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35 下働き
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両親と別れた二日後、ルルシェは再びアイオンと謁見していた。呼び出された場所は大広間ではなく、こじんまりとした部屋だった。
机の上にはメイド服と一枚の白い布、そしてなぜかメガネが置かれている。アイオンはルルシェを手招きし、向かい側の椅子に座らせた。
「少し訊きたいことがあってね。イグニスのことなんだけど」
王子の名が出た瞬間、体が強張ってしまった。すでに懐かしさを感じる名前だが、ルルシェは今でも朝になると空を見上げ、「今ごろ殿下は朝の鍛錬をしているかな」と思い出している。
「……殿下がどうかしたのですか?」
「君とイグニスは、もしかして恋仲なのかい?」
「いいえ。たしかに殿下は僕……私を可愛がってくださいましたが、恐らく私が女らしくないから苦手意識がなかったのではないかと」
イグニスがルルシェを気に入っていたのは、トラウマを気にせず触れる女だったからだ。思春期を女嫌いのまま過ごしてきた彼は、やっと嫌悪感のない女を見つけて浮かれていたんだろう。
ルルシェが好きだったわけではない。恋に恋していただけだと思う。
ルルシェの返答を聞いたアイオンは少し首をかしげ、不思議そうな顔をした。
「そう? 君たちが僕のところに来たと連絡したら、あいつ真っ青な顔で王宮に駆け込んで来たんだよ。しかも、『ルルシェを殺さないでくれ!』って泣きながら僕に訴えてね」
「えっ……」
(な、何やってんのあの人。恥ずかしいことしないでよ……!)
自分のことのように恥ずかしく、ルルシェは赤くなってうつむいた。
「君は王宮で働くことになっただろう? イグニスは君を探しあてて、メイドどころか侍従のように傍に置こうとするんじゃないかな。そうなると罰の意味がなくなってしまうから、変装できるように三角巾とメガネを用意した。君はとても目立つし、髪と目を隠した方がいいと思う」
「お、お待ちください。殿下はマラハイドの領主なのですから、そんなに王宮へは来ないでしょう? なぜ変装する必要が……」
男装が終わったのに、また変装するなんて嫌だ。ルルシェは慌てて国王である青年に問うたが、彼はきょとんとした顔で答える。
「あ、ごめんね。まだ言ってなかったな……。僕は二ヵ月後に譲位することを決めたんだ。今回スタレートンまで行ったけれど、向こうで体調を崩してしまってね。侍医とも相談したが、もう譲位した方がいいと判断した。だから二ヵ月後にはイグニスが国王になるんだよ」
(そんなぁ。たった二ヶ月じゃ、殿下の怒りがおさまっているとは思えないのに)
せめて一年ぐらいは会いたくなかった。
ルルシェは失望しがっくりとうな垂れたが、向かい側ではアイオンがどこか楽しそうに言葉を続ける。
「とても楽しみだね。イグニスが王になるなんて」
「……どうして楽しいのですか……」
次に会ったら絶対怒られる。絶対恨まれてる。今もマラハイドの城のなかで、イライラしながら誰かに八つ当たりしてるんじゃないだろうか。あの女、よくも最後まで騙したな、とか言って。
「あいつ、子供の頃からなんでも僕に譲ってばかりだった。僕は兄だし体が弱いから、遠慮していたんだろうけどね。自分のものを僕に差し出すかわりに妹を可愛がっていたみたいだけど、ジャスミンも成長して嫌がるようになっていたからなぁ……。大丈夫かなと心配してたんだよ」
「? なんの心配ですか?」
