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12 不気味な王子さま
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目覚めたらコルセットを締め、シャツとズボンを身につける。髪を一つにくくり、洗顔したら上着をきて部屋を出る。いつも通りだ。領地に戻ったときに母が散髪してくれたから頭が軽い。
母は芥子色と群青色のリボンを作ってくれていて、今朝は芥子色を選んでみた。紫銀の髪によく映えている。男として過ごすルルシェのささやかなお洒落であった。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
イグニスはルルシェを見てにっこり笑った。普段はまず見ることのない笑顔だ。あまりに不気味で絶句してしまい、震える手で木剣を握る。
(なんだろ、あの笑顔は。昨日から上機嫌でちょっと気持ち悪い……)
絶対に口には出せない言葉を頭でぶつぶつ呟く。毎朝の習慣どおりに鍛錬を始めた二人だったが、イグニスの調子はやはりおかしかった。
「殿下、本気を出してください」
「俺はいつだって本気だ」
(堂々と嘘をつくな。今朝のあなたの剣は軽すぎるよ。明らかに手を抜いてるでしょうが!)
腹が立ったルルシェは容赦なくイグニスの剣を弾き飛ばした。カンッ!と音がして王子が持っていた剣がくるくると宙を回り、茂みのなかに落ちる。
「ここが戦場だったら死んでますよ。しっかりしてください」
「……悪かった。明日から本気でやる」
鼻先にびしっと剣を突きつけると、イグニスが両手を挙げて謝罪する。いつもと逆だ。どうしたと言うんだろう。布を手に取ったイグニスは首すじの汗を拭き、もう一枚の布を差し出してくる。
「おまえも汗を拭いたらどうだ」
「いえ、結構です」
「汗をかいたままだと風邪をひくぞ。ここには俺しかいないし、シャツを脱いだりしても誰にも言わないから安心しろ」
「しつ……僕は汗をかきにくい体質ですので、大丈夫です」
「――今、しつこいと言いかけたよな?」
「まさかぁ」
ルルシェは朗らかに笑った。
(実際しつこいでしょうが。いつも僕の汗なんて気にもとめないくせに)
弓を手に取り、的ヘ向かって矢を放つ。一本、二本――気のせいだろうか、後ろから視線を感じる。体にまとわりつくようなねちっこい視線を。
「……何か言いたいことでもあるんですか?」
「いや、別に。今朝も見事な腕だと思って」
「はあ……どうも」
王子は歩み寄ってきて、ルルシェの頬を指でぐにっと押した。いきなり何すんの、と睨むと今度は自分の頬を指で押している。感触を確かめているようだった。
「また太ったとか何とか言う気ですか?」
「すまん、あれは誤解だった。ちょうどいいぐらいだったんだな……。無理せずちゃんと食事をとれよ」
「はあ」
よく分からないが、太ったという誤解が消えたのなら良かった。ルルシェは女性としては筋肉質なほうである。イグニスのような、無駄な肉が全くない男性が珍しいのだ。努力を認めてもらえたようで少し嬉しい。
鍛錬のあとは朝食。
アンディとニェーバは順調に橋の工事を進めているらしい。報告を受けたイグニスは「そうか」と頷き、食後のお茶に向かって手を伸ばした。
本日のお茶はカイ帝国から持ち込まれた、緑茶というきれいな黄緑色をしたお茶だ。紅茶と同じ茶葉でも、発酵の度合いでここまで色が違うのかと驚きである。
取っ手のない茶杯で飲むものだということで、ルルシェたちの前にもつるりとした器が置かれていた。
「あ」
「え?」
イグニスの手の甲が茶杯にあたり、ルルシェに向かってお茶がこぼれてくる。うしろに飛びのいてお茶を避けたが、倒れた椅子がガターン!と派手な音を立てた。
「大丈夫か。服が濡れたんじゃないか?」
立ち上がったイグニスがルルシェの腕をつかんだ。体をくるくる回されて、服が濡れていないか確認される。目が回りそうだ。
「だ、大丈夫です。濡れる前にお茶をよけましたし」
「…………濡れなかったのか」
残念そうな口調。ルルシェは眉をひそめ、王子の顔を見た。
(まさかわざとお茶をこぼしたの? 火傷するような温度じゃないけど、お茶で濡れたら着替えないといけないじゃないの)
変な嫌がらせしないでよ、とムッとする。
メイドが素早く動き、濡れたテーブルを掃除した。代わりのお茶が用意され、イグニスは涼しい顔で席に戻っている。ルルシェはびくびくしながらお茶を飲んだ。もう一度こぼされたら文句を言ってやる。あなたの目は節穴か、耄碌したのかお爺ちゃんと嫌味を言ってやる。
しかしその後はお茶がこぼれることもなく、ようやく朝食が終わった。
母は芥子色と群青色のリボンを作ってくれていて、今朝は芥子色を選んでみた。紫銀の髪によく映えている。男として過ごすルルシェのささやかなお洒落であった。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
イグニスはルルシェを見てにっこり笑った。普段はまず見ることのない笑顔だ。あまりに不気味で絶句してしまい、震える手で木剣を握る。
(なんだろ、あの笑顔は。昨日から上機嫌でちょっと気持ち悪い……)
絶対に口には出せない言葉を頭でぶつぶつ呟く。毎朝の習慣どおりに鍛錬を始めた二人だったが、イグニスの調子はやはりおかしかった。
「殿下、本気を出してください」
「俺はいつだって本気だ」
(堂々と嘘をつくな。今朝のあなたの剣は軽すぎるよ。明らかに手を抜いてるでしょうが!)
