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第六章
ニヒルの正体
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飛び降り自殺では、落下中に意識が飛ぶと言う例がある。
最初は妙な浮遊感があった。ふわっと全身が宙に浮いて、言い表せないほどの恐怖が押し寄せた。一度死んでいるとはいえ、はっきりと意識がある中で飛んでみるのはやはり怖い。
身体が落下する速度はさらに増して、だんだんと強い空気抵抗を感じるようになった。それでも身体は落ち続けて、浮遊に慣れてきた頃には地面が目の前に迫っていた。
だが、衝突する直前、俺の動きは静止した。透き通った紺碧色をした物体が何処からともなく集まり始めて、落下地点に集約したからだ。ソレは勢いを増して落ち続ける俺に向かって伸びてくると、俺の身体を包み込む。ニヒルだ。
触感としては暖かく柔らかい、まるでゼリーとゴムのような柔軟性があった。ニヒルの中では、さっきまで感じていた空気の抵抗は嘘のように感じられず、包み込まれた身体はだんだんと速度を落として、地面直前で落下による速度は完全に殺された。
衝撃を完全に防ぎきれなかったのか内臓あたりが痛んだ気がしたが、すぐに痛みも引いて、元の状態に回復した。
やはりこの世界では死ぬことができないわけだ。
理由は単純で、ここが茅乃の精神世界だからだ。心臓移植により俺の精神も茅乃の世界へと取り込まれたと考えられる。
茅乃の身体自体が病床で眠っているとしたら、彼女の意思で死ぬことができないのは納得できる。
いくら死にたいと願っていたとしても、それがきっかけで死ぬ人はいない。怪我や負傷などの外的要因か、病気や寿命などの内的要因があるはずだ。
このことを踏まえて、俺はある仮説を立てる。
ニヒルとは延命装置を体現した存在なのかもしれない。彼女の世界が健常に、それでいて潤沢に回るための手助けをする生命維持装置なのではないか、と。
衰弱した心臓を潤滑に回すための装置が体内にあることで、彼女の生命は途絶えずに存続している。体内にとっての異物であるニヒルもやがては順応して、身体にとっては必要不可欠なものになっていく。
人工心臓か点滴か、或いは別の何かか。
ニヒルとは茅乃の身体を健康に保つためのものであり、俺は最初にニヒルは無機物だと思った。ニヒルを生物として扱う茅乃に対して、違和感を抱いていたが、それは人工的な装置に意識が起こした拒絶反応のようなものだったのだろう。
だが身体に馴染めば、実際の臓器と同じように機能するため、違いが分からなくなる。俺がニヒルを生物のように感じ始めたように。
ニヒルが人間を模して生活しているのも、延命装置が人間の臓器や機能を補うために、時には人を模して作られているからだと考えると納得できる。
人と同じ動きをするのは、臓器が人と同じ機能をするように延命装置が設計されているからだと。
「ニヒル、か」
ニヒルとは、生命維持装置である。
もしその仮説が正しいのであれば、俺という存在も茅乃にとっては心臓であり、延命装置であるためニヒルなのかもしれない。心臓として茅乃の身体に入り込んで、延命させる役割を持ったニヒル。
『アヤセくん。駅で会ったときからずっと無表情だったから。ニヒルを見たときも、なんか味気ない反応だったし。けどやっぱりアヤセくんも、ちゃんと人なんだなぁって思ってさ。ほら、ニヒルって表情とかないじゃん』
茅乃が珈琲店で言っていたことだが、あながち間違いではなかったのかもしれない。
それに、思い返してみれば、茅乃はこの世界がVIP待遇だとも言っていた。
現実の肉体にとって点滴で栄養補給され続けて、ベッドの上で動かずに生活できる環境はある種、VIPなのかもしれない。
考えながら、胸が締め付けられるような感覚があった。
永遠と過ぎる時間を只管に待つだけの生など、生きているとは呼べない。
茅乃はそう考えて、茅乃自身を延命させるだけの装置をニヒルと名付けた。
ニヒルが延命装置であるなら、ただ生きる時間を引き延ばされて、死が与えられることもなく過ぎる時間を只管に待つだけの生は実に虚無的だったのだろう。
虚無を意味するニヒルという呼び方をするのは至極真っ当なことだったわけだ。
