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【番外編】最終話以降のお話

36話・発展途上の恋人

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 金曜の午後六時。定時で仕事を終えてエントランスへと向かう鍬沢くわざわに、後ろから声を掛ける者がいた。

「よっ、お疲れ鍬沢!」
「珍しい。定時上がりですか」
「この時間に帰れるのは久々だよ」

 声の主は阿志雄あしおだった。ボヤきながら他の社員たちの邪魔にならないよう通路の端へと寄り、鍬沢もそれにならう。

 営業成績ナンバーワンの阿志雄は毎日忙しい。コミュニケーション能力が高く、特に年輩者に気に入られやすい彼は得意先から何かと声が掛かる。
 情報システム部の鍬沢は内勤が中心。よほど大きなトラブルや社内システム改修などがない限りは残業にならないよう本人が仕事のペースを調整している。

 立ち止まって二人で話をしていると、慌てた様子の穂堂ほどうが駆けてきた。総務部があるフロアから急いで降りてきたようで、少し息を切らせている。

「お待たせしてすみません」
「全っ然!鍬沢と話してたんで」

 自分は穂堂が来るまでの暇つぶし要員か、と鍬沢は片眉を上げた。そのまま三人で肩を並べて歩き始める。

 エントランスから出た瞬間、どこからか着信音が聞こえてきた。
 辺りを見回す阿志雄たちをよそに、鍬沢は涼しい顔で上着の胸ポケットからスマホを取り出した。画面を一瞥して電話を切る。ついでに、音が鳴らないようマナーモードに設定して胸ポケットの中にしまい直した。

「出なくていいんですか」
「大丈夫です」

 穂堂の言葉に笑顔で答えるが、またスマホに着信があった。マナーモードのため、バイブの振動音が聞こえてくる。鍬沢はまたスマホを取り出し、今度は画面を確認せずに電話を切った。
 ところが、数秒あけて再び振動音が鳴り出す。

「鍬沢くん、出たほうが」
「なあ、もしかしてそれ……」

 社屋から出て駐車場へ向かって歩きながら二人が心配して促すと、鍬沢は大きな溜め息をつき、スマホを手に取った。

「じゃあ、ちょっと失礼します」

 すぐまた着信があり、今度は切らずに通話ボタンを押した。阿志雄たちに背を向け、口元を手のひらで覆う。

『お仕事お疲れ様です鍬沢さん』
「なんで今退勤したって分かった?」
『それは内緒です♡』
「しばらく掛けてこないでください」

 言うだけ言って通話を切り、鍬沢はスマホの電源を落とした。声が聞こえぬように配慮していたつもりだろうが、今のやり取りは阿志雄たちの耳にも届いている。

「今の電話って」
「何でもないです」
「でも、あの声」
「問題ありません」

 確認したくても鍬沢は何も語るつもりはないらしく、貼り付けたような笑顔で質問をシャットアウトしている。これ以上は聞き出せないと悟り、阿志雄と穂堂は素直に引き下がった。

 駐車場で解散し、それぞれの車で帰路につく。車に乗り込んでから、穂堂は隣の助手席に座る阿志雄に目線を向けた。

「先ほどの電話ですが」
「あの男、でしたよね」
「実は今日だけではないんです」
「はぁ、やっぱり……」

 阿志雄は唸った。
 直談判しに行って失敗し、念のため鍬沢に忠告をしてから約一ヶ月。最近の鍬沢は悩んでいる様子もなく、ぼんやりすることもなくなった。結局何も起きなかったのかと安堵していたが、どうやら事態を楽観視し過ぎていたようだ。

 一方、穂堂は鍬沢の変化を感じ取っていた。平日の昼休みはほとんど共に過ごしており、普段の様子をよく見ている。

「社員食堂でテーブルについた瞬間によく着信があるんです。彼は食事中電話に出ないので、相手は分かりませんけど」
「それ、毎回ですか?」
「今週に入ってからは毎日です」
「うへぇ」

 見たままを話すと、阿志雄は顔を引きつらせた。

「なんかあったらオレが間に入るつもりだったんすけど」
「必要なさそうですね」

 一見、鍬沢は相変わらずのように思えるが、明らかに態度が軟化している。言葉の端々にあった『あの男』に対する嫌悪や拒絶の色が無くなっているのだ。
 本気で迷惑だと思っているのなら件の電話番号を着信拒否するだけで済む。その対応をしないということは連絡を許している証拠。

