53 / 142
第5章 西と東の思惑
53話・純米酒とカレイの煮付け
しおりを挟むその日の仕事終わり、鍬沢にも声を掛け、三人で食事に行くことになった。穂堂の行きつけの小料理屋はカウンター数席と座敷ひとつのこじんまりした店である。
「あらぁ、また来てくれたの鍬沢さん」
「前に教えてもらった煮物、家で作ってみたんですけどなかなかあの味にならなくて」
「お店用のお料理は一度にたくさん作るから、それだけ素材から旨味とお出汁が出るのよね。その違いかしらねぇ。あとお鍋とか」
どうやら鍬沢は前回連れてきてもらった際にレシピを伝授されていたらしい。カウンター越しに女将と熱心に話し込んでいる。
「普段人見知りのくせに、料理の話になるとこうだよ」
「いいじゃないですか。鍬沢くんが楽しそうで何よりです」
この店では十種類ほどの大鉢入りの惣菜がカウンターの上に並べられ、好きなものを女将に頼んで取り分けてもらうスタイルになっている。煮物の他に、炒め物や魚の煮付け、刺し身や酢の物など日替わりで献立が変わるため、ほぼ毎日通う常連客もいるのだとか。
「送っていきますから、飲んでも大丈夫ですよ」
「はぁ。じゃ、一杯だけ」
穂堂に促され、阿志雄は日本酒を一杯注文した。女将が勧めてくれた和食に合う純米酒をぬる燗にしてもらい、まずは香りを楽しむ。程よく温められた酒をひと口含み、煮付けを食べる。日本酒のすっきりとした辛さと控えめな香りが料理を引き立て、食欲を増す。
阿志雄たちが食べているのはカレイの煮付けには甘辛い煮汁がたっぷり掛かり、白髪ネギと針生姜が飾られている。箸を差し込み、柔らかな身を骨から外して持ち上げる。一旦煮汁にくぐらせてから口に入れると、ふっくらとした身に染みた甘辛い出汁の味が広がっていく。カレイの味が残っているうちに再び酒をひと口飲む。
「これ、うまっ!」
「女将の料理はいつ食べても美味しいです」
そう言いながらも、穂堂の箸はあまり進んでいないようだった。佐々原という新たな悩みの種が出来たからだろう。
「ここも先代と来たことあるんですか」
「ええ、私が入社してから何度か。それ以来、ひとりでも時々寄らせてもらっています」
阿志雄には既に話したからか、先代社長の話を振っても言い澱むことはなくなった。
鍬沢も何となく事情を察したようで、特にそのことについては触れてこなかった。ひたすら女将と料理の話題で盛り上がっている。
「……佐々原さんの件、ありがとうございました。阿志雄くんの機転のおかげで何とか気持ちを落ち着ける時間が出来ました」
「それなら良かったです」
「とはいえ、いつまでも逃げてはいられません。私も覚悟を決めなくては」
現状維持を望む穂堂を周りは許さない。しかも、話を勧めてくるのは大恩ある翁崎家の人間なのだ。いずれ根負けするのは目に見えている。
阿志雄は社長を思い浮かべた。
あの温和で優しそうな人が、可愛がっている穂堂が嫌がることをしつこく勧めるとは考えにくい。単なる肩書きや手当ではなく、他にも理由があるのかもしれない。
そして、穂堂が頑なに拒む理由も。
穂堂がお手洗いに立った隙に、阿志雄は椅子をズラして鍬沢に近付いた。耳元に顔を寄せ、小声で話し掛ける。
「なあ、昼休みだけでもいいから佐々原って女と穂堂さんがふたりきりにならないように見といてくれよ」
「今日僕に声を掛けたのは頼みごとがあるからでしたか」
「オレは昼間は打ち合わせで社外に出ることが多いからな。頼れるのはおまえだけだ」
「いいですよ。頼まれなくても毎日昼休みは一緒に社員食堂で食べてますから」
「くっそ、羨ましい……!」
苦々しい表情でボヤきながら席に戻る阿志雄を、鍬沢はふっと鼻で笑った。
【情報システム部 鍬沢 明】
0
お気に入りに追加
109
あなたにおすすめの小説
【完結】嘘はBLの始まり
紫紺
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。
突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった!
衝撃のBLドラマと現実が同時進行!
俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡
※番外編を追加しました!(1/3)
4話追加しますのでよろしくお願いします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…
まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。
5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。
相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。
一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。
唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。
それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。
そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。
そこへ社会人となっていた澄と再会する。
果たして5年越しの恋は、動き出すのか?
表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。

男子寮のベットの軋む音
なる
BL
ある大学に男子寮が存在した。
そこでは、思春期の男達が住んでおり先輩と後輩からなる相部屋制度。
ある一室からは夜な夜なベットの軋む音が聞こえる。
女子禁制の禁断の場所。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる