運命の人

悠花

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別れと始り

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 出て行ってから三週間。
 その間、元樹から一度だけ電話があった。当然出ていない。
 出ると、決断を迫られるのはわかっていたからだ。いったい何の決断をしなければいけないのか。

 例のクラブに行くのはやめた。心配顔の松田がいるからだ。松田が純を心配してくれることは、ありがたい。だけど今は、それよりも飲んでいたかった。
 最近見つけたバーは、カウンターだけの小さな店だったけど、マスターがひとりいるだけなので、黙って飲むには最適だった。
 元々、酒に強いというわけではないので、そこで好きなだけ飲んで、酔って帰る。死んだように眠り、喉の渇きで目覚めたら仕事に行くということを、もう何日も繰り返してた。
 純自身、それも限界になりつつあるのはわかっていた。突然、毎日浴びるほど飲みだしたりしたら、身体が持つわけない。でも、やめることも出来なかった。
 やめて、何をどうすればいいのかわからないからだ。

「大丈夫ですか?」

 ふいに聞かれて顔を上げると、年老いたマスターが珍しく純を見ていた。いつもは、知らん顔を決め込んでいるというのに。

「今日はその辺にしておかれては」

 その辺がどの辺かわからない。もう、色々な感覚が麻痺してきているのかもしれない。カウンターに肘を付き、ふらつく上半身を支えるため頭を手で支える。
 もう一杯というようにグラスを渡すと、嫌とは言わず酒を注いでくれた。
 飲もうとしてグラスを上げたとき、横から出て来た手に、突然そのグラスを取り上げられた。

「もう、やめとけ」

 グラスを取り上げたのは、久々に会う鬼塚だった。マスターに返すようにカウンターの端にグラスを置く。

「何だよ……」

 グラスを取り返すと、空いている隣の席に座るわけでもない鬼塚が声を出した。

「飲み過ぎだ」
「んなこと、わかってるよ」

 知ってて飲んでいるのだ。言われなくてもわかっている。
 マスターが、知り合いが来て助かったというような顔で、頼まれてもいないのに水を出して来る。そんなものを飲む気がない純が、酒を一気に煽った。さすがに、頭がクラクラしてくる。
 支えているのも限界で、頭がカウンターにゴンと落ちた。

「見てられねえな」

 ずいぶん、冷たい言い方だ。こっちは、グダグダになっているというのに、相変わらず鬼塚はスッキリしている。自分との違いを認識したくなくて、鬼塚から顔を背けた。

「もう、じゅうぶんだろ」
「何がだよ」

 だいたい、どうして鬼塚がいるんだよ。

「毎日そんなに飲んで、どうする気だ。身体壊すぞ」

 その言葉に、思わず笑った。

「毎日飲んでるって、何で知ってんだよ。つーか、どうしてあんたがここにいんだよ。もしかして、俺を見張ってたとか? さすがに、やべえと思って止めにきた、とか言わねえよな」

 カウンターの冷たさが額を冷やす。コトンと耳元で音がして、顔を動かすと、目の前に水の入る透明のグラスが置かれていた。

「松田も心配してる」

 ありがたい話だ。金持ちってのは、赤の他人を心から心配出来るらしい。余裕があるということは、そういうことなのだろう。
 ただ、それが鬱陶しいときもある。

「も、ってなんだよ。てことは、あんたも心配してるってこと?」
「そうだな」

 目の前にある、横を向いたグラスに纏わり付く水滴が、つっと流れ落ちた。まるでグラスが泣いているみたいだと思うと、ふいにスイッチが入ったのか、腹の底から熱いものが込み上げてきた。
 まただ。泣いても泣いても、涙ってのは枯れることがないらしい。

「だったら、助けてくれよ。心配なんだろ? じゃあ、俺を助けてくれよ」

 恥なんてのは今さらだ。

「あんたの可愛い恋人に言ってくれよ……元樹を返してくれってな。あいつは俺のものなんだよっ。あいつがいない人生なんて、考えられねえんだよっ……」

 溢れてくる涙を見られたくなくて、頭を動かし反対を向いた。そうしたところで、背中が震えているので隠せていないだろう。
 だとしても、構わなかった。

「だいたい、あんた何やってたんだよっ。あんたらが上手く行ってれば、こんなことにならなかったんじゃねえのかっ……」

 わかっている、鬼塚のせいじゃない。

「馬鹿高いマンション買ったんじゃねえのかよっ、なんであんたは、どうでもよさそうなんだよ。浮気されて、よその男に持っていかれていいのかよっ……」

 鬼塚だって、どうでもいいわけない。こんな男だけど、中身は普通なのだ。傷つくこともあれば、納得出来ないこともあるだろう。

「取り返して来いよ。あんたが恋人取り返してくれば、元樹は俺のとこに戻ってくるんじゃねえの……」

 滅茶苦茶なことを言っているのは、嫌ってほどわかっていても、言わずにはいられなかった。

「あんたらとさえ出会わなければ……俺たちは……」

 そう言った純の頭に、冷たい手が触れた。髪をクシャっと掴むような感覚に、さらに涙が込み上げる。

「もう、やめろ」

 静かで、それでいて、優しい声だった。

「そんなおまえは、見たくねえよ」

 見せたくて見せてるわけじゃない。

「わかってんだろ?」

 そうだ、わかってる。本当は、わかっているけど、認めたくないだけだ。

「日向はもう帰って来ねえよ」

 馬鹿みたいに溢れて来る涙を止めたくて、強く目を閉じた。
 元樹の明るく前向きなところが好きだった。何事にも寛大なところが好きだった。純が面倒なことを言っても笑って流すところが好きだった。大雑把な性格なくせに人一倍繊細で優しいところが好きだったのだ。

「好きだったんだよ……元樹を好きだったんだ……」

 鬼塚の手が、わかっているというように純の頭を優しく撫でる。

「でも、気付いてなかったんだ……付き合いが長くて、余計なこと考え過ぎてたんだ」

 元樹との暮らしは、心地が良過ぎた。当たり前の幸せに気付かないほど、幸せだった。

「あんたの言った通りだよ……俺は男が好きで、男に抱かれたいと思ってるゲイだ」

 きっと、鬼塚には最初からわかっていたのだろう。

「でも、元樹は違ったんだよ……逃げ道がなくなったのは俺なんだよ」

 元樹はゲイじゃない。ストレートの元樹が、咲久に恋をしただけのことだ。ゲイだからでも、バイだからでもない。咲久という男の中にある内に秘めた可愛さに、元樹は惹かれたのだろう。
 どう逆立ちしても、純には出せない部分に恋をしたのだ。

「もういい。おまえの日向への想いは、俺が覚えててやるよ。だから、おまえは忘れろ」

 まるで大切な何かを抱えるように、鬼塚が純の頭を自分の胸へと引き寄せた。

「おまえに愛される日向は、幸せだった。それでいいんじゃねえか」

 いいのか悪いのかはわからない。ただ、そう言った鬼塚の優しい胸が、無意味な時間の中から純を救ってくれる気がした。
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