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泡になった初恋
ひとりぼっちの ふたり
しおりを挟むネロには、死んでもいいと思うほど好きになった人魚が、生涯でたった一人だけいる。
彼と初めて会ったのは、子どもの頃。
その子は大人しくて、パッとしなくて。
ひとことで言えば、みすぼらしい人魚だった。
いつ見ても、ほかの子どもたちから遠くはなれたサンゴの陰、あるいは岩の下にポツンと座っている。青白い、ぼんやりした色の尾びれのうえに分厚い本をひろげて、熱心に読みふけっている。
身体も小さくて骨と皮ばかりで、見るからに貧弱だった。
だから、おなじ男の子の人魚たちには馬鹿にされて、女の子たちには見向きもされず、えばりくさって群れのリーダー面する連中に本を取り上げられて、尾びれを引っぱられてゲラゲラ笑われて泣いていた。
ネロはといえば、おなじ年頃の子どもたちにくらべて身体が大きくて、力も尾びれも強かった。
おまけに、ちょっぴり好みがハッキリしていて、自分の気持ちに素直で、我慢とか忍耐とかが大っきらいで……
つまりその日のネロは、いじめっ子たちの知性のカケラもない笑い声と、ニタニタゆがんだ下品で胸くその悪い顔に、朝ごはんに食べたイワシをぜんぶ吐き戻しそうなほどムカついていた。
「あーあ、ごめーん」
突然飛び込んできたネロの尾びれで引っぱたかれて、リーダーのいじめっ子がギャッと叫んで砂のうえに転がった。
その手からすっ飛んだ本を水中でくるっと一回転してキャッチして、ネロは砂のうえにナマコみたいに這いつくばっているソイツを、にこにこ笑って見下ろした。
「フナムシかと思っちゃった。あんまりキモいんだもん」
「こ、このっ!」
「おい、やめよう!」
「やばいって!ネロだよ!」
助け起こしに泳いできた仲間のいじめっ子たちが、にこにこ笑っているネロを見上げ、つややかな青い尾びれにうかんだ真っ黒な目玉模様の斑点と、自分たちを見つめる真っ赤な両目を見て震えあがった。あわててリーダーを引き止めようとする。
でもリーダーの人魚だけは、手下たちの目の前でブザマに砂に転がされて、ピカピカのプライドに傷がついたらしかった。押さえつけようとする仲間たちの腕の下で尾びれを振り回してもがいて、ネロを睨みつけてきた。
へぇ、やる気?
いいよ、オレはね?
「……尾びれがちぎれて無くなっても、泣きわめくんじゃねえぞ」
ネロがジロッとにらんだ途端、その視線に震えあがって、いじめっ子たちは砂煙を撒き散らして、泣きながら波のむこうへ逃げていった。
その背中にべぇっと舌をだして、ネロは分厚い本を抱えて、岩の陰まで泳いでいった。
そっと暗がりをのぞきこむと、岩と岩のあいだの細くて薄暗い隙間にはさまって、青白い人魚の子どもがうずくまっていた。
差し出された本に驚いて顔をあげて、じっとこちらを見つめてくる。
睫毛をパチパチさせてネロを映した大きな目は、きらきら澄んでいて、真昼の浅瀬のような明るい青色をしていた。他がぼんやりした印象だったせいかもしれない。その青色だけが、ネロにはハッとするほど鮮やかに見えた。
ちいさな薄い唇が、泡と一緒に消え入りそうな声を吐いた。
「…………ぁ……」
「本、いらねーの?おまえのなんでしょ?」
「ぅ……ぁ、ぁ……」
「あのさぁ、おまえもやり返せよ。なーんも言わねーでメソメソしてっから、あいつらも調子にのるんだよ」
「あっ……うぅっ………」
突然、ネロを見上げている大きな目がゆらゆらした。
と思ったら、ポロポロと大粒の涙が溢れだしてきた。
白い頬をつたって灰色の尾びれのうえにみるみる溜まっていって、後から後からこぼれ落ちる涙の粒が、小さな硝子玉のように光って砂のうえを転がっていく。
えぇ、なにこれ。
オレがいじめたみたいじゃんか。
「ぅ……ごっ、ごめっ……」