「なんでも僕に譲るから、本当に欲しいものは何なのか、分からなくなるんじゃないかなって。だから、泣きながら君のことを助けてくれと叫ぶあいつを見て嬉しかったよ。ルルシェ嬢のことを、本気で大切に思ってるんだと分かったからね」
「はあ……」
いまの話の流れだと、イグニスはルルシェを妹姫の代わりにしているように思えるのだが。
しかし弟への愛にほほえむ国王の気持ちに水を差すわけにはいかず、ルルシェは黙して本音を心の中にとどめた。
「ふふ、イグニスの恋は前途多難そうだな……。そうだ、名前も変えたほうがいいよ。どういう名がいいかな?」
「ええと……。そうですね。ルーナにします」
「なるほど、月か。君にぴったりの名だね。メイド長に伝えておこう」
ルルシェはメイド服と変装セットを持って退室した。まだメイドとしての配置が決まっていないので一旦は塔に戻ったが、しばらくして壮年の女性がルルシェの部屋を訪ね、メイド長だと名乗る。
「今後はルーナとお呼びいたします。では、ルーナが使う部屋へ参りましょう」
メイド長はきびきびとした動きで先に立ち、ルルシェが使う部屋へ案内してくれた。王宮の西棟――下働きの者が寝起きしている場所だ。このエリアには爵位を持つ貴族はまず来ない。もちろん、国王も。
メイドなのに一人部屋だったので、理由を尋ねるとルルシェの見た目は非常に目立つから、変装をといた姿を誰にも見られないようにしてほしいのだと言う。
ルルシェは頷き、自室のなかでメイド服に着がえた。髪は結い上げて三角巾のなかに隠し、最後にメガネを装着。母が置いていってくれた手鏡で姿を見ると、もはやルルシェとは思えない地味な女が映っていた。これならばイグニスの目もごまかせそうだ。
部屋を出て、掃除用具を保管してある場所へ行く。ルルシェの担当は王宮の北に広がる庭の掃除である。広大なので、何人かで手分けして掃除しているらしい。ホウキを手に持って庭へ出ると、すでに三人のメイドが木の葉を集めていた。
ルルシェはルーナだと名乗り、よろしくお願いしますと挨拶してから掃除を始める。それにしても大きな庭だ。イグニスの城も広かったが、管理は全て下働きの者たちがやってくれていた。
(掃除って、意外と体力を使うんだな……)
ルルシェは新鮮な気持ちで木の葉を集めた。
机の上にはメイド服と一枚の白い布、そしてなぜかメガネが置かれている。アイオンはルルシェを手招きし、向かい側の椅子に座らせた。
「少し訊きたいことがあってね。イグニスのことなんだけど」
王子の名が出た瞬間、体が強張ってしまった。すでに懐かしさを感じる名前だが、ルルシェは今でも朝になると空を見上げ、「今ごろ殿下は朝の鍛錬をしているかな」と思い出している。
「……殿下がどうかしたのですか?」
「君とイグニスは、もしかして恋仲なのかい?」
「いいえ。たしかに殿下は僕……私を可愛がってくださいましたが、恐らく私が女らしくないから苦手意識がなかったのではないかと」
イグニスがルルシェを気に入っていたのは、トラウマを気にせず触れる女だったからだ。思春期を女嫌いのまま過ごしてきた彼は、やっと嫌悪感のない女を見つけて浮かれていたんだろう。
ルルシェが好きだったわけではない。恋に恋していただけだと思う。
ルルシェの返答を聞いたアイオンは少し首をかしげ、不思議そうな顔をした。
「そう? 君たちが僕のところに来たと連絡したら、あいつ真っ青な顔で王宮に駆け込んで来たんだよ。しかも、『ルルシェを殺さないでくれ!』って泣きながら僕に訴えてね」
「えっ……」
(な、何やってんのあの人。恥ずかしいことしないでよ……!)