「それより今日の晩メシ何にします?」
「そうですね、買い物しながら決めましょうか」
「オレ今日は鶏肉が食べたいです!」
「ふふっ、分かりました」


 阿志雄が話を変えれば穂堂も表情を緩めて笑顔を見せる。どう転ぶにせよ、鍬沢が自分から言い出すまで放っておこうと二人は思った。





 アパートの駐車場に車を止めて降りた鍬沢は、自分の部屋の前に立つ人影を見つけて盛大な溜め息をついた。ずかずかと歩み寄り、その人物の胸ぐらを掴む。

「あんた、僕のスマホにまた何かしただろ」
何もしてませんよ」
「……じゃあ今度はどこに何を仕込んだ?」

 今日、鍬沢が会社のエントランスを出た瞬間に電話が鳴った。今回だけではない。以前も似たようなことが何度もあった。

「正直に言わないと二度と会わない」

 至近距離から上目遣いに睨まれ、九里峯くりみねは両手をあげて降参した。
 スマホではなく、ケルスト本社の警備システムをハッキングして監視カメラ映像を傍受している、と素直に白状する。怒りを通り越して呆れ果てた鍬沢は、すぐやめるようにと言い聞かせた。

「ごめんなさい。嫌いになりました?」
「……最初から好きじゃない」
「つれないことを言わないでください」

 縋りつく九里峯を適当にあしらいながら、鍬沢は鍵を開けて部屋へと入った。当たり前のように九里峯も一緒だ。

「そういうのやめろって言っただろ」
「だって普段は全然会えないんですよ」

 狭い玄関で、九里峯は鍬沢を後ろから抱きしめた。唇を尖らせる十も年下の恋人に目を細める。

 二人が住む場所は新幹線で片道数時間掛かるほど離れている。会えるのは多くても週に一回。その間を埋めたくて、九里峯は以前無断でスマホに行動監視アプリを仕込んだりした。もちろん、すぐに発覚して削除させられている。

「一週間ぶりですね」
「ふん」
「会いたかったです」
「……」

 遠い距離をものともせずに会いに行くのも愛を囁くのも決まって九里峯から。鍬沢からはまだ一度もない。九里峯が全て先回りしてしまうから、という理由もある。

 その代わり、無理やり追い返すこともしない。最初の頃に比べれば随分と寛容になった。これが彼なりの応え方なのだと九里峯も分かっている。

「スーパーで買い物してくる」
「私もお供します」
「荷物を全部持つなら来てもいい」
「ええ、お安い御用ですよ」
「じゃあコメも買お。十キロ」
「あっ待って。それは流石に」

 ここぞとばかりに重いものを買い込もうとすれば、九里峯が珍しく焦った顔をする。それを見た鍬沢は声を上げて笑った。

 自然な笑顔を見せるようになった恋人に、九里峯の中で歓喜の感情があふれた。こちらを睨みつける顔や悔しくて涙する顔、心底あきれたような顔も好きだが、やはり笑顔が一番可愛いと思う。

「リクエストある?」
「魚が食べたいです」
「煮る?焼く?」
「あなたが作ってくれるなら何でも♡」
「そういうのが一番困る」

 ムスッとしているが、これは嬉しい時の表情だと分かる。

 スーツから私服に着替え、向かいのスーパーへ買い物に行く。カゴを持つのは九里峯の役だ。真剣な眼差しで食材を吟味する横顔を眺めているだけで自然と笑顔になってしまう。

 過去に交際した恋人たちとはこんな風に穏やかな時間を過ごしたことなどなかった、と九里峯は思い返す。
 手料理を食べさせてもらったことは何度もあるが、特に感動はしなかった。相手に期待や執着をしていないからだろう。関心を示さないでいると、その内あちらから別れを切り出してくる。その繰り返しだった。

 誰とも真剣に向き合ってこなかった自分がここまでのめり込むなんて予想もしていなかった。彼を思うだけで心が躍り、胸がざわつく。特別なことをしなくても、ただ隣にいるだけでいいと思えたのは初めてだった。

「あんた、魚ナマでも平気?」
「ええ、大丈夫です」
「じゃあカルパッチョにしようかな」

 鮮魚売り場で魚を選ぶ鍬沢を見て改めて思う。
 彼と出会えて本当に良かった、と。

「鍬沢さん」
「ん?」

 少し前までは気付かぬふりが当たり前だったというのに、今はすぐに振り返ってくれる。九里峯の心が温かなもので満たされ、押し込めていた言葉が口をついて出た。

「一緒に暮らしませんか」
「は???」
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