さらに強く、まるで胸を鷲掴みにされたような感覚だった。
茅乃に対しての激しい想いに胸が張り裂けそうになり、それを押さえ込んだ。
前に茅乃が話していたことだが、茅乃は俺の場所が分かるらしい。加えて、たまに感情が同期して感じられるという。きっと俺と茅乃、意識が二つでも、身体も心臓も一つだからこそ、俺の胸の昂りがそのまま茅乃に伝わるのだ。
恰も、人の脳みそが心臓の動悸の具合や位置を把握できるように。
だからこそ、ここ二日間は感情が溢れないようにセーブしていた。場所や感情が茅乃にバレてしまうことは、今の俺にとって何よりも怖いことだからだ。
俺は、胸の痛みをなんとか忘れようと心を鎮めると、空気を一気に吐き出した。そして、一言だけ呟いた。
「ニヒル」
直後、足元が紺碧色に光を放つと、足元をニヒルが包み込んだ。
ぐっと両の足を踏み込むように力を込めると、ニヒルはその形を変えて、伸び始める。そして、勢いよく俺を押し出すと、空中へ弾きだして、飛ぶように移動を始めた。
響谷文世もニヒルの一部であるからか、ニヒルはイメージをするだけで制御することができた。ここ一ヶ月の間、そのことに気付いてから、俺は暇な時間を縫ってニヒルを扱う練習をしていた。今では手足のように動かすことができる。
「あと少しだ」
俺は茅乃に見つからないようニヒルで空を駆けながら、時が来るのを淡々と待っていた。茅乃にこの想いが伝わらないように、左胸を押さえ込みながら。
ꕤ
アヤセくんが姿を消してから二日半が経過した。四十八日目の夕暮れ。
時刻にしたら五時半くらいだろうか。時計が正しく機能しないため、当然だが正確ではなく、空に登った太陽が沈み始めていることからおよその察しはつく。
私はアヤセくんの高校に足を運んでいた。教室の隅々や体育館、中庭など思い出のある場所を探しては、ため息を吐いた。彼が見つからない。
不安はどこまでも募るばかりで、胸を穿つように得体の知れない何かが迫る感覚だけがあった。
「っ」
ダメだ。
足を止めると涙が押し寄せてくる。まだ会えないと決まったわけじゃないのに、心が、身体が言うことを聞いてくれない。
アヤセくんが死ぬ。もう会えなくなる。
子供の頃から脳裏に焼き付いて消えない、死の感覚。
自分の死とは幾度となく向き合ってきた私だったが、人が死ぬというのは非現実的に思えてしまうから不思議だ。それもただの人ではなく、私にとってすごくすごく大切な人。だからこそ、拭いきれない恐怖と不安に包まれている。
私は死んだって、よかった。
いや、別によくはないけど、単に死ぬ覚悟ができているという意味だ。そもそも私はこの世界でしばらく過ごしながら、私の身体は死んだのだと諦めていた。諦念のように俯瞰さえできていた。
『元の世界に帰れるとしても、それは茅乃だけだ』
アヤセくんの言葉が本当か分からない。けど、ここで動かなかったら。動けなかったら後悔は残り続ける。
三年C組——ここは、彼の教室だった場所だ。私は胸に宿る想いにかけて、その引き戸をゆっくりと開けた。アヤセくんがいると、願いながら。
教室内に入ってぐるりと一周、私は見渡す。だが、彼の姿はそこにはなかった。
指先から徐々に力が抜けていくようだった。気づいたときには、体勢も気にせず、私はその場にへたり込んでいた。
「もう、ほんとに、いなくなっちゃった、のかな」
くぐもった声で、そう呟いたときだ。
ドクン、と激しく胸が脈打った。言い表しようもない、不思議な感覚だった。遠くにいるはずのアヤセくんの想いが距離を無視して、届いたような。
『茅乃、悪い。でもこうするしかないんだ』
不安や恐れ、悲しみに苦しみ、後悔。そして願い。
全部が一遍に伝わってきた。これはきっと、アヤセくんの感情。それは実に私が彼の手紙を読んだときに感じたものに近しいものだった。
アヤセくんだってこんな最後は望んでないのだと、そう直感した。
私はもう一度、立ち上がって全身に力を込めた。そして、最後の悪あがきをしようかと前を向いたときだった。
「な、にこれ」
私の周辺、教室の床が蒼く光ったかと思えば、その場所から得体の知れないナニカが現れた。見たこともない光景。しかし、彼らは人型の原型を崩しながらも、私に迫ってきていた。
「ニヒル、なの?」