自分のことのように恥ずかしく、ルルシェは赤くなってうつむいた。
「君は王宮で働くことになっただろう? イグニスは君を探しあてて、メイドどころか侍従のように傍に置こうとするんじゃないかな。そうなると罰の意味がなくなってしまうから、変装できるように三角巾とメガネを用意した。君はとても目立つし、髪と目を隠した方がいいと思う」
「お、お待ちください。殿下はマラハイドの領主なのですから、そんなに王宮へは来ないでしょう? なぜ変装する必要が……」
男装が終わったのに、また変装するなんて嫌だ。ルルシェは慌てて国王である青年に問うたが、彼はきょとんとした顔で答える。
「あ、ごめんね。まだ言ってなかったな……。僕は二ヵ月後に譲位することを決めたんだ。今回スタレートンまで行ったけれど、向こうで体調を崩してしまってね。侍医とも相談したが、もう譲位した方がいいと判断した。だから二ヵ月後にはイグニスが国王になるんだよ」
(そんなぁ。たった二ヶ月じゃ、殿下の怒りがおさまっているとは思えないのに)
せめて一年ぐらいは会いたくなかった。
ルルシェは失望しがっくりとうな垂れたが、向かい側ではアイオンがどこか楽しそうに言葉を続ける。
「とても楽しみだね。イグニスが王になるなんて」
「……どうして楽しいのですか……」
次に会ったら絶対怒られる。絶対恨まれてる。今もマラハイドの城のなかで、イライラしながら誰かに八つ当たりしてるんじゃないだろうか。あの女、よくも最後まで騙したな、とか言って。
「あいつ、子供の頃からなんでも僕に譲ってばかりだった。僕は兄だし体が弱いから、遠慮していたんだろうけどね。自分のものを僕に差し出すかわりに妹を可愛がっていたみたいだけど、ジャスミンも成長して嫌がるようになっていたからなぁ……。大丈夫かなと心配してたんだよ」
「? なんの心配ですか?」
「なんでも僕に譲るから、本当に欲しいものは何なのか、分からなくなるんじゃないかなって。だから、泣きながら君のことを助けてくれと叫ぶあいつを見て嬉しかったよ。ルルシェ嬢のことを、本気で大切に思ってるんだと分かったからね」
「はあ……」
いまの話の流れだと、イグニスはルルシェを妹姫の代わりにしているように思えるのだが。
しかし弟への愛にほほえむ国王の気持ちに水を差すわけにはいかず、ルルシェは黙して本音を心の中にとどめた。
「ふふ、イグニスの恋は前途多難そうだな……。そうだ、名前も変えたほうがいいよ。どういう名がいいかな?」
「ええと……。そうですね。ルーナにします」
「なるほど、月か。君にぴったりの名だね。メイド長に伝えておこう」
ルルシェはメイド服と変装セットを持って退室した。まだメイドとしての配置が決まっていないので一旦は塔に戻ったが、しばらくして壮年の女性がルルシェの部屋を訪ね、メイド長だと名乗る。
「今後はルーナとお呼びいたします。では、ルーナが使う部屋へ参りましょう」
メイド長はきびきびとした動きで先に立ち、ルルシェが使う部屋へ案内してくれた。王宮の西棟――下働きの者が寝起きしている場所だ。このエリアには爵位を持つ貴族はまず来ない。もちろん、国王も。
メイドなのに一人部屋だったので、理由を尋ねるとルルシェの見た目は非常に目立つから、変装をといた姿を誰にも見られないようにしてほしいのだと言う。
ルルシェは頷き、自室のなかでメイド服に着がえた。髪は結い上げて三角巾のなかに隠し、最後にメガネを装着。母が置いていってくれた手鏡で姿を見ると、もはやルルシェとは思えない地味な女が映っていた。これならばイグニスの目もごまかせそうだ。
部屋を出て、掃除用具を保管してある場所へ行く。ルルシェの担当は王宮の北に広がる庭の掃除である。広大なので、何人かで手分けして掃除しているらしい。ホウキを手に持って庭へ出ると、すでに三人のメイドが木の葉を集めていた。
ルルシェはルーナだと名乗り、よろしくお願いしますと挨拶してから掃除を始める。それにしても大きな庭だ。イグニスの城も広かったが、管理は全て下働きの者たちがやってくれていた。
(掃除って、意外と体力を使うんだな……)
ルルシェは新鮮な気持ちで木の葉を集めた。
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