1 / 167
<1>
-1-
しおりを挟む
学校から自転車で約十分。
バイト先である“居酒屋おがた”は大学最寄り駅のちょうど駅前にあるから。
芳賀朋樹は何も考えないで自転車を走らせる。
だって、楽しみで仕方ない。
初めて“おがた”を訪れたのは客としてだった。
ランチタイムにほんの三時間だけ定食屋もやっていて、とにかく小鉢が美味しかったのが印象的で。
高校までは自宅だったから、まさに「おふくろの味」って奴が恋しくて。
男の一人暮らしなんてやっていると「卯の花和え」なんてまず、食えない。
大学入って早々に彼女にフラれてからは、女の子が家に来ることさえないし。
料理なんて、不器用な自分には向いてないと、卵すらまともに割れない時点で諦めている。
「おつかれーっす」
まだ暖簾はかかっていないけど、カギなんてかかってないことはわかっているから、正面から扉を開けて。
「お疲れ様」
にっこり笑って迎え入れてくれるのは女将さんだ。
店の看板でもある綺麗な女将さんは「あたしも制服でいい」と言うけれど、大将の「女将ってのは和服でいるものだ」という主張を聞いて仕方なく和服に割烹着といういかにもな格好で店に立つ。
「ほのかちゃんと一緒に、先に軽く食べて」
そう言って、本日の小鉢から三品とおにぎり、味噌汁のセットを手渡してくれた。
まだ十七時を過ぎた時間。
居酒屋としてオープンするのは十八時だから、それまでに開店準備をするわけだけど、いつもバイトの為に軽い夕食を先に提供してくれるのがこの人の優しさだ。
「お腹空いてたら動けないでしょ」と、当たり前のように用意してくれる。
「トーモさん、お疲れー」
隅っこのテーブル席に着くと、高校生男子――緒方櫂斗が可愛く笑いかけた。
「早くない? 部活は?」
「トモさんに逢いたいから、今日はサボった」
当たり前のように言う。
「櫂斗さ、ほんとに野球部なの?」と眉を顰めて言うのは、同じバイトの女の子。
朋樹とは別の大学に通う一個下の夏目ほのかだ。
「野球部だよ、ほんとに。半分なんちゃって、かもしんないけど。キャッチボールがメインだからね」
淡いブルーのポロシャツにズボン、という高校の制服のまま櫂斗は一緒にこのバイト用の軽食を食べているが、実際はバイトじゃなくてこの店の息子だ。
今日は金曜日。
週末に限らず、盛況となるのは毎日のことだけれど、やっぱり金曜日はいつもより客が増えるのは確かだから、櫂斗も店に出て手伝う。
「キャッチボールがメインの野球部って、どーゆーことよ?」
ほのかが首を傾げた。
高校野球と言えば“めざせ甲子園”ってのが通常だろう。
「そのまんまだよ。だーれも甲子園なんて目指してないし、ほぼほぼ気分転換に体動かしたいって連中の集まり」
「うわ、何そのぬるいの」
「五年くらい前に、野球部が不祥事起こして解散しちゃったんだけど、知らない?」
言われてみれば、大会前にタバコ吸ってるのが見つかってそこからいじめに発展して自殺したとか、ちょっとしたニュースになっていた学校があったのを思い出す。
「んで、去年かなー、やっぱ野球部ないのは寂しいからって校長が作り直したの」
寂しいからって……。
「でも試合できるような体制は整ってないし、むしろ整える気もないし」
櫂斗が味噌汁を啜る。
食事メインの居酒屋だから、締めに飲みたいという客は少なくないので、ちゃんとこれもメニューにある。
「顧問も名ばかりだし、二年生の俺らの代が一番上だし。で、ガチでやるつもりのない元野球部とか、野球はやったことないけどなんとなくキャッチボールくらいならやろっかなーってゆー、薄ぼんやりした野球部になったんだよ」
「そりゃ……ぬるくもなるわね」
ほのかが納得して沢庵を齧る。
漬物も当然、女将さんお手製。
「でしょ? ユニフォームさえないからね。みんな体操服だし。グランドは女子ソフト部がゴリゴリに使ってるから、その横でキャッチボールやってんの、俺ら」
笑けるー、とへらへら言って。
でも。
「櫂斗、中学ではちゃんとやってたんだろ?」
カウンターの横にある壁に、野球チームの集合写真が飾られている。
それには県大会出場、なんて文字があったし、当然丸坊主の櫂斗がメダルを首から下げて写っているから。
「やってたやってた。小学校のクラブチームから、ゴリゴリに。かーちゃんも試合観に来てたよー」
櫂斗は軽食を完食し、お茶を飲みながら集合写真に目をやった。
「でも、高校でやるつもりなんて元々なかったし。つか、あったら今の高校選んでねーし」
「そりゃそーよね。櫂斗の高校、柔道だっけ、有名な女の子がいるの」
「そうそう。三年だし、面識ないけど。ガッコに横断幕かかってる」
「櫂斗ー。食べ終わったらそろそろ準備してー」
三人で雑談していると、女将さんから声がかかる。
「かーちゃん俺、バイトじゃねーし」
「今日、七時から宴会入ってるから。よろしく」
「いや、聞けよ人の話」
「日曜日、友達と映画行くんでしょ? 映画代と御飯代と足代」
「あとカラオケ代ね。二時間飲み放題でおけ? 何名様?」
「十名。座敷フルね」
さすがは高校生、“現金”である。
朋樹はほのかと目を合わせて笑った。
バイト先である“居酒屋おがた”は大学最寄り駅のちょうど駅前にあるから。
