運命の人

悠花

文字の大きさ
上 下
53 / 60
別れと始り

しおりを挟む

 時間には、二種類の感覚があるのだと知った。
 今、目の前で過ぎ去って行く秒単位の瞬間と、人生を形成する上で必要な、緩やかでも生産性のある時間。人は、生産性のある時間を失った時、過ぎ去って行く一瞬の中だけで生きなければいけなくなる。

 元樹がいなくなって一週間。純は無情に過ぎ去るだけの、空虚な時間の中で生きていた。

「純くん、飲み過ぎだよ。明日も仕事なんじゃないの?」

 クラブのカウンター席でロックグラスを煽っていると、心配顔の松田が声を掛けてくる。もう聞き飽きた言葉を無視して、ボトルの酒をグラスに注ぐ。
 元樹が出て行った日から3日間、純は仕事を休んだ。休んだというよりも、単純に行かなかっただけだ。社会人としての責任、なんて道徳はクソくらえだった。元樹とは、社会人になるより遥かに前から一緒にいたのだ。
 純のこれまでは、元樹と共にいるため、選択され形成されてきたと言ってもいい。
 つき合いを始めたとき、互いの家を行き来することに、さすがに躊躇いを覚えた。元樹の部屋であろうと純の部屋であろうと、友達だと信じて疑わない家族に隠れ、抱き合いキスをし、性器に触れ合う背徳感に堪えられなかったからだ。気兼ねなくふたりで暮らすため、大学に入ってからは勉強などそっちのけで必死でバイトをした。就職活動の時も、やりたいことなんてのは二の次で、とりあえず働けて給料が貰えればいいとしか思っていなかった。
 元樹との生活を守るため、元樹とこれから先も生きていくため、そのためだけに働いていたのだ。
 カミングアウトしたくなかったのも、何も壊したくなかったから。今の生活が、少しでも揺らぐ可能性があるのなら、隠しておいて損はない。
 その時、その時に深くそう思っていたわけではない。だけど、そういうことだったのだ。

 元樹という人生の軸を失った今、純に残ったのは目の前の時間だけだった。

「そもそも、ちゃんと仕事行ってるの?」

 仕事があるからと断る純が面白くないと言っていたはずの松田に聞かれて、矛盾していると思いながらもはいはいと頷く。

「行ってますよ。これからは家賃、ひとりで全額払わねえとだし」

 目の前の現実的な問題は、社会人としての責任より重い。

「それに、酒もタダじゃねえし」
「純くん……気持ちはわかるよ。でも、毎日ホント飲み過ぎだよ」

 松田がどういう経緯で、事情を知ったのかはわからない。ただ、3日間家に引きこもっていて、4日目から仕事帰りに必ず飲みに出るようになったときにはすでに知っていた。
 ひとりの家に帰る気になれず、こうして毎日飲み歩く。記憶が曖昧になるほど酔ってから、家に帰るというのが習慣になりつつある。

「松田さんに、俺の気持ちがわかるって?」

 馬鹿馬鹿しい。わかるわけない。

「いや、わからないかもだけど。こういうの、純くんらしくないよ」
「俺らしくないって、松田さん俺のなに知ってんですか」

 女々しいだとか、かっこ悪いだとか、痛いだとか、何とでも思えばいいし言えばいい。誰に何を思われても、元樹を失いたくなった。それだけのことで、それ以外のことは本当にどうでもよかった。
 ひとりの家に帰りたくない。
 シラフでは、元樹と暮らして来た家にいられない。だから飲むってだけだ。

「酒ばっか飲んでないで、日向くんと話し合ってみたら?」

 そんな無責任なことを、いかにも困ったという声で言う松田はわかっていない。

「話してどうすんですか。別れてくれって、言われるだけですよ」
「そうだろうけど、でも、このままってのもどうなの? ちゃんと決着して、前に進むって方が、純くんにとってもいいんじゃないの」
「決着ってなんだよ……。つーか、俺なにかしました? 元カノと再会して久々だからってヤリました? 合コンで連絡先貰ったからって、女持ち帰りました? それとも、いい男だからって鬼塚と浮気でもしましたか? 何もしてませんよね」

 純の言葉に、松田が何を言えばいいのかわからないという顔になる。

「それなのに、別れて前に進むって、いったいどこに進めばいいんですか」
「そうだけど……」
「別れない俺が悪いんですか? このままだと、椿さんが可哀想だから? いいですよね、ああいうタイプは。みんなの同情かえて。だからって、俺に同情してもらわなくてもいいですよ。同情なんてされても、元樹が帰ってくるわけじゃねえし」

 本音を言うと、このまま別れないでいると、いつか元樹が戻ってくるのではないかと期待している。元樹なのか咲久なのかはわからないけれど、どちらかが飽きたとき、純がいると元樹には帰る場所があるのだ。
 限りなく低い可能性だとしても、ゼロではないかもしれない。

「俺は、咲久くんのことも知ってるけど、やっぱ純くんが好きなんだよ。だから、そんな純くん見てるのは辛いんだよ」

 そう言った松田が、純が手に取ったグラスを取り上げる。そしてそれを、カウンターの中にいるボーイに渡した。

「もう、帰ろう。送るから」

 冗談じゃない。まだ、それほど酔えてない。こんな状態で帰れば、辛いだけだ。財布から出した金をカウンターに置き、黙って店を出る。
 酒が飲める店なんて、腐るほどあるのだ。何もここじゃなくていい。

「ちょっと、純くんっ!」

 松田の呼びかけに答えることなく、クラブを後にする純の脳裏には、別れを切り出した時の元樹の顔が映っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版) 読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭 1/27 1000❤️ありがとうございます😭

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

俺の人生を捧ぐ人

宮部ネコ
BL
誰かを好きになるなんて、気持ち悪いと思ってた幼少期の自分。 高校一年の途中、あいつと再会したことでその気持ちが揺らぐ。 気付いたら止められない気持ちを一体どうすればいいのか。 俺はずっと持て余し、十年ほどの片思いを続けた後、決めた。気持ちを伝えようと。 ※一応完結しましたが、現在修正しています。 そのため一度連載中に戻していますのであしからず。

大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!

みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。 そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。 初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが…… 架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! リクエストの更新が終わったら、舞踏会編をはじめる予定ですー!

【完結】『ルカ』

瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。 倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。 クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。 そんなある日、クロを知る青年が現れ……? 貴族の青年×記憶喪失の青年です。 ※自サイトでも掲載しています。 2021年6月28日 本編完結

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

処理中です...