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第六章

最悪のシナリオ

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 アヤセ君がいなくなった。
 家にも周辺にも近くの駅や学校にもいなかった。

 私は一日中、街を駆け回って彼の姿を探したが一向に見つかる気配がない。

 ファミレスやクレープ屋の前、彼と一緒に行った思い出のある場所を虱潰しに探し回った。幸にも、この世界に精神的ば疲労という概念はあれど、肉体的にはあまり変化がない。いくら走ったところで、関節や筋肉が悲鳴を上げることもない。

 そのため、不眠不休で街を散策したとしても、肉体的に問題はないはずだ。

 彼の残した手紙の内容は、実にシンプルなものだった。

 つまるところ、アヤセくんは現実へ帰れないので、ここでお別れをしたいということらしい。しかし、別れを告げるのは彼にとっても忍びないことなので、顔を合わせずにお別れがしたい、と。

「そんなの、実に身勝手にも程があるよ」

 私は疾走する足を止めて、ぽつりとこぼした。夜の街に吸い込まれるように声はすぐに消えて、長い空白の時間が訪れる。

『だから、お別れしよう』

 手紙に書かれていた離別の言葉。これを意図して伝えたのであれば、彼の頭の中ではもう私と会うことはないということだ。

 元の世界に帰れる。
 私にとってそれは嬉しいことのはずなのに、喜ぶことはまるでできない。色んな感情が押し寄せてくるせいで、何が言いたいのかも、分からないままだった。

「まだ、伝えられてないことだって、あるのに」

 口に出してみると、自分の本心をちょっとだけ理解できた。
 私は今、怒っているのだと。悲しんでいるのだと。
 元の世界に帰るなら彼と一緒がいい。
 私はまだ伝えられていない。訊きたいことだってある。
 他にも探せば、方法があるかもしれないし、そもそも死んでるとか生きてるとか、なんのことを言ってるの?
 もし彼の言葉が事実で、私しか帰れないのだとして、本人の口からなんの説明も聞けないままで終わることだけは嫌だった。

 それに、こんな場面でなんでも言うことを聞かせられる権利を使うのは卑怯だ。
 私のことを策士だの狡賢いだのと言うけど、アヤセくんもよっぽどだ。お互いに頑固で譲らないところとか、まさにそう。

『まぁ、だけど。元の世界に戻ったときにこの世界でも楽しいこともあったなって思い返せるくらいになって、そう欲しいってのが今の心情かな。その意味で言えば、甲斐があったのかもなって』

 アヤセくんは分かってない。たしかにアヤセくんがこの世界に来てから、私は毎日が幸せで、人生でこれ以上はないと言い切れるほど楽しい日々を送れた。
 だけど、最後がこんなにもあっさりとしていると、そんな思い出だって辛くて思い出したくない過去にだってなり得る。

 持ち上げるだけ、持ち上げて最後の最後で突き放さないで欲しい。
 喜んでいた私が間抜けみたいになってしまう。
 文句の一つくらい言ってやりたい。

 だからこそ、もう一度、会わないといけない。
 伝えなければいけない。いや、伝えたい。

 私のアヤセくんへのこの気持ちを。

 私は首筋に滴る汗を拭うと、止めていた足に再び力を込め走り出した。

   ꕤ

 アヤセくんがいなくなってから二日が経った。
 私は未だ見つけられずに街を彷徨っていた。闇雲に探したところで、世界は広く見つかるはずもない。私は彼と行ったことのある思い出の場所を巡った。

 スカイツリーに浅草、美術館や秋葉原、それに夏祭りで行った神社。
 どこにもアヤセくんはいなかったが、探し回るとまるで彼が隣にいるような錯覚をすることが何度もあった。当たり前だ。この一月半もの間、私はずっと彼と一緒にいたのだから、気配を感じたっておかしくない。

 気配。

 私は今までにアヤセくんの気配を何度も感じたことがあった。
 最初に秋葉原から如月駅にたどり着いて、彼を見つけた時や中学校に行ったときにハグれた彼を見つけたときもそうだ。

 理由は分からないけど、私には彼の気配を感じる力のようなものがあった。
 きっとアヤセくんの感情が私に動悸するのと近しい現象のようにも思える。私は二日間、彼の気配をずっと追い続けた。しかし、その追跡から逃れるように彼も移動しているのだろう。

 鼬ごっこのように彼のもとに辿り着くことはなく、時間だけが過ぎていた。

 アヤセくんの手紙には、あと数日と書かれていたが、まだ大丈夫なのだろうか。不安だけがよぎっていた。
 このまま彼に会えないまま、元の世界に帰ることになるのではないか。

 頭に浮かぶ不安の数々を消し去るように私は走り出した。

   ꕤ

 ビルの最上階、屋上から眺める電飾に彩られた夜景を眺めながら、俺は左胸部を抑えつけた。前に茅乃と来た場所だったこともあり、妙に懐かしい。足をぶらんと宙に垂らして、ビルの縁に腰を下ろし、外側からフェンスに凭れ掛かった。

 茅乃には悪いことをした。

 反省している。後悔もある。言い訳のしようもない。
 だけど、茅乃とこれ以上、一緒にいることは耐え難いことだった。
 それに俺には、最悪のシナリオを回避する義務もある。

 本心を曝け出すなら、茅乃とずっと一緒にいたい。
 離れたくだってないし、一緒に元の世界に戻りたい。
 だけど、それは不可能なことだと知った。

 現実の俺は、もう死んでいる。
 俺は自分が死ぬ直前のことを記憶と一緒に思い出していた。

 二◯十六年、三月二十日。下校中のことだ。
 曇空の中で俺とその友人であるショウの二人で、帰路についていた。受験も終わり、卒業式の準備のため学校に行っていた。
 あと数日で卒業式を迎えるのだと、ノスタルジーに浸りながら談笑をして、信号待ちをしているときだった。

 コンッと、小さく硝子のような音がした。
 見遣るや小さなビー玉が道路に向かって、流れていた。落とし物だろうか。
 特に気に留めることもなく話に戻ったが、その直後、俺の隣にいた少年が落としたビー玉を拾おうと道路へ飛び出した。

 周囲には多くの人がいて、しかし、誰も少年を止めようとはしない。

 気づいたときには、横断歩道の四分の一まで少年は飛び出していて、その時に少年に向かうトラックを視界に捉えた。

 危ない。そう思ったときには、すべてが遅かった。

 誰か助けろよ。頭に浮かんだ考えを振り払うようにアヤセくんは少年のもとへ一直線に走り出した。背後からそれを止めるように稲沢くんの声がしたが、構やしないといった勢いだった。

 物凄い衝撃だったと思う。
 彼の身体はトラックに轢かれ、数メートル以上も飛ばされていた。ガードレールに頭を打ったらしく、視界が明滅し酷い目眩もした。

 耳鳴りと一緒に鳴り止まないトラックのクラクション。
 それでも俺は最後の粘りを見せて財布から、あるものを取り出すとそれを力強く握りしめた。

 臓器提供意思表示カード。
 俺が命の灯火を消す瞬間まで、手に持っていたものだ。
 高校生になったときに気の迷いみたいなもので発行したもの。今になって分かったが、きっと人間の無関係な相手への無関心で薄情な性質が自分にもあることを何処かで否定したくて作ったのだろう。

 たとえ死んでも、
 誰かの役に立てると考えるとちょっとだけ救われた気がしたから。

 『大丈夫ですか? 聞こえますか?』

 女性の逼迫したような声がした。身体の感覚が少しだけ残っていたこともあり、何かに運ばれていると分かった。
 薄らと視界に映った天井は病院内にも感じられて、赤い光が点っていた。

 先の展開は読める。多分、手術が行われたのだろう。そして、命を落とした。

 人は三分の一ほどの血液が身体から失われれば死ぬという。アヤセくんは身体から流れる血がコンクリートの道路を浸したときに死を覚悟したという。

 だが、ちょっとだけ満足していた。

 死んだように生きていたが、初めて自分から行動を選んだような気がした。
 胸が熱くなって、これが生きるということかと、死ぬ直前に分かったのだから、笑ってしまった。
 勿論、笑っただけで口から血液が溢れそうになるのだから、微笑む程度だが。

 笑いながら。響谷文世という一人の人間が死んだ。
 死んだのだ。疑う余地もなく。だが、茅乃は違う。
 茅乃はまだ知らないだろうが、現実の紡希茅乃の肉体は、今もあの病床で生き続けている。

 ドナーとして選ばれた、俺の心臓を受け継いで茅乃は今も生きている。

 所謂いわゆる、心臓移植だ。
 今も病気により植物人間状態になっているが、近いうちに現実世界で目を覚ますことができるだろう。だが、精神はまだここに残り続けている。

 茅乃の精神を向こう側に送り出すことが俺の役目とでも言うのだろうか。

 如月駅。そこに来る列車に乗れば、茅乃は帰ることができる。
 この精神世界から抜け出すことができる、そんな確信があった。

 だが、ドナーのことを茅乃が知ることは、絶対に避けるつもりでいた。
 もしも茅乃が俺の心臓を受け継いでいることを知ったら、どういったことになるかは目に見えていた。最悪のシナリオを回避するためにも、黙っておく必要があった。

「さてと」

 俺はビルの縁から立ち上がり足元を見下ろした。見るだけでくらくらと目眩がするほどに恐怖心を煽る、落ちたら一溜まりもない高さ。
 パラペットと呼ばれる建物の屋上の外周に取り付けられた突起に立っているため足場も不安定だ。ちょっとでも強風が吹けば、勢いのままに落下してしまう。

「そろそろかな」

 囁くように吐き出すと、俺は、そこから飛び降りた。
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