受け取った本を抱えてぐすぐす泣きながら、その子が、かぼそい声を一生懸命絞りだした。
「ぼくっ、ただ……ありがとうって……いっ、言いたくて」
「あーもう、いいから。泣くなってば」
「ちがっ……ぼくっ……」
「わかーった、わかーった!わかんねーけど、きて!」
小さな白い手を引っぱって岩の隙間から引きずり出して、ネロはぐずぐず泣いているその子を引きずって、サンゴの広場から連れ出した。遊んでいた他の子どもたちがナニゴトかと、あっちこっちから顔をあげて、二人を興味津々で見つめてくる。
うっとうしい視線を蹴散らすように、ネロは尾びれで水を蹴った。
サンゴのあいだをすり抜けて広場をつっきって、岩礁のトンネルをくぐり抜けて、ケルプの薄暗い森を抜けた奥の、背のひくいやわらかい海藻がふわふわ茂る原っぱの真ん中まで一気に泳ぎ抜けて、ネロは尾びれをゆるめて、後ろをふりむいた。
ネロの泳ぎは、ちょっと速すぎたらしかった。
彼はしがみつくようにネロの手を握りしめて、くすんだ灰色の髪にちぎれた海藻をもさもさと絡まらせ、大きな青い目を見開いて、びっくりしたように口をパクパクさせていた。手を引っぱって砂のうえに座らせてやったら、抱えていた本をぎゅっと抱きしめて、大きな両目からまたポロポロと硝子玉の涙をこぼした。
「げぇっ、泣くなってば!」
「ごめっ……ちがっ、ぼくっ……うぅっ……」
「はいはい、聞いてるよ。ほら、しんこきゅー、しんこきゅー」
彼のとなりに腰をおろし、ネロは困って、彼の背中をポンポンなでてやった。
ネロを拾ってくれたじいちゃんは、ネロが泣いているとよくこうしてくれた。じいちゃんのことを思い出すのは久しぶりだった。だって、もう、ずっと昔の話。ネロがひとりで小魚を捕まえられるようになってすぐ、じいちゃんは海の泡になった。
ポロポロ涙をこぼしながら、彼の青い目がじっとネロを見つめてくる。
深く水を吸って、ゆっくり吐き出して、かぼそい声で彼が言った。
「ごめん……ぼく、泣いちゃうっ、の。泣きたいわけじゃっ、ないのに」
「そうなの?」
「ぼくはっ……貝殻が、ちいさいんだって」
「カイガラ?」
ネロはポカンと彼を見つめた。
彼の腰からは魚の尾びれが生えている。背中にはちっちゃなやわらかい背びれが、指のあいだにはネロのよりずっと控えめで薄いけど、ちゃんと水掻きが。どう見てもネロとおなじ、魚の人魚。ホタテ貝やオウム貝の人魚には見えなかった。
ちがうよ、と彼がくしゅんと鼻を鳴らした。泣きながら笑おうとしたらしかった。
「みんなね……カラダのなかに、気持ちをためる貝殻をもってるの。怒ったり、悔しかったり……悲しかったりするとっ、そこに気持ちがたまっていって、溢れると涙になるんだって。本にね、書いてあった」
「おまえのはちっちゃいの?」
灰色の髪の毛をゆらして、彼がちいさくうなずいた。
「すぐっ、気持ちがあふれてっ……頭が真っ白になって、なにも言い返せなくなっちゃうのっ……いやなのにっ……でもっ、だめなのっ……」
肩をゆらしてポロポロ涙をこぼして、彼がすんすん鼻を鳴らした。
ネロにはよくわからない。けど、彼が苦しんでいるのだけはわかった。
たとえばさ。めちゃくちゃムカついてるのに、口や尾びれを押さえつけられてやり返せなかったら?オレだったら、怒りでハリセンボンみたいにふくれあがって、爆発しちゃう。
「行かなきゃいいんじゃねーの、広場なんか」
そうでしょ。
イヤな目に会うってわかってるのに。
ネロが見たところ、彼はみんなと泳ぎまわって遊びたいわけでもなさそうだった。ひとりでゆっくりしているのが好きなタイプ。なら静かでいごこちのいい巣穴の奥で、ずっと本を読んでればいいのに。
ううん、と彼が首をふった。
「おばあさまがね、ぼくは大人しくてのんびりしているから、積極的にみんなのいる場所に行きなさいって」
ふーん?
トモダチつくれって?
「襲われたときに、他の子を身代わりにすれば、生き残れる確率があがるから」
「ぶっ、ぷはははっ。おまえのばあちゃんサイコーじゃん!」
砂を跳ね飛ばしてケラケラ笑い転げているネロを見ていたら、彼もおかしくなったらしい。
抱きしめた本のうしろで、彼がくすくす笑った。青い目を細めて、くすんだ灰色の髪をゆらして。そうやって笑うと、けっこう可愛い子だった。
「なぁ、それなんの本?」
「これ?」
「いっつも読んでるでしょ。げぇっ、文字ばっかり。こんなの楽しいの?」
「面白いよ」
砂に寝転んだネロのとなりに一緒に寝転んで本をひろげて、彼がパラパラめくって見せてくれる。彼の青い目はきらきらしていて、『好き』という気持ちが本物なのが伝わってくる。
「これはねぇ、天気の本」
ページをめくりながら歌うように彼が言った。
「なぜ雨がふるのか、どうして雷が落ちるのか、そういうことが書いてあるんだよ」
たしかに彼が指さしたページには、どんよりと空をおおった黒雲から、ピカッと稲妻が光って海に落ちていく絵が載っていた。でも、書いてあるのはぜんぶ陸の文字。人魚の文字ならネロもじいちゃんから教わったけれど、この本はちんぷんかんぷん。
むうっとページをにらんでいるネロを見て、彼がまたくすくす笑った。
「読んであげようか」
「うーん、いいや。それよりさ、遊ぼうよ」
「え?」
キョトンとしている彼の手を、ネロは引っぱった。
ひとりで遊ぶのは飽きてしまって、ネロは広場に行ったのだった。
でも集まっているのは気の弱い、つまらない小魚たちばかりだった。青黒い尾びれをゆらしてやってくるネロの姿を見たとたん、震えあがって物陰に身を隠してしまい、あるいは仲間たちと寄り集まって、ヒソヒソとささやきあっているだけ。何度行っても、いつもおなじ。
つまんねーヤツら。
いいよ、あんな連中。オレだって、ビクビクしてるヤツらはゴメンだもん。
「えっと……ぼくで、いいの?」
戸惑った顔で彼がネロを見た。
「いいよ。おまえは?」
「シェル」
「え?」
「ぼくの名前」
ふーん、シェルか。
オレはねぇ。
「知ってるよ」と彼が笑った。
「ネロでしょう?」
あ、そっか。
さっきのアイツらね。ネロめ、覚えてろー、って捨てゼリフ吐いてたもんね。
ネロがひとりで納得したら、彼がちょっと困ったように灰色の眉をさげた。
「きみは、なんて言うか…………有名だから」
「あー」
彼が言わずにぼやかした言葉は、すぐわかった。
乱暴者のネロ。
谷底からきたバケモノの子。
ふん、オレが何したっていうんだよ。ちょっとムカつくヤツらを蹴散らして、うるさい連中をにらみつけて、それでもしつこく絡んでくるバカをわからせてやっただけじゃんか。
「シェルはさぁ、オレのこと……怖い?」
おそるおそる訊ねてみた。
訊ねながら、ネロはすでに諦めていた。
こいつもやっぱり同じなんだ。
みんな、ネロのことが怖いのだ。
彼らは明るい浅瀬の海の人魚で、ネロは暗い谷底で生まれた人魚だから。
棲む世界がちがうんだと、じいちゃんはいつも言っていた。上の連中と付き合うもんじゃない、おまえは何もわかっちゃいないと。
ネロの肌は色が濃くて、青黒い尾びれも、とがった背びれも、すべてがみんなとはどこか違う。遠くからでもすぐわかる。なによりネロのちいさな顔のなかでギラギラ光る、血のように真っ赤なふたつの目が、ここの人魚たちには気味が悪いらしい。
どうせこいつも、オレを怖がる。
じいちゃんは正しかった。
いまの巣穴は気に入ってるけど、やっぱりオレは、谷底にもどるべきなのかも。あそこの連中なら少なくとも、オレを見た目で怖がったりはしない。
くすんだ灰色の睫毛がまばたきした。
