運命の人

悠花

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接近

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 咲久の店の売上だとか、日向の詳しい仕事内容だとか、取りとめのない会話だったけれど、どれも覚えているほどには正気を保っていたつもりだった。
 だけど、店を出て歩き出すと足元がふら付き、日向の手を借りなければ咲久は雨の中、濡れずに家まで辿り付けなかったのかもしれない。
 弱いのに酒を3杯も飲んだせいだ。玄関の前で鍵が見当たらず、ポケットを探る間、日向は咲久の傘を濡らす雨の滴を払ってくれていた。どこまでも優しい男だ。

「ありますか?」
「あ、あります。あるはず……」

 ないと困る。

「あ、ほら、あった」

 たかだか鍵を見付けたくらいで、ヘラヘラと嬉しそうな顔になる咲久を、まるで保護者か何かのように優しく見守る日向がよかったと笑う。
 咲久が鍵を開けて玄関へと入ると、日向は咲久の傘を玄関の隅に立て掛けた。

「では、俺はこれで。今日は楽しかったです」

 まだ明かりの点いていない薄暗い玄関では、そう言った日向の表情まではハッキリと見えなかった。だけど、その声は相変わらずの優しさと、義務的な要素で成り立っていた。
 誰にでも優しい男は、恋人にも同じ優しさで接するのだろう。だとしたら、いったいどこで他人と恋人をわけているのかがふと気になった。
 日向が肩で支えていた玄関が閉まりかける。
 外の雨音が遠のき、薄暗い部屋に独り取り残されると思った瞬間、咲久の手は無意識に伸びていた。

 掴んだスーツの生地はシットリと濡れ、引き寄せた身体は咲久が思っていたより大きかった。
 何が起きたのか瞬時に理解出来ないのか、されるままだった日向の唇は熱く。ドンっという衝撃を受けるまで、咲久はキスを続けることが出来た。
 強く押されたことにより、壁にぶつかった身体が崩れ落ちる。
 当然だと思った。いったい自分は何をしているのだろう。拒絶を示した日向の顔を見られず、立ち上がることが出来ない。
 重苦しい湿った空気に耐えられなくなった咲久が、思わず口を開いた。

「何やってんだろ。僕、酔ってて……」

 本当は、それほど酔ってはいない。だけど、なかったことにするには、酔いのせいにするしかなく。

「すみませんでした……あ、ありがとうございます……送ってもらって。もう、大丈夫です」

 今のはなかったことに、忘れてください、とでもいうように明るい声を出す。
 大丈夫、日向は大人だ。咲久の考えていることは伝わっているはずだし、だったらそうしておこうとするはずだ。
 ちょっと酔っていただけで、すませてくれるはず……。

「それで、誤魔化してるつもりですか?」

 頭上から落ちて来た声は、困っているというよりは、怒っているように聞こえた。

「大丈夫ってすぐ言うけど、大丈夫に見えたためしがない」

 いつもの優しい口調ではない日向の手が、咲久を立ち上がらせようと腕を掴む。その手を振り払ったのは、これ以上情けない思いをしたくないからだった。咲久がしたことを考えると、日向が怒るのも当然だ。
 一度は振り払われた手で、咲久を無理やり立ち上がらせる。

「何かあるなら言ってください。俺でよければ、話しくらい聞きますよ」

 そんなの言えるわけがない。
 優人に抱かれず欲求不満が溜まり、あなたに触れたくなりました……とでも言えばいいのか。
 咲久が一度も持てたことのない自信を持つ純が羨ましくて、あなたに愛されると自分もそうなれるのだろうかと思い、思わずキスをしてしまいました……とでも言うのだろうか。
 それとも、単純にもっと一緒にいたかったからだと言えば、応えてくれるのか。

「何もありません……ホントちょっと酔ってるだけで」

 そう言って咲久の肩を掴んでいる日向の手を、嫌味にならない程度に軽く振り落とした。
 どれだって、言ってどうにかなることではない。大前提に、咲久には優人が、日向には純がいるのだから。日向は純を愛している。自分たちの愛に確信が持てず不安だからといって、上手く行ってる関係に水を差すなんて身勝手もいいところだ。
 本当に何でもないと伝えなければと思う咲久が顔を上げると、日向が気を取り直したように息を吐いた。

「だったら、俺の話し聞いてもらえませんか」
「え……」
「実は、最近悩んでることがあって」

 日向という男は、本当に優しい。咲久が作ってしまった気まずい状況を、咲久に負い目を感じさせずなくなかったことにするには、自身の話にすり替えるのが唯一の方法だと判断したのだろう。
 酔った勢いでキスすることくらいしか出来ない自分がいよいよ情けなくなり、したことを後悔する。

「嫌ですか?」

 日向に優しく聞かれて、咲久は首を横に振った。嫌じゃないし、自分のしたことを思えば嫌なんて言えない。

「もしよかったら、何か温かいもの貰えますか? 少し身体が冷えてるので」

 そう言われて初めて気付いたのは、自分があまり濡れていないことだった。きっとここまで、出来るだけ咲久に雨が掛からないようにと、日向は濡れながらも傘を差してくれていたのだろう。
 そんな日向の優しさは、心にしみる温かさだった。
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