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第5章 西と東の思惑

54話・勧めない理由

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 小料理屋での食事を終え、穂堂ほどうの車でアパートまで送ってもらうことになった。助手席には阿志雄あしお、後部座席に鍬沢くわざわが乗り込む。

「──それで、今度伊賀里いがり先輩が本社に来るらしいんですよ~。会うのは三年ぶりくらいなんで、すごく楽しみで!」

 酒が入っているからか、阿志雄はご機嫌で伊賀里の話を始めた。

「阿志雄さん、東京支社にいる時からその先輩の話ばっかしてましたもんね」
「オレに営業のいろはを教えてくれたのは伊賀里先輩だからな。伊賀里先輩がいなかったら営業続けていられなかったかも」

 入社後の本社研修時に伊賀里と初めて顔を合わせた。花形の営業部に配属されたものの自信が持てずにいた新入社員たちに対し、教育係の伊賀里は基本的なことから応用の利く裏ワザまで優しく指導してくれた。その時の記憶は阿志雄の中にずっと鮮やかに残り続けている。

 嬉しそうに思い出話をする阿志雄の声を、穂堂は相槌を打ちながら聞いていた。
 穂堂も伊賀里のことは知っている。穏やかで優秀。彼を悪く言う者などおらず、阿志雄がここまで心酔しているのも納得出来た。
 でも、何故かあまり聞きたくないと思ってしまう。

 しばらくして、車は鍬沢のアパート前に到着した。近くの路肩に止め、ハザードランプを点灯する。

「毎回車を出してもらってすみません」
「構いませんよ、これくらい」

 三人の中でマイカーを持っているのは穂堂ひとり。必然的に、出掛ける際は穂堂に運転させてばかりで鍬沢は心苦しく思っていた。

「そろそろ僕も車を持とうかな、と」
「えっ鍬沢、車買うの!?」
「買い出しの時とか車があれば便利なので。あと、遠出もしたいですし」
「そうですね。鍬沢くんは日常的に使うことが多そうですし、車がある方が便利かもしれませんね」

 また湧き水を汲みに行くつもりだと容易に予想できた。片道三時間掛かる場所だ。毎回穂堂に車を出してもらうわけにはいかないと考えているのだろう。湧き水だけでなく、理想の食材を追い求めて色々な場所を巡りたい彼にとって車は必需品と言える。

 鍬沢を降ろし、次に阿志雄のアパートへと向かう。ふたりだけになった車内で少しだけ沈黙が続いた。

「あの、」
「はい?」
「やっぱオレも車あった方がいいのかなって」
「?欲しい車でもあるんですか」

 先ほどまでとは違う少しテンション低めの声に、穂堂はちらりと助手席に視線を向けた。薄暗い車内で表情はよく見えないが、阿志雄は組んだ指を忙しなく動かしながら俯いていた。不貞腐れているようにも見える。

「車が欲しいっつーか、穂堂さんばっか運転させてて悪いかなって」
「そんなこと気にしなくても」
「いや、うーん……」
「車は維持費も掛かりますし、買う時も手放す時も色々手続きが必要になりますよ」

 車を所持するには、車本体を買うだけではなく駐車場の確保、任意保険、自動車税、ガソリン代も必要となる。数年乗れば車検にも出さねばならず、何かと手間と金が掛かる。公共の交通機関があまり発達していない田舎では生活必需品のようなものだ。この地方都市や近郊に住む大人はほぼマイカーを所持している。

「ずっと本社勤務ならともかく、都市部にある支社に移れば車は不要になります。急がなくても、ゆっくり考えて決めたほうがいいですよ」
「そう、ですね」

 鍬沢の時と違い、穂堂は阿志雄に車の所持を勧めなかった。

 伊賀里の話が出てからというもの、穂堂はずっと考えていた。阿志雄が東京支社に戻るのではないかと。四月に転勤してきたばかりだ。最低でも半年間は本社にいるだろうが、優秀な彼のことだから、希望すれば東京支社はすぐに受け入れるだろう。処分に手間が掛かるくらいなら車など最初から持たなければいい、と。

 一方の阿志雄は、今の話を違う意味で捉えていた。

『いつまでも逃げてはいられません。私も覚悟を決めなくては』

 小料理屋で穂堂がこぼした言葉。
 覚悟を決めるとは、具体的には何を指すのか。佐々原ささはらと交際して昇進し、ゆくゆくは大阪支社に移る気なのか。そうすれば車は必要なくなる。穂堂がいなくなれば会社帰りに乗せてもらうこともない。

 そういう可能性もある。
 選択に口を挟む権利はない。

 アパートに着き、笑顔で礼を言って車から降りる。大通りに向かって走り去るステーションワゴンを見送りながら、阿志雄は大きく息をついた。酔いはすっかり醒めている。夜の冷たい空気に晒され、気持ちまで冷え込むようだった。



      【総務部 穂堂 徹ほどう とおる
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