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別れと始り
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しおりを挟む時間には、二種類の感覚があるのだと知った。
今、目の前で過ぎ去って行く秒単位の瞬間と、人生を形成する上で必要な、緩やかでも生産性のある時間。人は、生産性のある時間を失った時、過ぎ去って行く一瞬の中だけで生きなければいけなくなる。
元樹がいなくなって一週間。純は無情に過ぎ去るだけの、空虚な時間の中で生きていた。
「純くん、飲み過ぎだよ。明日も仕事なんじゃないの?」
クラブのカウンター席でロックグラスを煽っていると、心配顔の松田が声を掛けてくる。もう聞き飽きた言葉を無視して、ボトルの酒をグラスに注ぐ。
元樹が出て行った日から3日間、純は仕事を休んだ。休んだというよりも、単純に行かなかっただけだ。社会人としての責任、なんて道徳はクソくらえだった。元樹とは、社会人になるより遥かに前から一緒にいたのだ。
純のこれまでは、元樹と共にいるため、選択され形成されてきたと言ってもいい。
つき合いを始めたとき、互いの家を行き来することに、さすがに躊躇いを覚えた。元樹の部屋であろうと純の部屋であろうと、友達だと信じて疑わない家族に隠れ、抱き合いキスをし、性器に触れ合う背徳感に堪えられなかったからだ。気兼ねなくふたりで暮らすため、大学に入ってからは勉強などそっちのけで必死でバイトをした。就職活動の時も、やりたいことなんてのは二の次で、とりあえず働けて給料が貰えればいいとしか思っていなかった。
元樹との生活を守るため、元樹とこれから先も生きていくため、そのためだけに働いていたのだ。
カミングアウトしたくなかったのも、何も壊したくなかったから。今の生活が、少しでも揺らぐ可能性があるのなら、隠しておいて損はない。
その時、その時に深くそう思っていたわけではない。だけど、そういうことだったのだ。
元樹という人生の軸を失った今、純に残ったのは目の前の時間だけだった。
「そもそも、ちゃんと仕事行ってるの?」
仕事があるからと断る純が面白くないと言っていたはずの松田に聞かれて、矛盾していると思いながらもはいはいと頷く。
「行ってますよ。これからは家賃、ひとりで全額払わねえとだし」
目の前の現実的な問題は、社会人としての責任より重い。
「それに、酒もタダじゃねえし」
「純くん……気持ちはわかるよ。でも、毎日ホント飲み過ぎだよ」
松田がどういう経緯で、事情を知ったのかはわからない。ただ、3日間家に引きこもっていて、4日目から仕事帰りに必ず飲みに出るようになったときにはすでに知っていた。
ひとりの家に帰る気になれず、こうして毎日飲み歩く。記憶が曖昧になるほど酔ってから、家に帰るというのが習慣になりつつある。
「松田さんに、俺の気持ちがわかるって?」
馬鹿馬鹿しい。わかるわけない。
「いや、わからないかもだけど。こういうの、純くんらしくないよ」
「俺らしくないって、松田さん俺のなに知ってんですか」
女々しいだとか、かっこ悪いだとか、痛いだとか、何とでも思えばいいし言えばいい。誰に何を思われても、元樹を失いたくなった。それだけのことで、それ以外のことは本当にどうでもよかった。
ひとりの家に帰りたくない。
シラフでは、元樹と暮らして来た家にいられない。だから飲むってだけだ。
「酒ばっか飲んでないで、日向くんと話し合ってみたら?」
そんな無責任なことを、いかにも困ったという声で言う松田はわかっていない。
「話してどうすんですか。別れてくれって、言われるだけですよ」
「そうだろうけど、でも、このままってのもどうなの? ちゃんと決着して、前に進むって方が、純くんにとってもいいんじゃないの」
「決着ってなんだよ……。つーか、俺なにかしました? 元カノと再会して久々だからってヤリました? 合コンで連絡先貰ったからって、女持ち帰りました? それとも、いい男だからって鬼塚と浮気でもしましたか? 何もしてませんよね」
純の言葉に、松田が何を言えばいいのかわからないという顔になる。
「それなのに、別れて前に進むって、いったいどこに進めばいいんですか」
「そうだけど……」
「別れない俺が悪いんですか? このままだと、椿さんが可哀想だから? いいですよね、ああいうタイプは。みんなの同情かえて。だからって、俺に同情してもらわなくてもいいですよ。同情なんてされても、元樹が帰ってくるわけじゃねえし」
本音を言うと、このまま別れないでいると、いつか元樹が戻ってくるのではないかと期待している。元樹なのか咲久なのかはわからないけれど、どちらかが飽きたとき、純がいると元樹には帰る場所があるのだ。
限りなく低い可能性だとしても、ゼロではないかもしれない。
「俺は、咲久くんのことも知ってるけど、やっぱ純くんが好きなんだよ。だから、そんな純くん見てるのは辛いんだよ」
そう言った松田が、純が手に取ったグラスを取り上げる。そしてそれを、カウンターの中にいるボーイに渡した。
「もう、帰ろう。送るから」
冗談じゃない。まだ、それほど酔えてない。こんな状態で帰れば、辛いだけだ。財布から出した金をカウンターに置き、黙って店を出る。
酒が飲める店なんて、腐るほどあるのだ。何もここじゃなくていい。
「ちょっと、純くんっ!」
松田の呼びかけに答えることなく、クラブを後にする純の脳裏には、別れを切り出した時の元樹の顔が映っていた。
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