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泡になった初恋
ふたり暮らし
しおりを挟むシェルとの二人暮らしは、信じられないくらい楽しかった。
朝、目を覚ましてすぐ。
寝床から這いだすと、ネロはまだ寝ぼけているシェルの手を引っぱって、近所の岩場につれていく。
エサをさがして集まっている小魚の群れに忍びよって、その真ん中に、尾びれを蹴って飛びこんでいく。
パッとわかれて逃げていく小魚をむこう側から追いこむよう、ネロは新しい相棒に合図するけれど、シェルははっきり言って、衝撃的に狩りが下手くそだった。
腕や尾びれをひろげて通せんぼするシェルのすぐ脇を、小魚たちがバカにしたようにすり抜けて逃げていく。
しょうがないからネロが追いかけて、尾びれを振りまわして叩き落として、二人分の朝ご飯をつかまえる。こいつ、こんなに狩りが下手で、いままでよく生きてこられたよな。
どっさりつかまえた小魚の山を「すごい、すごい!」と手をたたいて喜んでくれるから、ネロもまあ、悪い気はしない。
お腹いっぱい食べて、ネロが岩にもたれてすこしウトウトしていると、シェルはとなりにきて本を読んでくれる。
虹の根元にうまっている金色のお皿の話、雲のむこうにある王国の話、氷でできたお城の話……シェルが気に入って読む本は海のうえの話が多い。歌うように読み上げる声はやわらかくて、透きとおっていて、聞いているとやさしい波にゆられているみたいに心地よくて、ネロはいつの間にか眠ってしまう。ゆすりおこされて目をあけると、シェルが呆れた顔をしてネロをのぞきこんでいて、本を置いてくすくす笑うのだ。
それから二人は手をつないで、探検に出かける。
すこし遠くまで泳いだだけで、海のなかはガラッと変わる。
岩のうえには見たことのない海藻やソフトコーラルがゆらめいて、めずらしいかたちのウニやヒトデが砂のあちこちに転がっていて、色とりどりのイソギンチャクは長い腕を波にひらひらさせている。
そのなかを泳ぎぬけながら、シェルはあっちへフラフラ、こっちへフラフラ寄り道をしては、ヘンテコな貝やきれいな石、見るからに毒っぽい海藻なんかをポシェットいっぱいにひろってくる。
「毒じゃないよ。この海藻は食べられる」
「ウソだよ。クッソまずくて吐いちゃったもん」
思い出して「うぇぇ」と舌を出したネロに、シェルがくすくす笑った。
「緑色のところをかじったんでしょ?そこはダメ。これはねぇ、てっぺんの赤いところだけ食べるんだよ」
甘くておいしいんだよ、とシェルが口のなかに放りこんできた海藻は、たしかに甘酸っぱくて、いい匂いがした。お腹が痛いときの薬になるんだとシェルが教えてくれた。
シェルは色んなことを知っている。
頭痛にきく海藻、傷の治りがはやくなる熱い水、サメに見つからないおまじない、海底に寝っころがったまま、遠い陸の世界の音をきく方法。
秘密だよ、とシェルが顔を近づけてきて、ネロの耳元にささやいた。
「ぼくね……魔法が使えるんだ」
「魔法?」
「見てて」
うずくまったシェルが、両手を素早くこすりあわせた。
その手のひらから、パッと金色の光がはじけとんで、さらに大きな黄金の光が、ネロの頭上までゆらめきながら立ちのぼった。陸のニンゲンたちが使う「ほのお」というやつみたいに。
二人が座っているせまい岩陰を「ほのお」が明るくきらめかせる。真昼の海面より、もっと明るい。眩しすぎて目をあけていられなくて、ネロは思わず、ぎゅっとまぶたを閉じた。
おそるおそる目をあけたら、まぶしい光は消えていて、なんの変哲もない岩陰の、いつもどおりの青い波に、やわらかい灰色の髪をゆらしてシェルがにこにこ笑っていた。
どう?びっくりした?
そんな、いたずらっ子みたいな顔で。
「すっげえ魔法!」
ネロは興奮して、シェルの両手をつかんで尾びれをブンブン振りまわした。
「なにいまの?どうやったの?すっげえ!シェルは魔法使いだった!」
「まさか」
おかしそうにくすくす笑って、シェルが握っていた手をひらいた。
白くてちいさな両手には、ひとつずつ、黒っぽい透きとおった石がのっていた。
「ただの自然現象だよ。この石を打ちつけただけ。でもきれいでしょ?」
「この石?こんなので?オレもできる?」
「やってみる?」
ネロがひろげた両手に、シェルが黒い石をのせてくれる。
カチッとこすりあわせた途端、パッと金色の光のカケラが飛び散って、あたりの岩をかがやかせた。だいぶ小さくてショボい。シェルがやって見せた「ほのお」とは大ちがい。でもネロはうれしかった。ワクワクした。すげえ。こんなクソつまんねーちっちゃな石なのに!
