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36 その頃イグニスは
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朝に目覚め、訓練場に行ってから「そうか、あいつはいないんだった」と思い出す。食事のときには角を挟んだ隣の席が空いていることに改めて失望し、夜には空き部屋になった室内で呆然と立ち尽くす。
イグニスは何日もおなじような日々をくり返していた。
(くそっ。なんで出て行ったんだよ)
ルルシェが王都に行った理由はすでに分かっている。侍従長が問題の本を持ってきてくれたからだ。でも本を読んでも他になにか方法があったのではないかと考えてしまい、どうしても納得できない。俺が守ると言っておきながら、逆にルルシェに守られた自分が情けなくて悔しい。
(あんなに細くて小さかった奴に守られるなんてな……)
イグニスはルルシェが使っていた寝台に寝転がった。かすかに彼女の香りがして落ち着く。ルルシェが子供のころには、こんな香りには気づかなかったが。
初めて会った日、あまりに美しいので人形かと思った。父親らしき人物の隣で微動だにせず立っているので、作り物なのかと思って近づいたのだ。
しかし間近で見たルルシェは確かに呼吸をしており、イグニスの問いかけに貴族の令息らしい返答をした。
「初めまして、殿下。僕はスタレートン伯爵の息子、ルルシェと申します」
正直、「なんだこいつ、出来すぎだろ」と思ったのを覚えている。見た目も中身も完璧なんて薄気味悪い。本当に人間か?
イグニスはルルシェを城に呼んで仕事を手伝わせたが、ずっと父親の領地経営を見てきた彼女は遺憾なく能力を発揮した。イグニスよりも有能だったと思う。五つも年下なのに、だ。ますます面白くない。
(それは本当のおまえじゃないだろ。もっと子供らしい顔を見せてみろよ)
イグニスはルルシェをそそのかすように木登りをしたり、池で泳いだりした。だがそのうち自分が遊びに夢中になり、今まで我慢してきたイタズラを遠慮なくするようになっていった。枝を揺らしすぎて折ったり、大木を斧で切り倒したり。
ルルシェは咎めることもなく傍でじっとイグニスを見ていた。どう思っていたのかはよく分からない。
しかし次第にルルシェもイグニスと一緒にちょっとは遊ぶようになったので、二人が兄弟のように仲良くなるのに時間は掛からなかった。
ルルシェは十歳になった頃、高熱を出して倒れたことがある。親から離れ、しかも他人の城で性別を隠しながら暮らしていたから心労がたまったのだろう。
侍従たちは彼女の面倒を見ようとしたが、体をふくのだけは頑なに嫌がった。
夜にルルシェの自室を訪ねると、寝台の上で真っ赤な顔をして寝ている。額には汗がにじみ、髪の毛が張り付いていた。
イグニスは侍従からお湯が入った桶と布巾を借り、彼女の体を拭いてやることにした。ルルシェは昏々と眠っていたし、主君である自分がふけば拒めないだろうと思ったのだ。
毛布をめくってもピクリともしない。完全に寝ている――というより意識がない様子だ。イグニスは恐る恐る彼女の服を脱がせた。ただし、上半身だけ。下はさすがに遠慮した。
十歳のルルシェは当然ながら胸はふくらんでおらず、子供らしい体つきをしている。だからイグニスも彼女が女だとは気づかなかったが、透きとおるような白い肌を拭いているうちに妙な気分になってきた。汗をふいているだけなのに、長い銀の睫毛や柔らかそうな唇に目を奪われる。
(俺はこんな子供に何をドキドキしてるんだ。いくら女が苦手だからって、少年相手に興奮するなんて変態みたいじゃないか)
イグニスは自分を恥じ、ますます女嫌いを変な方向へこじらせていった。自覚のないままに。
元気になったルルシェはまたイグニスの側近として働き始めた。が、イグニスはもう彼女のことを、今までのように“可愛い弟”だとは思えなくなっていた。
ルルシェが近寄れば小さな美しい顔に見入ってしまうし、いなくなったら無意識に姿を探してしまう。令嬢たちと出会っても無意識にルルシェと比較して、「あれが駄目だ、これが駄目だ」と評価してしまう。
まるで恋でもしているかのような状態で、自分はやはりおかしいのかと悩んだ。
苦しまぎれに彼女を仕事でこき使ったり、意地悪を言ったり――そうして自分の気持ちをごまかす日々が何年も続いた。
だから雨宿りをした日の失言は、本音だったのだ。
「おまえが女だったらなあ……」
あの言葉の直後、ルルシェは「なんですって?」と怒りをあらわにしていた。当然だ。男なのに性別を否定するようなことを言われたのだから。
しかしイグニスの立場にもなってほしい。ルルシェは成長するごとに女性らしい色香を放つようになっていたから、イグニスは男性として自然に惹きつけられただけだ。彼に罪はない。
彼はただ、不運なだけである。好きになった相手が、男として生きていくと決めた女性だったので。
ルルシェはイグニスの苦しみも知らず、しつこく誰かと結婚しろと勧めてくる。夜会の前日には「そろそろ本気を出してもらわないと困ります」などと言い、イグニスの心を容赦なくえぐった。ひとの気も知らないで、と恨めしく思ったものだ。
しかし夜会ではルルシェが女ではないかと疑う出来事に恵まれたので、行ってよかったと今では思っている。
イグニスは何日もおなじような日々をくり返していた。
(くそっ。なんで出て行ったんだよ)
ルルシェが王都に行った理由はすでに分かっている。侍従長が問題の本を持ってきてくれたからだ。でも本を読んでも他になにか方法があったのではないかと考えてしまい、どうしても納得できない。俺が守ると言っておきながら、逆にルルシェに守られた自分が情けなくて悔しい。
(あんなに細くて小さかった奴に守られるなんてな……)
イグニスはルルシェが使っていた寝台に寝転がった。かすかに彼女の香りがして落ち着く。ルルシェが子供のころには、こんな香りには気づかなかったが。
初めて会った日、あまりに美しいので人形かと思った。父親らしき人物の隣で微動だにせず立っているので、作り物なのかと思って近づいたのだ。
しかし間近で見たルルシェは確かに呼吸をしており、イグニスの問いかけに貴族の令息らしい返答をした。
「初めまして、殿下。僕はスタレートン伯爵の息子、ルルシェと申します」
正直、「なんだこいつ、出来すぎだろ」と思ったのを覚えている。見た目も中身も完璧なんて薄気味悪い。本当に人間か?