青い目が、じっとネロを見つめた。
目の前の人魚が、しずかに首をふった。ううん、とやわらかい声がちいさな泡とともに洩れた。
「ううん、怖くないよ」
彼はふんわり微笑んでいた。ネロにおびえて嘘を答えたわけじゃなさそうだった。
「だって、ネロはぼくに、やさしくしてくれたから」
「……は、はぁ!?」
カッと、顔が熱くなった。
砂をまきちらしながら飛び上がって、叫んでいた。
「し、してねーし!オレ、や、や、やさしくなんかねーもん!」
「いいよ、なにして遊ぶ?ぼく、だれかと一緒に遊ぶのってはじめて」
うれしそうに笑う彼に手を引っぱられて、二人で野原を泳ぎまわった。
小魚の群れを追いかけて、ちぎった海藻を頭や尾びれに巻きつけて、砂を蹴散らして寝っ転がって、明るい海面を見上げて泡を吐いて、どっちの泡のほうが大きいか競争して、二人でくすくす笑いあった。
だれかと一緒にいるだけで、そんなくだらないことでも時間を忘れるほど楽しく感じることを、ネロははじめて知った。
……ううん、オレ、知ってた。
じいちゃんがいた頃は、オレは毎日、やっぱりおなじくらい楽しかった。こんな気持ち、もうずっと忘れてた。
夕暮れになって、帰っていく彼の尾びれを、うす暗い波のむこうにぼんやり見送って。
ネロはどうしようもなく悲しくなった。
気づいたら全速力で彼を追いかけて、その背中にしがみついていた。
びっくりしてふり返った彼を、ぎゅうっと抱きしめて叫んだ。
「帰っちゃだめ!オレと一緒にいようよ!」
「えっ?」
「身代わりにするヤツらなんかいらねーよ!オレと一緒にいれば、オレがぜんぶ追い払ってあげる!サメでも、シャチでも、クラーケンでも!」
ポカンとしている彼の手をつかんで、ネロは思いつくまま叫んでいた。
「それにそれにっ、シェルの気持ちが溢れたら、オレが代わりに言い返してやる!どいつにイヤなことされたのか、どんなイヤなことされたのか、こっそりオレに教えてよ!そしたらオレがそいつのことぶっ飛ばしてやる!オレがシェルの貝殻になったげる!ほら、すげーいい考え!」
なんでオレ、こんなに必死なんだろう。
自分でもよくわからなかった。
でも、彼をはなしたくなかった。
また明日、なんて。そんな約束うそっぱちだ。だって、じいちゃんは目を覚まさなかった。明日になったらって言ったくせに。ずっと一緒だって言ったくせに。またひとりぼっちにはなりたくない。一緒にいたい。じいちゃん、オレ、この子と一緒にいたい。
ネロが必死にまくしたてているあいだじゅう、彼は青い目を見開いて、ぼんやりネロを見つめていた。
言葉を切って、肩をゆらして水を吐いているネロをじっと見つめて。
彼の青い目がふんわり、うれしそうに笑った。
「ぼくも。ぼくもネロと、一緒にいたい」
「ほんとっ!?」
「あのね、ぼく、おばあさまが泡になってしまわれてから、ずっとひとりぼっちで」
「じゃあオレんちに来いよっ!!!」
自分の勢いがすごすぎて、彼をびっくりさせたと気づいた。
ゆっくり水を吐いて、ネロはおそるおそる彼を見つめた。
「えっと、オレもね、じいちゃんがいなくなってから、ずっとひとりで。だからさ」
「そこ……ぼくの寝床も、つくれそう?」
「サイコーのをつくってやるよ!!」
すっかり暗くなった水のなかを、彼と手をつないで家へ泳いだ。
となりを見て、目があうたびに、恥ずかしそうにくすくす笑う彼を見て、家に帰るのがこんなにうれしいのは、いつぶりだろうと考えて。
またうれしさが尾びれの先まで満ちていって、跳ねるように水を蹴った。
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