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30話・甘えと弱音
しおりを挟む治療院の訪問から数日後、ティカから頼まれた物資を届けに来たリヒャルトは、ついでにルーナの部屋にも顔を出した。
「リヒャルト様、こんにちは」
「ああ。変わりないかルーナ嬢」
「昨日もその前も同じことを聞かれましたわ」
「そうだったか」
普段女性と関わる機会がないからか、リヒャルトは気の利いた話題を振ることができない。無愛想な表情も相まって怖い印象を周りに与えているが、本当は優しい人なのだとルーナはもう知っている。故に、彼だけは男性恐怖症の対象から外れていた。
二人でテラスのテーブルにつく。お茶の支度を整えてから、ティカは慌ただしく退室していった。リヒャルトが運んできてくれた物資の仕分けをするためだ。ティカにはやらねばならない家事があり、来客中にずっと付き添っている暇はない。
「ディルクの件だが、退院後も患部に痛みはないようで早速任務に復帰している」
無理やり復帰させた張本人はリヒャルトである。
「マルセル先生が経過を診てくれたが問題はないとのことだ。他の三人についても快方に向かっている、と」
「安心いたしました。少しでも皆さまの痛みを軽くできたのならこれ以上の喜びはありません」
リヒャルトからの報告に、ルーナは安堵の息をつく。怪我人に治癒のハンカチを使う現場に立ち会い、効果を目の当たりにした。実際に怪我が治り、元気に動ける姿を見て喜ばしく思った。そして、それは自らが刺繍を施したハンカチによってもたらされた効果なのだと初めて実感できた。
ただ、今回の四人はあくまで検証のために選ばれた『同程度の負傷者』なのだ。治療院には他にも怪我人や病人が多数入院しており、延々と続く痛みに苦しんでいる。そう思うと、ルーナは落ち着かなかった。
今こうしてリヒャルトと話をしながらも、ルーナは刺繍をし続けている。ティカが淹れてくれた茶がぬるくなっても口をつけず、菓子に手を伸ばすこともしない。言葉を発する時と聞く時だけは視線を上げ、きちんと相手の顔を見るが、それ以外はずっと針を動かしていた。
「無理をしてはいないか?」
「いえ。そんなことは」
「だが」
リヒャルトは、じっとルーナの顔を見つめた。顔色が悪い。薄っすらと目の下にクマができている。傍に置かれた籠を見れば、ハンカチが数枚仕上がっていた。検証で使われたものとは違う。新たに作られたものだ。
先ほど物資を渡す際、ティカから耳打ちされた言葉を思い出す。
『治療院から戻った後、ずっと寝ずに刺繍しているんです。食事をする間も惜しむくらいで。リヒャルト様、お嬢様に休むよう話をしてくださいませんか。アタシが何度言っても聞いてくれないんです』
普段は明るく快活なティカが弱音をこぼし、頭を下げて頼み事をしてきたことに、リヒャルトは驚きを隠せなかった。
身分差はあれど、出奔した今となっては関係ない。ティカはルーナの良き理解者であり、良き友である。そんな彼女の言葉に従わないのなら、他の誰にも不可能ではないかと思えたからだ。
どうしたものかと悩んでいる間、会話が途切れた。もともとリヒャルトは口数が少なく、共に過ごせば無言の時間も当たり前のように訪れる。出会ってからしばらくして、ルーナはリヒャルトとの会話のない時間も普通に受け入れられるようになっていた。無理に話す必要はない。むしろ刺繍が捗るとさえ思っているかもしれない。
無心に針を動かす姿を見つめていると、不意にルーナが顔を上げた。バチッと視線が合い、リヒャルトから逸らす。
「そういえば、ディルク様に一番刺繍の多いハンカチを使っておられましたよね」
「あ、ああ」
どうやら治療院でのことを思い出したらしい。ルーナは一旦手を止め、持っていた針と刺繍枠を裁縫箱へと戻した。そして傍に置かれた籠から完成品のハンカチをひとつ取り出した。美しい花の刺繍、縁はレースで飾られ、どこかの貴婦人の愛用品だと言われても疑う者はいないだろう。
「施した刺繍の多さで回復する度合いが変わるとか。やはり、リヒャルト様は部下のかたを大事に思っていらっしゃるのですね」
ディルクに使われたハンカチは、今ルーナが手にしているものと同様に一番凝った作りをしていた。だが、リヒャルトはすぐさま首を横に振る。
「どのハンカチを誰に使うか決めたのはマルセル先生だ。俺じゃない」
恐らくマルセルは、うるさい怪我人にさっさと退院してほしかったのだろう。ハンカチの件を持ち込んだリヒャルトに忖度して部下を特別扱いした、というわけではない。
「でも、ディルク様があれほどまでに弱音がこぼせるのは周りのかたが皆お優しいからですわ。私、少し羨ましく思いましたの」
ふふ、と笑いながらこぼされた呟きは彼女の本音なのだろう。
リヒャルトは、思わず席を立ってルーナに歩み寄った。背の高い彼を見上げるために上を向くが、急な眩暈を覚え、ルーナは手のひらで目元を押さえて俯く。
「おまえは誰にも甘えないのか」
「え……?」
思わぬ問いに、ルーナが目を瞬かせた。目線を合わせるためか、リヒャルトがルーナの隣に膝をついている。間近から真剣な眼差しを向けられ、ルーナはどきりとした。
「私、ずっと甘えてばかりですよ。ティカにも、リヒャルト様やラウリィ様にも」
「それは甘えとは言わん」
ピシャリと否定され、ルーナは困惑した。
「今の状況は、おまえが周りに与えた慈悲や厚意がそのまま返ってきているだけだ。おまえが甘えているわけではない」
リヒャルトの大きな手のひらが伸ばされ、頬に触れる。そして、親指の腹でルーナの目の下をそっとなぞった。
「寝ずに刺繍していると聞いた。誰がそこまで根を詰めろと言った?」
「……」
他の男に近付かれれば慌てて距離を取るか硬直するルーナだが、リヒャルトに対しては最初から平気だった。でも、恐怖とは別の意味で落ち着かない。しばらく見つめ合っているうちに、耐えきれなくなったルーナが口を開いた。
「昨日、治療院でお怪我をされている方をたくさん見掛けました。私の作るハンカチで治せるのであれば早くなんとかしてさしあげたい、と」
「気持ちはありがたいが、その前におまえが倒れてしまう」
「私など、別に」
魔力持ちは体内の魔力が尽きれば動けなくなる。枯渇状態が続けば命に関わる。短期間に何枚もの治癒のハンカチを作り出したルーナは自身の魔力をほぼ使い果たしていた。それに加え、長時間の作業によって睡眠不足に陥っている。
「私みたいな役立たずでも誰かの役に立つ方法が見つかったのです。治癒のハンカチを作らなくては、私はまた居場所を失ってしまう……」
ルーナの言葉はリヒャルトの胸を深く抉った。
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