芳賀朋樹は何も考えないで自転車を走らせる。
だって、楽しみで仕方ない。
初めて“おがた”を訪れたのは客としてだった。
ランチタイムにほんの三時間だけ定食屋もやっていて、とにかく小鉢が美味しかったのが印象的で。
高校までは自宅だったから、まさに「おふくろの味」って奴が恋しくて。
男の一人暮らしなんてやっていると「卯の花和え」なんてまず、食えない。
大学入って早々に彼女にフラれてからは、女の子が家に来ることさえないし。
料理なんて、不器用な自分には向いてないと、卵すらまともに割れない時点で諦めている。
「おつかれーっす」
まだ暖簾はかかっていないけど、カギなんてかかってないことはわかっているから、正面から扉を開けて。
「お疲れ様」
にっこり笑って迎え入れてくれるのは女将さんだ。
店の看板でもある綺麗な女将さんは「あたしも制服でいい」と言うけれど、大将の「女将ってのは和服でいるものだ」という主張を聞いて仕方なく和服に割烹着といういかにもな格好で店に立つ。
「ほのかちゃんと一緒に、先に軽く食べて」
そう言って、本日の小鉢から三品とおにぎり、味噌汁のセットを手渡してくれた。
まだ十七時を過ぎた時間。
居酒屋としてオープンするのは十八時だから、それまでに開店準備をするわけだけど、いつもバイトの為に軽い夕食を先に提供してくれるのがこの人の優しさだ。
「お腹空いてたら動けないでしょ」と、当たり前のように用意してくれる。
「トーモさん、お疲れー」
隅っこのテーブル席に着くと、高校生男子――緒方櫂斗が可愛く笑いかけた。
「早くない? 部活は?」
「トモさんに逢いたいから、今日はサボった」
当たり前のように言う。
「櫂斗さ、ほんとに野球部なの?」と眉を顰めて言うのは、同じバイトの女の子。
朋樹とは別の大学に通う一個下の夏目ほのかだ。
「野球部だよ、ほんとに。半分なんちゃって、かもしんないけど。キャッチボールがメインだからね」
淡いブルーのポロシャツにズボン、という高校の制服のまま櫂斗は一緒にこのバイト用の軽食を食べているが、実際はバイトじゃなくてこの店の息子だ。
今日は金曜日。
週末に限らず、盛況となるのは毎日のことだけれど、やっぱり金曜日はいつもより客が増えるのは確かだから、櫂斗も店に出て手伝う。
「キャッチボールがメインの野球部って、どーゆーことよ?」
ほのかが首を傾げた。
高校野球と言えば“めざせ甲子園”ってのが通常だろう。
「そのまんまだよ。だーれも甲子園なんて目指してないし、ほぼほぼ気分転換に体動かしたいって連中の集まり」
「うわ、何そのぬるいの」
「五年くらい前に、野球部が不祥事起こして解散しちゃったんだけど、知らない?」
言われてみれば、大会前にタバコ吸ってるのが見つかってそこからいじめに発展して自殺したとか、ちょっとしたニュースになっていた学校があったのを思い出す。
「んで、去年かなー、やっぱ野球部ないのは寂しいからって校長が作り直したの」
寂しいからって……。
「でも試合できるような体制は整ってないし、むしろ整える気もないし」
櫂斗が味噌汁を啜る。
食事メインの居酒屋だから、締めに飲みたいという客は少なくないので、ちゃんとこれもメニューにある。
「顧問も名ばかりだし、二年生の俺らの代が一番上だし。で、ガチでやるつもりのない元野球部とか、野球はやったことないけどなんとなくキャッチボールくらいならやろっかなーってゆー、薄ぼんやりした野球部になったんだよ」
「そりゃ……ぬるくもなるわね」
ほのかが納得して沢庵を齧る。
漬物も当然、女将さんお手製。
「でしょ? ユニフォームさえないからね。みんな体操服だし。グランドは女子ソフト部がゴリゴリに使ってるから、その横でキャッチボールやってんの、俺ら」
笑けるー、とへらへら言って。
でも。
「櫂斗、中学ではちゃんとやってたんだろ?」
カウンターの横にある壁に、野球チームの集合写真が飾られている。
それには県大会出場、なんて文字があったし、当然丸坊主の櫂斗がメダルを首から下げて写っているから。
「やってたやってた。小学校のクラブチームから、ゴリゴリに。かーちゃんも試合観に来てたよー」
櫂斗は軽食を完食し、お茶を飲みながら集合写真に目をやった。
「でも、高校でやるつもりなんて元々なかったし。つか、あったら今の高校選んでねーし」
「そりゃそーよね。櫂斗の高校、柔道だっけ、有名な女の子がいるの」
「そうそう。三年だし、面識ないけど。ガッコに横断幕かかってる」
「櫂斗ー。食べ終わったらそろそろ準備してー」
三人で雑談していると、女将さんから声がかかる。
「かーちゃん俺、バイトじゃねーし」
「今日、七時から宴会入ってるから。よろしく」
「いや、聞けよ人の話」
「日曜日、友達と映画行くんでしょ? 映画代と御飯代と足代」
「あとカラオケ代ね。二時間飲み放題でおけ? 何名様?」
「十名。座敷フルね」
さすがは高校生、“現金”である。
朋樹はほのかと目を合わせて笑った。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
32
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる