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第一章

ニヒル・セカイ

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 秋葉原駅は総武線と山手線がまるで十字を描くように交差している。
 俺たちがいるのはその中間あたりだろうか。駅構内の空気も相変わらずで、日本の夏を象徴するようなじめっとした暑さが二人を出迎えた。

「なるほど、やっぱり、この場所に繋がってるってことね」

 繋がってるとは何の話だろう。

 隣側からそんな呟きが聞こえたが、俺の耳にはどうも届かなかった。

 俺は制服のネクタイを下ろし、汗ばむシャツの第一ボタンを外してから、辺りを一瞥する。

 これは特定の駅に限った話ではないが、都心の駅はどれも騒然としている。
 連なる人々の会話、道ゆく者のカツカツという足音、キャリーケースを引きずる雑音。しかし、秋葉原駅は静かだった。聞こえてくるはずの靴音や人々の会話も一切存在しない。いや、それだけじゃない。もっとずっと根幹の問題だ。

「それになんだよ、アレ。化け物か何かか? いや、でも生物には見えないな」

 俺は視線の先にあるものを捉えながら、そう呟いた。
 青く透き通った物体。表現するのであれば、人間ほどの大きさをしたナニか。そのナニかには、頭部があり腕もあり足もある。まるで人のシルエットを象っているようで、しかしそれは半透明で紺碧色をしていた。
 だが、それを明確に指し表す言葉は見つけられず、『俺たちとは異なるナニか』と、そう表現することしかできなかった。

 そんなナニかが周囲に幾数も存在していて、駅構内をを彷徨いている。色彩や質感はドラクエのスライムに似ていたが、その可愛らしさは微塵も感じられず、その奇怪さが脳に不快感を植え付ける。

 人がいないのだ。
 周囲をいくら見渡しても一人もその姿を捉えることはできない。その代わりに駅を犇めき合っている謎の物体があるだけ。

『たぶんアレを見たらきっと君も理解してくれると思うよ。ここが君の元居た世界世界じゃないってことを』

 少女の言葉を思い出していた。そして、納得していた。するしかない。記憶がなくたって分かる、アレがこの世界では異物であることぐらい。

「——あれは、ニヒルだよ」
「ニヒル?」
「うん、私はアレをそう呼んでる。不気味な感じだと思うけど、特に害はないし、怖がることはないけどね」

 どこか遠くを見据えながら少女は静かに呟いた。その瞳が如何なる感情を語るかなど想像も及ばない。

「害はないって言われても、そういう問題じゃない気がするんだけどな」
「そうかな? まぁすぐに慣れると思うよ、アヤセくんも」

 少女の口振りはアレを気にも留めず、あたかも無き者として扱っているように感じられた。

「どうだか。この光景に慣れたら、それこそ異世界の住人になってしまう気がするけどな」

 俺が軽口を叩くと、少女は途端に詰め寄り「ふーん」と懐疑的な目で見つめ始めた。

「って、おい。なんだ?」
「んー。アヤセくん、あんまり驚かないんだなって」
「いやいや、これでもかなり驚いてるからな。顔に出してないだけで、色んな感情がえらいことになってる」
「えぇ、そうかなぁ。ならもっとこう、さ。それなりのリアクションをすると思うんだけど。なんかちょっと、残念」
「そういうものか?」

 コクリ、と小さく頷く。
 しかし、少女の言う通りかもしれない。テレポーテーションには動揺したが、記憶がないことが功を奏したのか。ニヒルに違和感を覚えることはあっても、恐怖や嫌悪感はなかった。
 とはいえ、偏見なくアレを見たら誰もがただの無機物・・・・・・だと思うだろうな。

「反応が薄い、か。なら君の方こそ、こんなのが町中にいるっていうのに焦ってないんだな」
「んー。まぁね、私はもう見慣れちゃったから」

 こんな異常な世界に対しての理解度とでも表現するべきか。達観しているというか、この少し異常な世界に順応している。
 まるでこの場所で長い時間を過ごしてきているような妙な貫禄があった。

「見慣れた、ね」
「うん、そうそう。あ! ねぇ、そんなことよりさ。お腹空いてない?」

 俺が訊ねるも少女は、なんの脈絡もなく話題を変える。
 それほど、この子にとってこの事態はたった一言で済まされることなのだろう。駅構内で茫然自失とする俺に提案をするのだから実にマイペースだ。

「近くにお店があるから行こうよ。今さ、すっごく空いてるんだよね、お腹」
「うん。なるほど、それは随分といきなりだな」
「いきなり? さっきから思ってたよ」
「そうじゃなくてさ」

 なんだろう、天然なのか。ペースが掴めない。
 警戒心を微塵も感じさせずに距離を詰めて、少女は小悪魔の笑みを浮かべた。

「ダメかな?」
「ダメというか。そういうわけじゃないけど」

 鼻腔をくすぐる甘い香り。いろいろと近づいたせいか気圧されそうになる。

「じゃあ、決まりっ!! 店はあっちだよ」

 少女はにんまりと微笑みを浮かべるとどこか弾んだ声音で言い切った。
 身体を寄せて訊いてくるせいで、一歩だけ後退りをする。それはズルいと思いつつも、特に断る理由もない。
 押し切られるままに、少女の指差す方へと身体を預けた。入道雲がビルの隙間から顔を出す夏日、俺はこれからの行く末を案じていた。

 ◇

 ピピッ、と軽快な音を鳴らす改札機を横目に通り抜ける。またしても、取り立てて何かが起こることはなかった。
 少女曰く、どうやらこの世界ではこれがスタンダードなようだ。

「それで、どこに行くんだ?」
「スタバだよ、スタバ。あ、もしかして、がっつり食べたい気分?」
「いや、そうじゃなくて。この世界に人がいないなら店に行っても意味がないんじゃないかってこと」

 カフェに向かう道中の会話だ。少女が先陣を切るように半歩前を歩いていた。

「うーん、私もそう思ったんだけど、不思議なことにニヒルって私たちと同じ生活をしてるんだよね。通勤したり、運転したり、商売をしたり。小さい個体から大きな個体までいて、会話はできなくても意思疎通は図れるんだよね」
「意思疎通? どういうことだ」
「こちらの言葉を理解してるっていうのかな? まぁ、私もあんまり分からないけど、あんまり気にしなくてもいいと思うよ」
「あれがか?」
「うん、SF映画に出てくる宇宙の生命体みたいだよね。ああ見えて、人間並みの知能はあるんじゃないかな」

 少女は語る。
 実際に少女の言葉通り、街にはさらに多くのニヒルがまるで人間の生活を真似るよう動き回っていた。まるで人間の生活を模倣するようで、バスの運転をするモノ、店を営業するモノ、通勤するモノなどが無数に存在した。

 ちなみに、ニヒルに足音などはないが、バスの駆動音や自転車などの環境音は生じるらしい。
 ここで敢えて、『モノ』と表現するのは彼らが生物ではないからだ。肌感覚だがなぜだか分かった。少女はそれらを生物のように扱っているが、極めて理解し難いことだった。

「ここか」
「うん、そうだよ」

 駅から徒歩数分の中央改札を抜けて南、すぐのところに店は構えられていた。
 Starbucks。日本でもチェーン展開しているコーヒーショップで、スタバと略されることが多い。
 小洒落た内装にゆったりとした空気感を好む人が足繁く通うとか。

 店内に入ると空調が効いているおかげか、涼しげな風に出迎えられた。
 ニヒルとかいう、ナニかが埋め尽くしてなければ、心身を落ち着けることができて、実に快適だっただろうに。

 苦言を呈する俺にカウンターに並ぶ少女が手招きをする。

「抹茶ラテのSサイズとチーズケーキを一つずつ。アヤセくんは何にする?」
「いや、コーヒー以外に分かるものがないんだけど」

 片仮名の多いメニュー表に思考を放棄してしまいそうになる。いくつか聞き覚えのあるメニューはあったが、好みはあるのだろうか。

「ああ、んーと——アヤセくんって甘党? キャラメルとかって平気?」
「どうだろう。大丈夫いけると思うけど」
「うん、それなら私のおすすめを注文するね。えっと、キャラメルマキアートとアップルパイをください」

 少女が呪文を唱え終えると、ニヒルが奥へと消えていった。
 カフェ内は俺と少女を除けばニヒルの占有状態で、まるで地球ではないどこかの惑星に迷い込んでしまったような感覚に陥る。

「やっぱ、居心地が悪いな。これって、ほんとに襲ってこないんだよな?」
「あはは。まぁ、最初は不安だよね。けど、襲ったりしないから大丈夫。むしろ守ってくれちゃうかもね」
「なぁ、それってどういう——」
「あっ。できたみたいっ」

 俺の言葉を遮るように少女は商品に釘付けになる。言わずもがな、それを運んでくるのはニヒルだ。
 少女はトレーと一緒に受け取ると、空席を探し始める。

「金はいいのか? 払ってなかったけど」
「え? あ、うん。ここではお金はいらないよ。改札でも払ってないでしょ?」
「そういえば、そうだったな」
「私が思うにね、この世界に貨幣や通貨って概念は、存在しないんだよ。その代わりにある程度の施設なら、無償で利用できる感じ? 聞こえの良い言葉にするなら、VIP待遇に似てるかも」
「——VIP、ね」

 タダより高いものはないというのに、なんと都合のいい世界なのだろう。元の世界の常識を持ち出すことすら、野暮だと思い知らされた気分だ。

「んー。どこ座ろっか」
「ならあそこでいいんじゃないか? あの奥の席」

 選んだ席は店の中でも最奥の席だ。こんな可笑しな世界の居心地の悪さを忘れるためにも、ニヒルが視界に映らないような席を選んだつもりだ。
 もし仮にアレら襲われる展開にでもなれば、逃げ場がない席でもあるけれど。

 少女は席に着くと、目の前にケーキとカップを並べた。

「はい、これ。アヤセくんのだよ。さぁ、たんとお食べ」
「言い方が悪い魔女か餌やりをする飼育員なんだよな」

 無作法ながら少女は机に頬杖をつきながら、にまっと目を細める。蠱惑的な笑みに見えた。
 お腹が空いていないわけではないが、手渡されたフォークを軽く握りしめて、少し考える。

 あの世のものを食べると現世には戻って来れなくなる、なんて俗説もあるしな。加えて、得体の知れないモノの作った食べ物だ。口に運ぶまでに躊躇する気持ちは察して欲しい。

 少女もそのことに気づいたらしい。「あ、そか。じゃあ私が先に食べるね」と断りを入れ、切り分けたケーキを口に運ぶ。

「んーっ——!!」
「ど、どうかした!?」

 少女はケーキを口に含んだ途端に、小刻みに身体を震わせている。しばらく黙りこくっていたが、その沈黙は少女の感嘆の一言で破られる。

「何かを口にするのは百年ぶりだけど、やっぱ食事っていいねっ!」
「はぁ、なんだよ。驚かすな。あと、なんだその嘘は」
「え、でも本当に美味しいよ?」
「そっちじゃない」

 喜色を浮かべながら、少女は肩を揺らす。

「あはは、流石に百年は盛りすぎだよね。実際は半年くらいかな?」
「はいはい、妄想癖ね」
「あ、ひどーッ!!」

 俺は席に深く腰を掛け、少女を見つめた。その顔立ちは見目麗しく、幾度、確認しても息を呑んでしまうほどだ。だが、少女の本当の魅力はその内側から滲んで感じられる和やかな雰囲気だろう。
 毒味などと考えていたことがバカバカしく思えてくるから不思議だ。こっちも少女に続くとしよう。
 躊躇いながらも、俺は慎重に切り分けたケーキに口をつける。リンゴの甘い香りと食感にベース生地の柔らかさが奇跡的な口当たりの良さを演出している。

「ねね、どう?」
「こ、これは、かなりイケるかもな」
「だよね!! やっぱし、アヤセくんもそう思うよね」

 どうやら甘い物が舌には合うようだ。口内に広がる甘い香りと柔らかな食感にたまらず表情が綻び、それに少女——紡希茅乃はあっ、と反応する。
 こちらを愉快そうに見つめる茅乃と数秒ほど視線が交錯した。

「どうかしたか? 俺の顔になんかついてるとか」
「いや、そんなことはないけどね。うん。アヤセくんの表情が変わるところ初めて見たなぁって思って」
「表情? って、こういうことか?」

 右手で顔の頬肉を指先で摘むと、俺はそれを軽く引っ張った。

「うん、アヤセくん。駅で会ったときからずっと無表情だったから。ニヒルを見たときも、なんか味気ない反応だったし。けどやっぱりアヤセくんも、ちゃんと人なんだなぁって思ってさ。ほら、ニヒルって表情とかないじゃん」
「ぷふっ、なんだそれ。感性独特すぎだろ、茅乃」
「えー、分からないかなぁ」

 茅乃があまりに真面目な表情でいうものだから、思わず吹き出してしまった。心做しか、茅乃の冗談で空気も和んでいるのだから大したものだ。
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