腹が立ったルルシェは容赦なくイグニスの剣を弾き飛ばした。カンッ!と音がして王子が持っていた剣がくるくると宙を回り、茂みのなかに落ちる。
「ここが戦場だったら死んでますよ。しっかりしてください」
「……悪かった。明日から本気でやる」
鼻先にびしっと剣を突きつけると、イグニスが両手を挙げて謝罪する。いつもと逆だ。どうしたと言うんだろう。布を手に取ったイグニスは首すじの汗を拭き、もう一枚の布を差し出してくる。
「おまえも汗を拭いたらどうだ」
「いえ、結構です」
「汗をかいたままだと風邪をひくぞ。ここには俺しかいないし、シャツを脱いだりしても誰にも言わないから安心しろ」
「しつ……僕は汗をかきにくい体質ですので、大丈夫です」
「――今、しつこいと言いかけたよな?」
「まさかぁ」
ルルシェは朗らかに笑った。
(実際しつこいでしょうが。いつも僕の汗なんて気にもとめないくせに)
弓を手に取り、的ヘ向かって矢を放つ。一本、二本――気のせいだろうか、後ろから視線を感じる。体にまとわりつくようなねちっこい視線を。
「……何か言いたいことでもあるんですか?」
「いや、別に。今朝も見事な腕だと思って」
「はあ……どうも」
王子は歩み寄ってきて、ルルシェの頬を指でぐにっと押した。いきなり何すんの、と睨むと今度は自分の頬を指で押している。感触を確かめているようだった。
「また太ったとか何とか言う気ですか?」
「すまん、あれは誤解だった。ちょうどいいぐらいだったんだな……。無理せずちゃんと食事をとれよ」
「はあ」
よく分からないが、太ったという誤解が消えたのなら良かった。ルルシェは女性としては筋肉質なほうである。イグニスのような、無駄な肉が全くない男性が珍しいのだ。努力を認めてもらえたようで少し嬉しい。
鍛錬のあとは朝食。
アンディとニェーバは順調に橋の工事を進めているらしい。報告を受けたイグニスは「そうか」と頷き、食後のお茶に向かって手を伸ばした。
本日のお茶はカイ帝国から持ち込まれた、緑茶というきれいな黄緑色をしたお茶だ。紅茶と同じ茶葉でも、発酵の度合いでここまで色が違うのかと驚きである。
取っ手のない茶杯で飲むものだということで、ルルシェたちの前にもつるりとした器が置かれていた。
「あ」
「え?」
イグニスの手の甲が茶杯にあたり、ルルシェに向かってお茶がこぼれてくる。うしろに飛びのいてお茶を避けたが、倒れた椅子がガターン!と派手な音を立てた。
「大丈夫か。服が濡れたんじゃないか?」
立ち上がったイグニスがルルシェの腕をつかんだ。体をくるくる回されて、服が濡れていないか確認される。目が回りそうだ。
「だ、大丈夫です。濡れる前にお茶をよけましたし」
「…………濡れなかったのか」
残念そうな口調。ルルシェは眉をひそめ、王子の顔を見た。
(まさかわざとお茶をこぼしたの? 火傷するような温度じゃないけど、お茶で濡れたら着替えないといけないじゃないの)
変な嫌がらせしないでよ、とムッとする。
メイドが素早く動き、濡れたテーブルを掃除した。代わりのお茶が用意され、イグニスは涼しい顔で席に戻っている。ルルシェはびくびくしながらお茶を飲んだ。もう一度こぼされたら文句を言ってやる。あなたの目は節穴か、耄碌したのかお爺ちゃんと嫌味を言ってやる。
しかしその後はお茶がこぼれることもなく、ようやく朝食が終わった。
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