イグニスはルルシェを城に呼んで仕事を手伝わせたが、ずっと父親の領地経営を見てきた彼女は遺憾なく能力を発揮した。イグニスよりも有能だったと思う。五つも年下なのに、だ。ますます面白くない。
(それは本当のおまえじゃないだろ。もっと子供らしい顔を見せてみろよ)
イグニスはルルシェをそそのかすように木登りをしたり、池で泳いだりした。だがそのうち自分が遊びに夢中になり、今まで我慢してきたイタズラを遠慮なくするようになっていった。枝を揺らしすぎて折ったり、大木を斧で切り倒したり。
ルルシェは咎めることもなく傍でじっとイグニスを見ていた。どう思っていたのかはよく分からない。
しかし次第にルルシェもイグニスと一緒にちょっとは遊ぶようになったので、二人が兄弟のように仲良くなるのに時間は掛からなかった。
ルルシェは十歳になった頃、高熱を出して倒れたことがある。親から離れ、しかも他人の城で性別を隠しながら暮らしていたから心労がたまったのだろう。
侍従たちは彼女の面倒を見ようとしたが、体をふくのだけは頑なに嫌がった。
夜にルルシェの自室を訪ねると、寝台の上で真っ赤な顔をして寝ている。額には汗がにじみ、髪の毛が張り付いていた。
イグニスは侍従からお湯が入った桶と布巾を借り、彼女の体を拭いてやることにした。ルルシェは昏々と眠っていたし、主君である自分がふけば拒めないだろうと思ったのだ。
毛布をめくってもピクリともしない。完全に寝ている――というより意識がない様子だ。イグニスは恐る恐る彼女の服を脱がせた。ただし、上半身だけ。下はさすがに遠慮した。
十歳のルルシェは当然ながら胸はふくらんでおらず、子供らしい体つきをしている。だからイグニスも彼女が女だとは気づかなかったが、透きとおるような白い肌を拭いているうちに妙な気分になってきた。汗をふいているだけなのに、長い銀の睫毛や柔らかそうな唇に目を奪われる。
(俺はこんな子供に何をドキドキしてるんだ。いくら女が苦手だからって、少年相手に興奮するなんて変態みたいじゃないか)
イグニスは自分を恥じ、ますます女嫌いを変な方向へこじらせていった。自覚のないままに。
元気になったルルシェはまたイグニスの側近として働き始めた。が、イグニスはもう彼女のことを、今までのように“可愛い弟”だとは思えなくなっていた。
ルルシェが近寄れば小さな美しい顔に見入ってしまうし、いなくなったら無意識に姿を探してしまう。令嬢たちと出会っても無意識にルルシェと比較して、「あれが駄目だ、これが駄目だ」と評価してしまう。
まるで恋でもしているかのような状態で、自分はやはりおかしいのかと悩んだ。
苦しまぎれに彼女を仕事でこき使ったり、意地悪を言ったり――そうして自分の気持ちをごまかす日々が何年も続いた。
だから雨宿りをした日の失言は、本音だったのだ。
「おまえが女だったらなあ……」
あの言葉の直後、ルルシェは「なんですって?」と怒りをあらわにしていた。当然だ。男なのに性別を否定するようなことを言われたのだから。
しかしイグニスの立場にもなってほしい。ルルシェは成長するごとに女性らしい色香を放つようになっていたから、イグニスは男性として自然に惹きつけられただけだ。彼に罪はない。
彼はただ、不運なだけである。好きになった相手が、男として生きていくと決めた女性だったので。
ルルシェはイグニスの苦しみも知らず、しつこく誰かと結婚しろと勧めてくる。夜会の前日には「そろそろ本気を出してもらわないと困ります」などと言い、イグニスの心を容赦なくえぐった。ひとの気も知らないで、と恨めしく思ったものだ。
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