運命の人

悠花

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運命の人

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 降り注ぐ秋の日差しを浴びる鬼塚は、清々しいほど平静に見える。
 長年付き合っていた恋人を失ったというのに、酒におぼれるわけでもなく、深く傷ついている様子もない。だとしても、多くのものを失ったことに変わりはないはずだ。
 根本的に女がダメな鬼塚にとって、咲久という恋人は貴重だった。抱く側と抱かれる側がハッキリしている、ということは同時に、選択肢が限りなく狭くなるとも言える。
 この世の中に男もイケる男がどれだけいて、咲久のように完全に抱かれる側にいる男がどれだけいるというのか。例え、貴重で数少ないセクシャリティーをクリアしたからといって、誰でもいいわけじゃない。
 恋人にしたい、と思えなければ意味がないのだ。

 プールに浸かったまま、目いっぱい手を伸ばし、鬼塚が座るデッキチェアの脚を掴んだ。力任せに引っ張ると、ガタガタと音を立てながら、チェアが引きずられた。

「何だ?」

 不安定に動くイスから下りる、というのは意外に難しいのか、さすがに慌てる鬼塚が持っていた本をテーブルに置く。

「おいっ、やめろ」

 両手でイスの脚を持ち、一気にプールまで引っ張る。

「純っ!」

 制止を無視して、イスごとプールの中へと引きずり込むと、ザバンッと水面が大きく揺れた。
 鬼塚が沈み、軽いデッキチェアは沈むことなくプカプカと浮かぶ。不安定な体勢で落とされたため、頭まで沈んだ鬼塚が体勢を立て直し、水の中から出て来た。

「最悪だ……」

 そう言って、ずぶ濡れになった頭を振る。競泳用プールでもないので、水深は腰の上あたり。ボトボトの白のシャツが、筋肉質な身体に張り付く。
 これだと、水も滴る何とかだ。素でいい男は、どんな状況にも対応できるらしい。かっこ悪いところを見てやろうと思ったのに、まったくそうなっていない。
 笑っている純を一瞥し、片手で持ったイスをプールサイドに上げる。張り付くシャツを見下ろし溜め息を吐き、不快そうに脱いだ。水を含んだため重くなったシャツを、乱暴に放り投げる。

「あんた、俺のこと名前で呼ぶんだな。知らなかったよ」

 今まで知らなかったということは、今初めて呼ばれたということだ。純の言葉を聞いて、一瞬考えたような顔をした鬼塚が、ハーフパンツのポケットに手を入れる。

「そうだな……そういえば、下の名前で認識してる」

 純は鬼塚のことを、鬼塚と認識している。なので、いざ呼ぶとなると鬼塚と呼ぶことになるのだろう。
 ポケットから出て来た手は、スマホを掴んでいた。

「え……嘘だろ……悪い」

 まさかポケットにそんなものが入っているとは思っていなかったのだ。さすがにこれはマズイと思い謝った純を見ることなく、濡れていない場所にそれを置いた。

「悪いと思うなら、始めからするな」

 言い捨てるような口調は、怒っているようにも聞こえる。
 ただ、聞こえるというだけで、実際はそうでもないだろうと純は思っていた。何故かは説明出来ないけれど、そんな気がするのだ。鬼塚は、多少のことでは怒らない。
 純の考えが正しいとでも言うように、それ以上の文句もなく、気を取り直したように身体を水に沈める。対角線上を、息継ぎなしのクロールで一気に泳ぐ。きっと普段からジムで泳いでいるのだろう、フォームがやけに綺麗だ。端まで行って、一度身体を起こし、今度は長く潜って戻ってくる。
 純の隣で、顔を上げたおかげで水しぶきが飛んだ。

「あんたって、存在じたいが嫌味だよな」

 顔に掛かった水を拭いながら、鬼塚を見ずに言うと、ふっと笑う声が聞こえ。

「スマホ水没させといて、次は文句か?」
「文句じゃねえよ、褒めてんだよ」

 金持ちの余裕なのか、大人の余裕なのか。
 一見すると親切そうにも見えないし、寛大にも見えない。それなのに実際の鬼塚を知ると、親切で、寛大な男だとわかる。
 優しい人で、優人……。まさに鬼塚のことだと今なら思える。
 ふたりで並んで空を見上げる。人の気配もなく、ただ雲の流れを見つめるだけの無駄なようで有意義な時間。

「おまえ、引っ越さないのか?」
「引っ越す。今、探してんだけどな。何で選べばいいのかわかんねえんだよ」

 というより、このさい実家に帰るというのもありだと思えて来たのだ。そもそも、家を出たのは元樹と暮らすためだけのことで、実家に不都合があったわけではない。一人になった今、実家に帰るという選択肢もあるのだと最近気付いたのだ。

「一緒に暮らさないか?」

 言われた意味がわからず隣を見た。純と同じ体勢で空を見上げている鬼塚の髪から、水がポトポトと垂れている。その水滴が僅かに盛り上がる肩に落ち、硬く滑らかそうな腕から転がり落ちた。

「一緒にって……あんたと俺が?」
「そうだな」

 そうだなって。鬼塚と一緒に暮らす?

