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 金曜日の二十時過ぎ。
 という、“おがた”が一番忙しい時に。
「あ」
 朋樹が久々にジョッキを落とした。

 幸いなことに中身が空だったのと、周囲に人がいなかったから。
 破壊音の後の一瞬の沈黙に、
「失礼しました」櫂斗が言って、急いで片付けに回る。

「どんまい」
 ほのかもいつものセリフで朋樹を促して仕事に戻らせた。

 呑気に動揺していられる状況ではないから、片付けは櫂斗一人に任せる。
 次々と出来上がった料理を提供しなければならないし、客の追加オーダーにも対応し、空いたテーブルは手早く片付けて次の客を迎え入れなければならないのだから、ぼんやりしていられると困る。

「大丈夫?」
 テーブルにいた杏輔が、生ビールを追加しながらほのかに問う。
「ま、いつものことだしね」
「目、吊り上がってるよ?」
「……精進する」
 最近怒りマークがはっきり出過ぎていると櫂斗に指摘されているから、できる限り平常心を保とうと努力しているが、朋樹のこのタイミングでのやらかしに、イラつきは抑えられなくて。
 杏輔の突っ込みに、とりあえず反省だけして。一緒にいた純也からの、軟骨のから揚げと豚の角煮の追加に対応する。

「朋樹らしいっちゃーらしいけど、ま、ジョッキ一個で済んで良かったかもね」
 朔が苦笑する。
 実際、左手に持っていたトレイには食器がいくつか載っていたし、落としたのがジョッキ一個だったのは不幸中の幸いというやつだろう。

「櫂斗、ほのかちゃんに片付けさせないし、やっぱそーゆーさりげないトコは紳士的だね」
 純也が感心したように言って朔を見る。
 だからあの二人に朔の出る幕なんてなかったでしょ、という目線を送った。
「櫂ちゃん優しいからね。朋樹だろうとほのかだろうと、誰の失敗も責めないしすぐにああやってフォローするから。イイ男になるよ、あれは」
 今まで散々“ほのかちゃん”としか呼んでいなかったのに、当たり前のような自然な呼び捨て。
 それには朔が“ん?”と少し引っかかる。

「キョウさんって、ほんと、櫂斗贔屓だよね。可愛くてしょーがないんでしょ?」
「そりゃーね。中坊ん時からずっと見て来てるしさ。女将さんに似て可愛いし、いい看板息子だよな」
「こんだけ忙しくても全然冷静だし、笑顔振りまいて仕事してるってのがもう、オトナとしては頭が下がるってゆーか、見習いたいトコだよね」
 二人して手放しで櫂斗を褒めるから、朔としてはちょっと面白くなくて。
 見た目は好きなタイプではあるけれど、朋樹を食えなかったのは櫂斗のせいだから。それはやっぱり悔しいわけで。

「高校生じゃねーよな、あれはもう。やっぱどっかバケモンなんだよ」
「誰がバケモンなんだっつの。はい、豚角。今日コレ、ラスト。ジュンさんラッキーだったねー」
 櫂斗が豚の角煮が入った器を純也の前に置きながら、朔を一睨みしておく。

「大将の角煮、絶品だよねー。やっぱ人気だからすぐ切れるんだよ。前来た時なくなってたから、今日こそは、って思って」
 純也が目をキラキラさせながら箸を付ける。
 美味しそうに食べる姿が可愛くて仕方ないから、朔は櫂斗とのしがらみはとっとと忘れ去る。
 華奢というか細すぎる純也には、杏輔と朔が二人してとにかく食べさせる。
 別に栄養失調で細いわけじゃないんだから、と笑っているが、実際仕事が忙しくて昼食をまともに採れない日だって珍しくないから、こうしてゆっくり食事ができる時は、二人して純也を甘やかす。

「キョウさん、最近結構一人でココ来てるんだろ?」
「俺は昔から常連だもん、ほぼ毎日ここでメシ食ってるよ」
「前は毎日じゃなかったじゃん。何、なんかあった?」
 さっきの引っかかりが気になって朔が突っ込むと、杏輔がニヤける。
 でも。

「なんもねーよ。女将さんのメシが旨いだけ」はっきりと答えることは、しない。
「いやそこ、大将の料理だろ。まあ、家庭料理に飢えてる気持ちはわかるけど」
 朔の突っ込みに、
「朔が何言いたいか、わからんでもないけど。そこはプライバシーってヤツだから、ま、ほっといてくれ」
 目を見合わせて、杏輔が誤魔化すように言う。
 そんな二人だけにわかる会話に、純也が眉を顰めたけど。
「別に、いいっすけどねー。じゃ、この後も?」
「ノーコメント」
「……へえへえ。ま、俺たちは俺たちで、この後デートの予定なんで」
 純也に微笑みかける。
 もう二度と、純也を泣かせることはしないと決めたから。

「キョウさんと二人、何か企んでたりすんの?」
 純也が訝しげに問うけれど、
「何もないよ。キョウさんにはキョウさんの幸せってのがあって、俺らは俺らで幸せになろうねって話」
 朔が下手クソなウィンクをして。
 これ以上今ここで口を割ることなんてないだろうことは純也にもわかったから、仕方なく誤魔化されてやった。
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