「石の成分と海水が反応するんだよ。この石に含まれている微量の――」
シェルがああでこうでと説明してくれるけれど、むずかしすぎてネロにはさっぱりわからない。
あくびをかみ殺しているネロを見て、シェルが諦めたように笑った。
「つまり、ぶつけると光る石ってこと。いっぱい落ちてる場所を知ってるんだ。いく?」
顔を見合わせて、手をつないで。
それから二人で岩の隙間をすり抜けて、また午後の海へ探検に出かける。一日中泳ぎまわって、ぐったりして家にもどってきて、薄暗くて居心地のいい洞穴のなかでやわらかいケルプにくるまって、二人でよりそって深い眠りに落ちる。そうしてまた朝がきて、一日中、二人で笑いころげながら海を泳ぎまわるのだった。
シェルはネロよりずっと小さくて、力も弱くて泳ぎも下手くそだった。けれど、代わりにネロにはできないことが色々できた。
なかでも上手だったのは、歌をうたうこと。
ネロも歌は好きだった。
ネロだって、人魚なのだから。とにかく歌が大好きで、楽しいときにはごきげんな歌を、悲しいときには胸がぎゅっとする歌を、岩のうえに腰かけて、あるいは砂に寝ころんで、暇さえあれば歌っている。人魚はそういう生き物だった。
でも、シェルの歌は特別だ。
シェルが歌をうたうとき、ネロはそばの砂のうえに寝そべって、じっと聞き耳を立てている。
一緒にうたおう、とシェルは恥ずかしがるけれど、ネロは自分の歌なんかより、シェルの歌声を聞きたかった。
岩のうえにちょこんと座って、ちょっぴりほっぺたを赤くして。
シェルはちいさな唇をひらく。
銀色の海面をめざしてきらきらのぼっていく泡と一緒に、シェルの明るい、透きとおった歌声が海にやわらかく響きわたると、いつの間にか波音は消え、パチパチとこすれるカニやエビの殻音も、砂を掘りおこすエイやヒラメのはばたきも、海藻のゆらめく音さえ消え去って、海の底はひっそりと静まり返る。
すべてのものがシェルの歌声に聴き入っているみたいに。
通りかかった人魚たちまで尾びれをとめて、あっちの岩陰、こっちのサンゴのうえ、むこうの海藻の茂みで寝そべって、うっとり耳を傾ける。
あの子はだれ。
夢みたいな歌声。
こんなきれいな歌、聞いたことない。
あっちでもこっちでも驚いて、ささやきあう声がする。
そのうえ、最近のシェルは見違えるようにきれいになった。
きっとネロが毎日、お腹いっぱい小魚を食べさせているおかげ。
パサパサして灰色だった髪はきらきら純白にきらめいて、ぼんやりくすんでいた尾びれもウロコ一枚一枚がつややかな白銀にかがやいて陽射しをまばゆくはじいている。あいかわらず小柄で華奢だけれど、青白くてやせっぽっちだった頬は子どもらしくふっくらして、彼が大きな青い目を細め、口元にえくぼを浮かべて笑うと、ネロですら見惚れてしまうほど。
歌いおわったシェルが、あっちからもこっちからも降りそそぐ拍手喝采にびっくりして、真っ赤になってネロに飛びついてきた。
「ネロのいじわる、教えてよ!」
「なんで?みんなも聞きたいんだよ。シェルの歌はすげーから」
「注目されるのって苦手なの!知ってるでしょ!」
耳まで赤くなって恥ずかしがって、それ以上歌ってくれそうになかったから、ネロはシェルの手を引いて、そこから連れ出すことにした。
真っ赤になってうつむいて引きずられていくシェルを観客たちが残念そうに見送って、その視線がそのまま、シェルを我がもの顔でひっぱっていくネロにそそがれる。
すげー優越感。
サイコーに気持ちいい。
残念でした。シェルはおまえらじゃなくて、オレに歌ってくれてたんだよ。
「シェルはやっぱり、セイレーンの血筋なんじゃねーの?」
「ちがうってば」
ネロに手を引かれて泳ぎながら、シェルが呆れてくすくす笑った。
「ぼくがセイレーンだったら、ネロはとっくに溺れてるよ」
「オレ人魚だよ?」
「ぼくの歌に聞き惚れて、息をするのも忘れて溺れちゃうんだよ。それくらい歌が上手いんだ。それにセイレーンって、とってもきれいな生き物なんだよ」
「シェルはきれいだよ」
シェルが一瞬キョトンとして、それからふふっと恥ずかしそうに笑って、青い目でじっとネロを見つめた。
「ぼくは……ネロのほうが、きれいだと思う」
「オレぇ?」
それ本気で言ってんの?