「いやいや、おかしいだろ。何であんたと俺が? 理由は?」
「それ聞いてどうする」

 どうするもこうするも、純には、そうする理由が思い当たらないからだ。

「いや、普通聞くだろ。理由なく一緒に暮らすとかありえねえし」
「理由とかどうでもいい」
「よくねえよ。そこ重要なんじゃ……」
「一目惚れだったのかもな」

 ちょっと待て、何言ってんだ?

「初めておまえを見た時、単純にタイプだと思った。生意気そうで、軽薄な感じが悪くないなって」

 軽薄なのに悪くないって、意味がわからない。

「頭の回転も悪くなさそうだったし、どんな仕事するのか興味があって、次に会ったとき声を掛けてみた。でもおまえは、まともに相手にしなかったよな。そんな媚びてない感じも、また悪くねえなって」

 媚びなかったわけじゃない。単純に面倒だっただけだ。

「そんなころ、取引先の不祥事に巻き込まれて、死ぬほど忙しかったときに、仕事が一段落ついて一番に思い出したのはおまえのことだった」

 それってもしかして、ラーメン屋に行った時の話か?

「あのときのビールは美味かった」

 それは純もそうだった。

「正直、船のパーティーは最悪だったよ。一睡も出来なかったせいで、朝飯なんて食う気分じゃなかったからな」

 もしかして、純が食べた丼は、鬼塚が食べなかった物だったのか?

「おまえは俺の予想をいつも裏切る。生意気なのかと思えば、たんに素直なだけだったり、顔が良いわりに、自分への好意には鈍感だったり、軽薄そうなのに、誰よりも一途だったりな」

 それって、褒められてんのか? そもそも、好みのタイプが生意気で軽薄って、そのじてんでおかしいだろ。いやでも、最強の黒歴史を持つ鬼塚だ。ありえなくもない。

「なにより、最悪だったのは、泣いてる姿を見ていたら、咲久を奪った日向に腹が立つのか、おまえを傷つける日向に腹が立つのか、自分でもわからなくなったことだ」

 少しずつ、日が沈んで行くのか、鬼塚を照らす日差しの色が変わり始める。
 言いたい事はわかった。わかるからこそ、そんなバカな、嘘吐くな、と否定する気にならない。
 純が初めて鬼塚に会った日、何を考えていたかを思い出せば明白だ。鬼塚に組み敷かれる自身を想像したのだから。

「本心を言ってもいいなら、会えば会うほど、おまえに惹かれてたんだよ」

 それは、驚くほど純にも当てはまる言葉だった。

「でも、俺には咲久がいて、おまえには日向いた……」

 その通りだ。それがすべてだ。
 腹の底でどう思っていようと、純も鬼塚も行動には移さなかった。良いも悪いもない。鬼塚は咲久を大事にしていたし、純も元樹を愛していた。そこに嘘はない。

「な? こんな説得力の欠片もない話聞いても、何も響かねえだろ。だから理由なんていいんだよ」

 確かにそうだ。後から何とでも言える話など、無意味でしかない。

「俺が生かしてやるよ」
「生かす?」
「おまえ、前に言ってただろ。生きるために働くって。おまえが生きることを俺が保証すれば、好きなことが出来るんじゃねえのか?」

 いや、まあそうだけど。別に今の仕事が嫌なわけでもない。他にやりたいことがあるわけもないし。それよりも、大事なことがある。

「なあ、あんた、根本的なこと忘れてねえか」
「なんだ?」
「俺、カミングアウトする気ねえのに、あんたなんかといられるわけないだろ」

 純がそう言うと、穏やかな声で、それもそうだなと呟く。やっぱり、悪くない。いつだってこの男は、悔しいほど魅力的だったし、これからもそうなのだろう。

「でもまあ、あんたがどうしてもって言うなら、考えてもいいけどな」

 男同士ふたりで旅行がありなら、一緒に暮らすってのもありなんじゃねえの。純に視線を向けた鬼塚がどこか幸せそうに笑う。
 いいんじゃないか。すべてを晒した相手だ。今さら、隠すこともなければ取り繕うこともない。

 最悪なときを知っている鬼塚なら、どんな純も受け入れてくれる気がした。




   〈完〉
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