私の周囲を取り囲むニヒルの姿をしたナニカ、私の頭は理解を拒絶する。
だが、その異変はすぐに私に逃げることを選択させた。
最初は妙な浮遊感があった。ふわっと全身が宙に浮いて、言い表せないほどの恐怖が押し寄せた。一度死んでいるとはいえ、はっきりと意識がある中で飛んでみるのはやはり怖い。
身体が落下する速度はさらに増して、だんだんと強い空気抵抗を感じるようになった。それでも身体は落ち続けて、浮遊に慣れてきた頃には地面が目の前に迫っていた。
だが、衝突する直前、俺の動きは静止した。透き通った紺碧色をした物体が何処からともなく集まり始めて、落下地点に集約したからだ。ソレは勢いを増して落ち続ける俺に向かって伸びてくると、俺の身体を包み込む。ニヒルだ。
触感としては暖かく柔らかい、まるでゼリーとゴムのような柔軟性があった。ニヒルの中では、さっきまで感じていた空気の抵抗は嘘のように感じられず、包み込まれた身体はだんだんと速度を落として、地面直前で落下による速度は完全に殺された。
衝撃を完全に防ぎきれなかったのか内臓あたりが痛んだ気がしたが、すぐに痛みも引いて、元の状態に回復した。
やはりこの世界では死ぬことができないわけだ。
理由は単純で、ここが茅乃の精神世界だからだ。心臓移植により俺の精神も茅乃の世界へと取り込まれたと考えられる。
茅乃の身体自体が病床で眠っているとしたら、彼女の意思で死ぬことができないのは納得できる。
いくら死にたいと願っていたとしても、それがきっかけで死ぬ人はいない。怪我や負傷などの外的要因か、病気や寿命などの内的要因があるはずだ。
このことを踏まえて、俺はある仮説を立てる。
ニヒルとは延命装置を体現した存在なのかもしれない。彼女の世界が健常に、それでいて潤沢に回るための手助けをする生命維持装置なのではないか、と。
衰弱した心臓を潤滑に回すための装置が体内にあることで、彼女の生命は途絶えずに存続している。体内にとっての異物であるニヒルもやがては順応して、身体にとっては必要不可欠なものになっていく。
人工心臓か点滴か、或いは別の何かか。
ニヒルとは茅乃の身体を健康に保つためのものであり、俺は最初にニヒルは無機物だと思った。ニヒルを生物として扱う茅乃に対して、違和感を抱いていたが、それは人工的な装置に意識が起こした拒絶反応のようなものだったのだろう。
だが身体に馴染めば、実際の臓器と同じように機能するため、違いが分からなくなる。俺がニヒルを生物のように感じ始めたように。
ニヒルが人間を模して生活しているのも、延命装置が人間の臓器や機能を補うために、時には人を模して作られているからだと考えると納得できる。
人と同じ動きをするのは、臓器が人と同じ機能をするように延命装置が設計されているからだと。
「ニヒル、か」
ニヒルとは、生命維持装置である。
もしその仮説が正しいのであれば、俺という存在も茅乃にとっては心臓であり、延命装置であるためニヒルなのかもしれない。心臓として茅乃の身体に入り込んで、延命させる役割を持ったニヒル。
『アヤセくん。駅で会ったときからずっと無表情だったから。ニヒルを見たときも、なんか味気ない反応だったし。けどやっぱりアヤセくんも、ちゃんと人なんだなぁって思ってさ。ほら、ニヒルって表情とかないじゃん』
茅乃が珈琲店で言っていたことだが、あながち間違いではなかったのかもしれない。
それに、思い返してみれば、茅乃はこの世界がVIP待遇だとも言っていた。
現実の肉体にとって点滴で栄養補給され続けて、ベッドの上で動かずに生活できる環境はある種、VIPなのかもしれない。
考えながら、胸が締め付けられるような感覚があった。
永遠と過ぎる時間を只管に待つだけの生など、生きているとは呼べない。
茅乃はそう考えて、茅乃自身を延命させるだけの装置をニヒルと名付けた。
ニヒルが延命装置であるなら、ただ生きる時間を引き延ばされて、死が与えられることもなく過ぎる時間を只管に待つだけの生は実に虚無的だったのだろう。
虚無を意味するニヒルという呼び方をするのは至極真っ当なことだったわけだ。
さらに強く、まるで胸を鷲掴みにされたような感覚だった。
茅乃に対しての激しい想いに胸が張り裂けそうになり、それを押さえ込んだ。
前に茅乃が話していたことだが、茅乃は俺の場所が分かるらしい。加えて、たまに感情が同期して感じられるという。きっと俺と茅乃、意識が二つでも、身体も心臓も一つだからこそ、俺の胸の昂りがそのまま茅乃に伝わるのだ。
恰も、人の脳みそが心臓の動悸の具合や位置を把握できるように。
だからこそ、ここ二日間は感情が溢れないようにセーブしていた。場所や感情が茅乃にバレてしまうことは、今の俺にとって何よりも怖いことだからだ。
俺は、胸の痛みをなんとか忘れようと心を鎮めると、空気を一気に吐き出した。そして、一言だけ呟いた。
「ニヒル」
直後、足元が紺碧色に光を放つと、足元をニヒルが包み込んだ。
ぐっと両の足を踏み込むように力を込めると、ニヒルはその形を変えて、伸び始める。そして、勢いよく俺を押し出すと、空中へ弾きだして、飛ぶように移動を始めた。
響谷文世もニヒルの一部であるからか、ニヒルはイメージをするだけで制御することができた。ここ一ヶ月の間、そのことに気付いてから、俺は暇な時間を縫ってニヒルを扱う練習をしていた。今では手足のように動かすことができる。
「あと少しだ」
俺は茅乃に見つからないようニヒルで空を駆けながら、時が来るのを淡々と待っていた。茅乃にこの想いが伝わらないように、左胸を押さえ込みながら。
ꕤ
アヤセくんが姿を消してから二日半が経過した。四十八日目の夕暮れ。
時刻にしたら五時半くらいだろうか。時計が正しく機能しないため、当然だが正確ではなく、空に登った太陽が沈み始めていることからおよその察しはつく。
私はアヤセくんの高校に足を運んでいた。教室の隅々や体育館、中庭など思い出のある場所を探しては、ため息を吐いた。彼が見つからない。
不安はどこまでも募るばかりで、胸を穿つように得体の知れない何かが迫る感覚だけがあった。
「っ」
ダメだ。
足を止めると涙が押し寄せてくる。まだ会えないと決まったわけじゃないのに、心が、身体が言うことを聞いてくれない。
アヤセくんが死ぬ。もう会えなくなる。
子供の頃から脳裏に焼き付いて消えない、死の感覚。
自分の死とは幾度となく向き合ってきた私だったが、人が死ぬというのは非現実的に思えてしまうから不思議だ。それもただの人ではなく、私にとってすごくすごく大切な人。だからこそ、拭いきれない恐怖と不安に包まれている。
私は死んだって、よかった。
いや、別によくはないけど、単に死ぬ覚悟ができているという意味だ。そもそも私はこの世界でしばらく過ごしながら、私の身体は死んだのだと諦めていた。諦念のように俯瞰さえできていた。
『元の世界に帰れるとしても、それは茅乃だけだ』
アヤセくんの言葉が本当か分からない。けど、ここで動かなかったら。動けなかったら後悔は残り続ける。
三年C組——ここは、彼の教室だった場所だ。私は胸に宿る想いにかけて、その引き戸をゆっくりと開けた。アヤセくんがいると、願いながら。
教室内に入ってぐるりと一周、私は見渡す。だが、彼の姿はそこにはなかった。
指先から徐々に力が抜けていくようだった。気づいたときには、体勢も気にせず、私はその場にへたり込んでいた。
「もう、ほんとに、いなくなっちゃった、のかな」
くぐもった声で、そう呟いたときだ。
ドクン、と激しく胸が脈打った。言い表しようもない、不思議な感覚だった。遠くにいるはずのアヤセくんの想いが距離を無視して、届いたような。
『茅乃、悪い。でもこうするしかないんだ』
不安や恐れ、悲しみに苦しみ、後悔。そして願い。
全部が一遍に伝わってきた。これはきっと、アヤセくんの感情。それは実に私が彼の手紙を読んだときに感じたものに近しいものだった。
アヤセくんだってこんな最後は望んでないのだと、そう直感した。
私はもう一度、立ち上がって全身に力を込めた。そして、最後の悪あがきをしようかと前を向いたときだった。
「な、にこれ」
私の周辺、教室の床が蒼く光ったかと思えば、その場所から得体の知れないナニカが現れた。見たこともない光景。しかし、彼らは人型の原型を崩しながらも、私に迫ってきていた。
「ニヒル、なの?」
私の周囲を取り囲むニヒルの姿をしたナニカ、私の頭は理解を拒絶する。
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