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第2章 疑惑の社員食堂
9話・やきもちの相手は
しおりを挟む夕方、取引先との打ち合わせを終えた阿志雄が本社に戻ってきた。
転勤してまだ二日目だが、支社も本社も扱う商品は同じ。加えて、前任の伊賀里がしっかりと引き継ぎ資料を用意してくれたおかげで仕事は順調に進んでいる。
新商品のサンプルを開発室に返しに行く途中、ひと気のない廊下の先に穂堂の姿を見つけた。すぐ声を掛けようとしたが、誰かと話をしていることに気付いて足を止める。相手は背を向けており、阿志雄からは顔が見えない。
「また用事頼まれてるのかな」
穂堂は毎日本社中を縦横無尽に走り回り、様々な雑務をこなしている。自分のデスクでじっとしていられる時なんてあるのだろうか。そう思いながら様子を窺っていると、話していた『誰か』が手を伸ばし、穂堂の頭を撫でた。
「んん!?」
アラサー会社員が職場で頭を撫でられるとは。
阿志雄は本社営業部の中では最年少で先輩社員から揶揄い混じりに突かれたりワシャワシャと撫でられたりもするが、穂堂はそんなタイプではない。さぞ嫌がるだろうと思ったが……
彼は照れたようにはにかんで頭を撫でる手を受け入れていた。他では見せない表情だ。
それを見た瞬間、阿志雄は持っていたカバンを投げ捨て、長い廊下を一気に駆けた。そして『誰か』との間に割って入り、穂堂の肩を抱いて引き離す。
「阿志雄くん?」
突然割り込まれた穂堂は目を丸くした。そのぽかんとした表情に、阿志雄は自分が何を仕出かしたかを自覚して身体を離した。
「す、すいません、話の邪魔を──」
「構わないよ、もう話は済んでいるからね」
すぐ頭を下げて謝罪すると『誰か』はクスクスと笑って許してくれた。気分を害した様子はない。むしろ面白がっているようだ。
その人物は上質なスーツがよく似合う四十代前半くらいの紳士で、笑い方も話し方も品が良い。ひと目で平社員ではないと分かる空気を纏っている。
「君の話は徹から聞いているよ。優秀な営業だそうだね」
「あ、ありがとうございます、ええと」
どこかで見たような……と頭を働かせるが、どうにも思い出せない。ついに穂堂が肘で小突き、小声で「この方は翁崎 学社長だ」と教えると、阿志雄は小さく悲鳴をあげた。
「え、しゃ、社長?」
「昨日の全体朝会で顔見せしただろう」
「全然覚えてない」
「まったく……」
昨日の阿志雄は、憧れの先輩と離れ離れになってしまったことがショックで朝会どころではなかった。
笑いを噛み殺しながら二人のやり取りを見守っていた社長だったが、秘書が探しに来たことに気付いた。
「済まないがこれで失礼するよ。……阿志雄くん。徹と仲良くしてやってくれ」
「は、はいッ!」
なにがなんだか分からぬまま阿志雄は大きな声で返事をして、社長の翁崎が秘書と連れ立って去っていく後ろ姿を見送った。
「自分が働く会社の社長くらい覚えておきなさい。社内報やホームページに顔写真が載っているはずですが」
「す、すいません。社長っていうと先代の印象が強くて……」
その言葉に、眉間に皺を寄せていた穂堂が目を見開いた。
先代社長は二年前病気で亡くなり、その際に長男である翁崎 学が跡を継いだ。創業者である先代社長を慕う社員はまだ多い。阿志雄の場合は、三年前の入社式で直接言葉を掛けてもらったから特に記憶に残っていたのだろう。
数秒の沈黙の後で深く長い溜め息を吐き出し、眉尻を下げて笑う。
「本当に、君は面白い人ですね」
「呆れてます?」
「ええ、すごく」
「ごっごめんなさい!社長の顔は覚えました!」
焦って謝罪を繰り返す阿志雄の頭に手を伸ばし、穂堂はぐりぐりと撫でてやった。
【本社社長 翁崎 学】
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