏は暑いし冬は凍えるほど寒かったけど。
でも悪意とは無縁の、いつも日の光が差し込むような温かい場所だった……。
どれぐらいそうしていたのか、しばらくして部屋のドアがノックされた。アイリスは聞こえないフリをする。泣いてぐちゃぐちゃになった顔なんか誰にも見られたくない。
なのにしつこくノックが繰り返され、アイリスは思わず「何のご用ですか!」と叫んだ。
ドアが開いて予想通りの人物が部屋に入ってくる。涙をぬぐいもせずに青年を睨んだが、相手は全く気にする様子もなかった。
ヨシュアは視線を合わせるようにアイリスの横にしゃがみ、優しい声音で囁く。
「王妃になるというのは生半可なことではない。例え誰が選ばれようと、不満を漏らす者は必ずいる。今後も貴女にはつらい出来事が続くだろう。どうする? 王妃は諦めるか?」
声は優しいのに、表情は怖いぐらい真剣だった。
ようやく自分が試されていることに気づき、アイリスの涙はあっという間に乾いていった。
この王はわざと貴族の非難をアイリスに聞かせたのだ。これぐらいで萎れるようでは王妃は務まらないと、それでも王妃になりたいのかと試すために。
なんて意地の悪い人だろう。アイリスはさらに強くヨシュアを睨みつけた。
「諦めません。これぐらい、平気です!」
ヨシュアは微笑みながら頷き、アイリスの方へ顔を寄せてくる。何をするつもりなのかと身構えていると、閉じられた目元に柔らかなものが触れた。眉間にも、額にも。
呆然としている内に端正な顔が離れていった。キスされたのだと分かった途端、顔が燃えるようにかあっと熱くなる。
「え、い、いま……」
「―――愛しい人。俺は国王の執務室へ戻る。落ち着いたら貴女もおいで」
口をぱくぱくさせている間に王様は出て行ってしまった。アイリスはしばし置物のように固まったあと、寝台にうつ伏せになってじたばたと暴れた。
大切そうにキスされ、愛しい人と言われ。男性に免疫のないアイリスには刺激が強すぎた。湯気が出そうなぐらい顔が熱い。
もうだめ、耐えられない!
アイリスは浴室に駆け込み、冷水でなんども顔を洗った。髪までびしょ濡れになったが、おかげで顔も頭もスッキリしてくる。
鏡に映った少女に言い聞かせるように呟いた。
落ち着くのよ。わたしとあの人では九つも年が離れているんだから、こういう事で振り回されるのは仕方がないの。ただの経験の差だから。経験の―――。
“あの子は経験豊富だからね、何だって知ってるんだよ”。
突然若い娘の声が脳裏によみがえり、アイリスは慌てて鏡から目をそらした。どうしてこんな時に。せっかく落ち着いてきたのに。
離宮は狭いから使用人の話がどうしても耳に入ってしまう。特に若い娘たちは色恋の話が大好きで、よく炊事場できゃあきゃあ言いながら騒いでいたものだった。
いつかは自分だって、そういう事をするのかもしれないと覚悟していた。でもまさか、こんな急に誰かと婚約するなんて予想もしていなかったのに。
婚約したからには、さっきのような事にも慣れていかなければ。
ううん、もっとすごい事もしないといけないんだわ。だって王様にはお世継ぎが必要なんだから……。
“世継ぎ”の言葉はさらにアイリスを動揺させる。世継ぎを産むのは自分なのだ。
アイリスは再び冷水で顔を洗い始める。
それからしばらくの間、王妃の浴室からばしゃばしゃという水音が響き続けた。
アイリスが入室した途端、部屋がシンと静まりかえり数十人の目が一斉に彼女に集まる。入り口から最も遠い席にヨシュアが座っているのが見え、アイリスはティオを追いかけるようにして新王のもとへ急いだ。
アイリスを送り届けたティオが下がり、ヨシュアが立ち上がって婚約者の手を取る。彼は貴族に向かって高らかに宣言した。
「朝議の前に皆へ報告したい。私と前王の息女アイリス姫は、婚約を結んだ」
静かだった貴族たちが一斉にざわめきだす。「なんと」だの「そんな」だの言う声がアイリスにも聞こえてきた。いく人かの男性は顔をしかめ、不服そうに声を上げる。
「陛下、ご冗談でしょう。アイリス様は、陛下の母君に横恋慕した卑しい男の娘ですぞ!」
「簒奪者の娘と婚約して何の得があるというのです。アイリス様には後ろ盾もないのに―――」
会議場に響く声をアイリスはただ黙って聞いていた。
陛下の母君に横恋慕した男の娘、簒奪者の娘――予想はしていたが、やはり父はとんでもない人でなしだったようだ。ほとんど会ったこともないけれど。
ヨシュアはしばらく貴族たちの言い分を聞いたあと、穏やかな口調で話し出した。
「後ろ盾のない彼女だからこそ選んだのだ。アイリスと私が婚約したところで誰の得にもならない。政権が交代し情勢が不安定な現状では、特定の貴族とだけ関係を深めるのは危険だ。他に言い分のある者は?」
急に静かになった。苦虫を噛み潰したような顔をしている者、無表情に王とアイリスを見つめる者。
とりあえず王女に対して好意をもつ人物がいないことだけは分かり、アイリスはそっと目を伏せた。体が震えそうになるのをこらえるだけで精一杯だ。早くこの部屋から出てしまいたい。
ヨシュアがアイリスの背中をぽんとたたいた。顔を上げると、彼はアイリスの耳元で「頑張ったな。もういいぞ」と囁く。アイリスは小さく頷き、逃げるように会場から出た。
長い廊下を抜けて王妃の私室を目指す。貴族には反対されたけれど、アイリスの居場所はそこしかなかった。侍女に下がるように伝え、部屋に入って寝台にうつ伏せになる。
離宮へ帰りたい―――絶対に口には出せないが、離宮が恋しくてたまらなかった。古い建物だったから夏は暑いし冬は凍えるほど寒かったけど。
でも悪意とは無縁の、いつも日の光が差し込むような温かい場所だった……。
どれぐらいそうしていたのか、しばらくして部屋のドアがノックされた。アイリスは聞こえないフリをする。泣いてぐちゃぐちゃになった顔なんか誰にも見られたくない。
なのにしつこくノックが繰り返され、アイリスは思わず「何のご用ですか!」と叫んだ。
ドアが開いて予想通りの人物が部屋に入ってくる。涙をぬぐいもせずに青年を睨んだが、相手は全く気にする様子もなかった。
ヨシュアは視線を合わせるようにアイリスの横にしゃがみ、優しい声音で囁く。
「王妃になるというのは生半可なことではない。例え誰が選ばれようと、不満を漏らす者は必ずいる。今後も貴女にはつらい出来事が続くだろう。どうする? 王妃は諦めるか?」
声は優しいのに、表情は怖いぐらい真剣だった。
ようやく自分が試されていることに気づき、アイリスの涙はあっという間に乾いていった。
この王はわざと貴族の非難をアイリスに聞かせたのだ。これぐらいで萎れるようでは王妃は務まらないと、それでも王妃になりたいのかと試すために。
なんて意地の悪い人だろう。アイリスはさらに強くヨシュアを睨みつけた。
「諦めません。これぐらい、平気です!」
ヨシュアは微笑みながら頷き、アイリスの方へ顔を寄せてくる。何をするつもりなのかと身構えていると、閉じられた目元に柔らかなものが触れた。眉間にも、額にも。
呆然としている内に端正な顔が離れていった。キスされたのだと分かった途端、顔が燃えるようにかあっと熱くなる。
「え、い、いま……」
「―――愛しい人。俺は国王の執務室へ戻る。落ち着いたら貴女もおいで」
口をぱくぱくさせている間に王様は出て行ってしまった。アイリスはしばし置物のように固まったあと、寝台にうつ伏せになってじたばたと暴れた。
大切そうにキスされ、愛しい人と言われ。男性に免疫のないアイリスには刺激が強すぎた。湯気が出そうなぐらい顔が熱い。
もうだめ、耐えられない!
アイリスは浴室に駆け込み、冷水でなんども顔を洗った。髪までびしょ濡れになったが、おかげで顔も頭もスッキリしてくる。
鏡に映った少女に言い聞かせるように呟いた。
落ち着くのよ。わたしとあの人では九つも年が離れているんだから、こういう事で振り回されるのは仕方がないの。ただの経験の差だから。経験の―――。
“あの子は経験豊富だからね、何だって知ってるんだよ”。
突然若い娘の声が脳裏によみがえり、アイリスは慌てて鏡から目をそらした。どうしてこんな時に。せっかく落ち着いてきたのに。
離宮は狭いから使用人の話がどうしても耳に入ってしまう。特に若い娘たちは色恋の話が大好きで、よく炊事場できゃあきゃあ言いながら騒いでいたものだった。
いつかは自分だって、そういう事をするのかもしれないと覚悟していた。でもまさか、こんな急に誰かと婚約するなんて予想もしていなかったのに。
婚約したからには、さっきのような事にも慣れていかなければ。
ううん、もっとすごい事もしないといけないんだわ。だって王様にはお世継ぎが必要なんだから……。
“世継ぎ”の言葉はさらにアイリスを動揺させる。世継ぎを産むのは自分なのだ。
アイリスは再び冷水で顔を洗い始める。
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