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第5章 過去との対峙
36話・劣等感と告白
しおりを挟むセックスだけが目的じゃないと告げると、伊咲センパイは驚いたように何度も目を瞬かせた。
「えっ、じゃあ、なんで?」
本当に疑問のようで、更に尋ねられた。交際前のお試しセックスから最近に至るまで俺ががっつき過ぎたせいだろうか。いや、それだけじゃない。どうしたら気持ちが正しく伝わるのか、少し考えてから再度口を開く。
「伊咲センパイが好きだからっすよ」
「それは何度も言われたからわかってるけど」
「いや、全然わかってないでしょ」
どうやら俺の気持ちは相当軽く見積もられているらしい。伝え方が悪かったというより受け取る側に問題があると感じた。
「だ、だって」
つい責めるような口調をしたからか、伊咲センパイは震える声で心情を吐露し始めた。
「僕には好かれる要素がひとつもないんだよ。誇れることも得意なこともない。だから捨てられたんだ」
ぽろ、と大粒の涙が目尻から頬を伝って枕を濡らす。嗚咽を交えながら彼は続けた。
「僕は詩音に勝てるところがなにもない。成績も、才能も。ああ見えて詩音は運動神経も良いんだよ」
なぜそこで詩音さんの名前が出てくるのかと疑問に思ったが、これは彼が抱えるコンプレックスだとすぐに気付いた。おそらく従兄弟の詩音さんとは事あるごとに比べられ、そのたびに自信を喪失していったのだろう。
伊咲センパイが田賀に惹かれた理由は、きっとアイツが自信家だからだ。自分に足りないものを持っていたから。
「色々あって引きこもっちゃったけど小説家としてたくさん本を出してて人気もある。詩音は本当にすごいんだよ」
成功した従兄弟を誇る反面、どうしようもない劣等感に苛まれている。詩音さんを褒めるたびに伊咲センパイは辛そうに眉を寄せた。
「ぼ、僕が君にしてあげられることなんて、この体を使って気持ち良くなってもらうくらいしか」
詩音さんに対する劣等感。
田賀に捨てられた絶望感。
それらが伊咲センパイから自信を根こそぎ奪っている。自己肯定感が有り得ないくらい低くなっているのだ。だから、俺に『セックスという対価』を与えていないとまた捨てられてしまうのではないかと不安に陥ってしまう。
伊咲センパイばかりが辛い思いをして、ひとりで抱え込んで。今まで周りは気付かなかったのか。なぜ誰も手を差し伸べなかったのかと腹立たしく思ったが、同時に俺の中でなにかが腑に落ちた。
「あのですね、どうして伊咲センパイに惚れたのか今わかりました」
「え……?」
俺の言葉に、伊咲センパイが目を瞬かせた。目尻に溜まった涙の粒がまた落ちそうになったので、指先で優しく拭う。
「ひと目惚れだと思ってたんすけどね、厳密に言うとちょっと違うみたいです」
ひとり中庭に佇む姿を見て釘付けになった。憂いを帯びた表情が儚げで綺麗だから好きになったのだと思っていた。
だが、彼がこぼした弱音を聞いて、あの時に感じた強い衝動の正体を悟った。
「俺はただ伊咲センパイの笑顔が見たかったんです。俺ならあんな寂しそうな顔はさせないのにって、最初に会った時からずうっと思ってました」
「獅堂くん……」
伊咲センパイの頬を両手で挟み、鼻先をくっつける。超至近距離で目を合わせながら、更に言葉を続けた。
「そもそも伊咲センパイは自分の魅力を知らなさ過ぎるんすよ。こんなに綺麗で可愛くて優しくて強くてカッコいいのに」
「そ、そんなこと」
否定しようとするので、唇を重ねて黙らせる。
「いいから聞いて。まず、伊咲センパイは容姿がとても整ってる。髪もツヤツヤ、肌も白くてきめ細かいし、姿勢もいい」
「見た目は詩音も同じだよ」
「いや、全然違いますよ」
親戚だから顔立ちは似ているが、日頃の手入れの差が出ている。食生活の乱れと不規則な生活。詩音さんは人前に出ないから身なりに気を使っていないのだ。その点、伊咲センパイはきちんとしている。
「心を開いた相手には反応が可愛くなりますよね。付き合う前はツンツンしてて、まあそれも好きだったけど、今なんか言葉遣いから表情まで全部可愛い」
「そっ、なっ」
「千代田も言ってましたよ。雰囲気が柔らかくて話しやすくなったって」
魅力をひとつひとつ解説していくと、伊咲センパイは明らかに動揺し始めた。
「交際前に俺を拒絶しきれなかったのも、自分がされて嫌だったことをしたくなかったからっすよね?」
「あれは、ただ僕が寂しかっただけで」
「でも、俺がそばにいることを許してくれた。十分優しいっすよ」
「うう……」
話すうちに涙は引っ込んだようだ。代わりに頬が赤くなっている。誉め殺し作戦の効果が出始めた証拠だ。
「なにより、噂に屈せず大学に通い続けてますよね。簡単にできることじゃないっすよ。伊咲センパイはすごく強い人です。自信を持ってください」
田賀が流した『扇原伊咲は男好きのビッチ』という噂のせいで好奇の視線に晒され、からかわれたり襲われたりした。大学を辞めるとか、噂が完全に消えるまで休学するという選択もあった。詩音さんみたいに引きこもる道もあったのに、伊咲センパイは休まずに通い続けている。並大抵の覚悟ではできないことだ。
「ホントは辛いよ。辞めてしまおうかって何度も何度も思った。でも、せめて大学くらい出ておかなきゃって」
今の『せめて』が指すところは『なんの取り柄もないから』なのだろう。身内にすごい人がいるから必要以上に卑屈になってしまっている。
しかし、彼が口にするのは後ろ向きな言葉ばかりではなかった。
「卒業まであと二年もあるって思うと気が重かったけど、毎日声を掛けてくるしつこい後輩が現れて、ちょっとだけ気持ちが楽になった。だから耐えてこられた」
ふ、と伊咲センパイが口元をゆるめた。涙は完全に乾き、目の赤みも引いている。
「それ、俺のことっすか」
「君以外にいるわけない」
「ですね」
可愛い笑顔につられ、俺も笑う。そして、しっかり抱き合って眠りについた。同じベッドで一晩過ごしてセックスしなかったのは今夜が初めてだったが、今までで一番深く伊咲センパイと繋がれた気がした。
まだ彼の傷を完全に癒やせたわけではないけれど、ずっと支えていきたい。心から笑えるようになった時、一番そばで見ていたいと強く願った。
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