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11話・穏やかな隠遁生活
しおりを挟むクレモント侯爵家から逃げ出してから一ヶ月が経とうとしていた。
「お嬢様って意外と順応早いですよね~」
すっかり庶民の格好や暮らしに慣れ親しんだルーナは、あきれたような感心したようなティカの言葉に作業の手を止めて顔を上げる。
「もう『お嬢様』じゃないわよ、ティカ」
「人前ではちゃんと『ルウ』と呼んでます」
「二人きりでも徹底すべきだわ。私はもうあなたが仕える主人ではないのだから」
ルーナの手には一枚の高価な布があった。先に作っておいたレースを縫い付ければ美しいハンカチとなる。繊細なレースと刺繍が施されたルーナお手製のハンカチは高値で買い取られ、そこそこの稼ぎを生み出していた。
ここはアルケイミアの隣にある国シュヴェルト。国境から少し離れた中規模の街である。手持ちの宝飾品を売って得た金銭で部屋を借り、裁縫道具と材料を買って針仕事を始めたのだ。手先が器用なルーナは卸先のニーズに合った品を安定して供給し、今や売れっ子の針子となっていた。
「生活基盤も整ったし、なんとか暮らしていけるようになりました。正直、最初はどうなることかと不安でしたけど」
当初ティカは自分が働いてルーナを養おうと考えていた。世間知らずで気弱なお嬢様を守ってやるつもりだった。しかし、ルーナは趣味の刺繍で生計を立てられるほどの腕前を持っていたのだ。良い意味で当てが外れたと言って良い。
「でも、私は世間に疎くて。ティカに頼らなくては住む場所すら見つけられなかったわ」
「アタシは生粋の庶民ですから!」
虐げられていたとはいえ、ルーナは貴族令嬢として育てられている。アルケイミアの王都から出たことすらなく、庶民の生活がどんなものかも知らなかった。故に物価の相場も知らず、悪い商人にぼったくられそうになったことも一度や二度ではない。刺繍したハンカチを卸すにも、世間知らずなルーナに価格交渉は任せられない。下手をすれば材料費より低く買い叩かれてしまう。その度にティカが割って入り、適正価格で取り引きさせた。
「先日卸したハンカチ、すぐに売れたそうですよ。お嬢様の刺繍はとてもキレイですからご婦人がたに人気みたいで」
「そう、良かったわ」
ルーナが手掛ける刺繍のモチーフは季節の花と紋様を組み合わせたもの。聖女候補時代に他の令嬢たちが身に付けていた流行のドレスやアクセサリーから着想を得ている。片隅に小さな印を縫い付け、作成者のサイン代わりにしていた。
談笑していると、窓の外から時を知らせる鐘が聞こえてきた。ティカが慌てて身支度を整え、玄関へと向かう。
「いいですかお嬢様。アタシが帰ってくるまで絶対外に出ちゃダメですからねっ!」
「わかってるわよ」
「お昼は台所に用意してあります。夕方には帰りますので~!」
「いってらっしゃい、頑張ってね」
在宅のルーナと違い、ティカは外で働いている。仕事内容は近所の定食屋での接客。明るく人当たりがよいティカに適した職だ。
持ち出した宝飾品を売り払って作った金銭とルーナの稼ぎで暮らしていけないこともないが、蓄えはいくらあっても困らない。もう少しお金が貯まったら別の街に移ろうかという話も出ている。
国境を越えたとはいえ、ここはまだアルケイミアに近い。だからこそティカは可能な限りルーナを家から出さないようにしている。もし捜索隊に見つかれば、今度こそただでは済まないからだ。
「あら、糸が足りないわ」
黙々と針仕事をしていたルーナは、裁縫箱の中身を確認しながら眉を下げた。あと少しで縫い上がるというのに、主に使用している刺繍糸を切らしてしまったのだ。途中で別の色に変えるわけにもいかず、かと言って後回しにすれば品物の納品日に間に合わなくなってしまう。
「道具屋さんは近くの通りにあるし、ティカの帰りを待っていたらお店が閉まっちゃうし」
誰かに言い訳するかのように、ルーナは指折り理由を挙げた。
なんだかんだでこの街に来てからほとんど外に出ていない。ごく稀にティカと一緒に近所で買い物するくらい。まだ一人で出歩いたことすらない。
「糸だけ買ってすぐ戻れば問題ないわよね」
窮屈なクレモント侯爵家から逃れて平民と変わらぬ暮らしをするうちに警戒心は薄れつつあった。そして、外界への興味。
目立つ銀の髪をスカーフで覆い隠し、お金入りの小さな革袋を服の胸元に突っ込む。多少の後ろめたさと高揚感という相反する感情に支配されたルーナは外への一歩を踏み出した。
今までならば絶対にしなかったであろう軽はずみな行動。まさかこの判断が運命を大きく動かすことになるとは、ルーナ本人にも予想できなかった。
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