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111話・従者の悲願
しおりを挟むゼルドさんはあまり詳しく教えてはくれなかったし、僕も何となく聞けずにいた。過去に辛い思いをしてきたのだと、元凶のひとつにアンナルーサ様の存在があるのだと思い込んでいた。
でも、本当は違うんじゃないか。
「貴方はゼルディスがようやく手にした自由を奪おうというのですか!」
アンナルーサ様の発言からは、ゼルドさんに対する悪意などひと欠片も感じられない。ゼルドさんがマーセナー家を出てから得た『今』を尊重する言葉だ。
「はは、馬鹿げたことを。貴族としての責務を投げ出して、一介の冒険者ごときに成り下がった現状が、自由?」
ヘルツさんは乾いた笑いをこぼした。
「……ああ、奥様はゼルディス様に戻ってこられては困りますよね。『現当主の正妻という立場』が脅かされてしまいますから」
ゼルドさんがマーセナー家に戻れば当主の座を明け渡す、と以前フォルクス様が言っていた。アンナルーサ様が伯爵夫人ではいられなくなる、ということだ。
「そうなれば、ご実家への金銭的な援助も打ち切られ、貴女がマーセナー家に嫁いできた意味がなくなるわけです。だから、ゼルディス様が戻ってこないよう必死に言葉を飾っておいでなのでしょう?」
「口を慎みなさい、ヘルツ」
「ハンナ様に優しい言葉をかけているのも、ご自分の立場を守るためでしょう。屋敷内に味方がいないと流石にやりづらいですからね」
挑発的なヘルツさんの言葉に対し、アンナルーサ様は怒りの感情を押し込めながら冷静に返している。
「奥様もライル様も、身分こそ違いますがよく似ていますよ。多くを持つ者に媚びを売り、守られているだけで偉そうにしているところがね」
ヘルツさんの言葉は、ハイエナが僕を蔑む時の言葉と同じ。タバクさんがハイエナ殺しの自白をした時、扉一枚隔てた場所で彼も聞いていたのだ。
僕はまだいい。罵られても、蔑まれても、何度も経験したことだから耐えられる。
アンナルーサ様は高貴な女性だ。従者からこんな扱いをされていい立場ではない。
そもそも彼女は誰にも媚びを売っていない。夫であるフォルクス様からは徹底的に嫌われている。ここで下手に騒ぎ立てれば最悪離縁され、さっきヘルツさんが言っていたように『実家への金銭的な援助』が打ち切られてしまうかもしれない。
「……本当に、愚かだこと」
ふ、とアンナルーサ様が優美な笑みを浮かべ、ヘルツさんを真正面から見据えた。
「自分の中の凝り固まった価値観が万人に当てはまるとでも考えているのかしら。だとしたら、貴方は従者には向かないわ。例え実態が伴わないのだとしても、主人の正妻に対して無礼極まりない態度を取るような愚か者なんですもの」
「これから主人は交代するのですよ。フォルクス様からゼルディス様に。だからもう貴女をフォルクス様の正妻として敬う必要はありません。わたくしの要望に応えていただけるのでしたら敬いますけどね」
笑顔のまま静かに言い争う二人に挟まれ、どうしたらいいのか分からなくなる。
ヘルツさんはなぜ急にアンナルーサ様に喧嘩を売るような真似をしているのか。アンナルーサ様はなぜ強気でいられるのか。
「や、やめてください」
もう黙っていられない。
こんな話、僕が頷かなければ済むんだから。
「先ほどの申し出はお断りします」
緊張で震える声をなんとか絞り出し、ヘルツさんに向かって宣言する。
「僕が好きなのは貴族じゃない。冒険者のゼルドさんです」
ヘルツさんの目が驚きで見開かれた。
提案を断られたからじゃない。
僕とヘルツさんの間にゼルドさんが立ちはだかったからだ。僕を守る大きな背中を見て、強張っていた身体の緊張が解けた。
「いい加減にしろ、ヘルツ」
怒気を孕んだゼルドさんの声に、ヘルツさんは身震いした。恐れや怯えではない。彼の表情からはなぜか歓喜が滲み出ている。
「やはりゼルディス様は先代に似ておられますね。声音も、怒った時の表情も」
先代、と聞いてゼルドさんとアンナルーサ様がサッと顔色を変えた。
マーセナー家の先代当主とは、ゼルドさんとフォルクス様の父親のこと。三年ほど前に亡くなったと聞いている。なぜ今その話を持ち出したのか分からず、僕たちは戸惑いながらヘルツさんを見た。
「先代の願いは『マーセナー家に高貴な血を入れること』。わたくしはその願いを遂行するためだけに仕えているのに」
冷静で落ち着き払ったいつものヘルツさんはもういない。口調は変わらず穏やかだけれど、何かが違う。彼が今まで抑え込んできた本心があふれ、止まらなくなっている。
「最初の取り決め通り結婚してくだされば良かったのに、ゼルディス様は全てを拒絶してマーセナー家から飛び出してしまわれた。貴女のせいで!」
アンナルーサ様を責め立てる言葉を吐くヘルツさんの両肩をゼルドさんが掴んで揺さぶった。正気に戻れ、と言わんばかりに。
「私が家を出た理由は私自身にある。私では父の期待に添えないと分かったからだ」
「お怪我で左耳の聴力が落ちたからですか。三年の放浪生活の間にほぼ治りましたよね。身体的な問題がないのでしたら、マーセナー家に戻られてもよいではありませんか!」
ヘルツさんはゼルドさんの聴力の回復に気付いていた。だから今になって必死にマーセナー家に戻るように策を講じているのだ。
「マーセナー家は既にフォルクスが継いでいるし、第二夫人が生んだ跡継ぎもいる。私が戻る必要がどこにある」
「このままでは先代の遺志が叶わないままです。フォルクス様はアンナルーサ様を嫌い、決して子を成そうとしません。高貴な血をマーセナー家に入れるには、ゼルディス様にアンナルーサ様との子をもうけていただくしか……!」
先代当主の悲願は由緒ある古参貴族の血をマーセナー家に取り込むこと。
頑なにアンナルーサ様を嫌うフォルクス様を説得するより、ゼルドさんに再びその役目を負わせるほうが簡単だと考えたのだろう。
それを強く望んだ先代当主はもうとっくに亡くなっているというのに、ヘルツさんは未だに縛られているようだった。
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