だとしたらシェルの目玉はどうかしてる。
自分の姿が浅瀬の人魚たちの目にどう映るかくらい、ネロだってわかっている。ぬらぬらと青黒い尾びれ、谷底の闇のように暗い肌、つりあがった目は呪いのようにおぞましく赤い。鉢合わせたとたん凍りつく人魚たちの表情、追いかけてくる怯えた視線。
なぜここにいる。
異形のバケモノめ。
さっさと谷底へ、お前たちの巣へ帰れ。
……フン、オレをハッキリののしる勇気もないくせに。
こんなオレが、きれいだって?
ネロが呆れて笑い飛ばしたら、青い目をうっとり細めて、シェルがネロの尾びれに、そっとふれた。
「大きくて、ぼくの尾びれよりずっと強い。それにこの色。夜の海みたいな深い青。すごくきれいな色。おなじ色の、きみの髪も」
「……青なんて、めずらしくねーよ」
「じゃあ、きみの色だからきれいに見えるのかも」
「は、はぁ?」
な、なにそれ。
シェ、シェルってホント、オレのこと大好きだよな。
照れくさくて目をそらしたら、ネロの青黒い髪をなでていたシェルが、じっと、ネロの横顔をのぞきこんできた。
「でもね、ぼくが一番好きなのは、きみの瞳。真っ赤なガーネットみたい。見ていると吸いこまれそうで怖くなるのに。でも、ずっと見ていたくなる」
ほっぺたがじんわり熱くなった。
シェルのまっすぐな視線が、居心地わるかった。
「シェルってさぁ、そういう恥ずかしいこと平気で言うよな」
「そうかな」
首をかしげたシェルの手を引いて、ネロは照れくささを蹴散らすようにニヤリと笑った。
「ね……アレ、やりに行こうぜ」
「いまから?」
シェルが考え込むように眉をよせた。
アレ、というのは最近二人が気に入っている遊び。
海面に浮かび上がって、通りかかる船を見つけたらシェルが歌をうたっておびき寄せて、ネロがそっと忍び寄って船をひっくり返す。海に投げ出されてジタバタもがいて慌てているニンゲンたちを、尾びれで水をかけたり船を遠くへ押しやったりして、二人でケラケラ笑う遊び。
どうかな、とシェルがむずかしい顔をした。
「そろそろ警戒されてると思う。おばあさまがおっしゃっていたもの。ニンゲンを侮ってはいけない、彼らは弱いけれど、執念深くて知恵のある生き物だって」
「じゃあ、これが最後」
シェルの手を握って、ネロはじっとその目をのぞきこんだ。
「シェルだってすげー怒ってたじゃん、畑をダメにされたって。仕返ししてやろーぜ」
シェルの白い顔が、すこしムッとしたように険しくなった。
ニンゲンが捨てた釣り糸がからまってぐちゃぐちゃになってしまった海藻のことを思い出したらしかった。なにしろあの畑はどれも、シェルが出かけるたびにポシェットにひろいあつめて大切に育てていた、めずらしいサンゴや海藻たちだった。
「……いいよ」
顔をあげて、シェルがニヤリと笑った。
うわぁ、悪い笑い方するようになったじゃん。オレのせいかな。
「最後なら、派手にやってやろう」
「シェルのそういうとこ、オレだーいすき」
二人で笑って手をつないで、明るい海面めざして泳いでいった。
シェルの予感は正しかった。
ネロが狙いをつけた大きめの漁船は波のあいだに二人の姿を見つけたとたん、大騒ぎしてニンゲンたちが船端にあつまってきたと思ったら、二人めがけてするどい銛を雨のように降らせてきた。
驚いて凍りついているシェルをネロが手をつかんで海中に引きずりこんで、追いかけるように撃ち込まれたさらなる銛の嵐をすり抜けて、避けきれない銛は尾びれで引っぱたいて打ち落としながら、シェルを引きずって海の底まで逃げ帰った。
深いサンゴの森の陰に飛びこんで、勢いあまって砂のうえに転がって、二人で顔を見あわせた途端、お腹の底から笑いがこみあげてきた。
二人で抱きあって砂のうえを転げまわって、いつまでもケラケラ笑いあった。
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